topcolumns[美術散歩]
美術散歩


「アートのいま」を巡って―2011年の足あと−

TEXT 菅原義之

 

 2011年を振り返ってみると美術館や画廊などを自分なりに回ったものだ。決して多くはないが、気に入った展覧会にはできるだけ行ったつもりでいる。いくつもの作品に接したが必ずしもすべてが理解できたわけではない。現代アートには面白いものが多いが、必ずしもすべてが理解、納得できるわけではない。その場で面白いと思ったもの、ちょっと考えた後"アッ!そうか"と分かったもの、後になって"そうなんだ"と気付いたもの、最後まで分からなかったものなどいろいろある。それでいいと思っている。自分なりに分かった時ほどすっきりすることってない。これら繰り返しの1年だった。現代アートって「なぜこんな表現を」というのがキーワードのようだ。ちょっと"キザ"な言い方をすれば「目で見る」というより「頭で見る」ということかもしれない。

 現代アートにはいろいろなものがある。芸術という言葉から連想される崇高、高尚、あるいはその流れに続くと考えられるものもあれば、もうちょっと軽い感じのもの、換言すると、"えっ!何でこんな"と、驚くほど素晴らしい発想に感心させられる作品群があるように思う。はっきりこの両者に分けられるわけではないが、大別すると2つの傾向があるのではないか。あまり適切な言葉が見つからないが、整理の都合上、前者を「本来型」、後者を「発想型」としてみよう。
 芸術作品と言えば一般に「本来型」が頭に浮かぶ。これがアートの本流だったんだろう。「発想型」はどうか。このタイプは制作にあたって「とるに足らないこと、些細なことを取り込む」、「身近なもの、日常品を用いる」、「遊び心を取り入れる」、「落書きほか突飛なことをする」、「あえてナンセンスの行為を取り入れる」、「意識的に"ずれ"の表現を用いる」、「過去の名作を流用する」、「異なる専門領域を横断する」、「廃棄物、不要物を作品に転化する」、「漫画・アニメを活用する」、まだまだあろうが気の付いた内容を記すとこのように広い範囲にわたって発想を展開している。
 どちらがいいというわけではなく激動する20世紀の美術の流れの影響を受けながら推移し現在に至っているのではないか。自分のことになるが、歳をとると堪え性がなくなるのか、気がせくのか、高尚なものをじっくり見るよりもっと身近なもの、素晴らしさに驚きを感ずるもの、面白いものに興味がわくのは私だけだろうか。そんなことでどちらかというと「本来型」より「発想型」を多く見てきたようだ。「ようだ」と書いたのはこの1年を整理して見たら「発想型」が圧倒的に多かったからである。ひとりでにこのような作品を追いかけていたのかもしれない。
 なぜこんなことを考えるのか。連綿と続く歴史の最先端、つまり「アートのいま」がどんなことになっているのか、そして、ちょっと先がどうなっていきそうなのかに関心があるからである。ということで、この1年で見てきた作品中特に印象に残ったアーティストを取り上げ分けてみた。数が多いのでやむなく30人に絞った。Web site PEELERに掲載したものを整理したと言っていいかもしれない。

○「本来型」の例として

松江泰治(1963〜)(「アーティスト・ファイル2011」展・国立新美術館)
名和晃平(1975〜)(名和晃平展・東京都現代美術館)
戸谷成雄(1947〜)、遠藤利克(1950〜)(『所沢ビエンナーレ「引込線」2011』)
イケムラレイコ(1951〜)(「イケムラレイコ展」・東京国立近代美術館)
畠山直哉(1958〜)(「畠山直哉展 Natural Stories ナチュラル・ストーリーズ」・東京都写真美術館)
カタリーナ・グロッセ(1961〜)(「ゼロ年代のベルリン」展・東京都現代美術館)

○「発想型」の例として
冨井大裕(1973〜)、八木良太(1980〜)(「MOTアニュアル2011 」展・東京都現代美術館)
森千裕(1978〜)(「VOCA展 2011」・上野の森美術館)
小林耕平(1974〜)(「PLATFORM 2011」展・練馬区美術館)
ブリュノ・ペナド(1970〜)、マチュー・メルシエ(1970〜)、セレステ・ブルシエ=ムージュノ(1961〜)(「フレンチ・ウィンドウ」展・森美術館)
エル・アナツイ(1944〜)(「エル・アナツイ」展・埼玉県立近代美術館)
田中功起(1975〜)、落合多武(1967〜)(「ヨコハマトリエンナーレ2011」
大久保愛(1984〜)、小川浩子(1973〜)(「新世代への視点2011」展・ギャルリー東京ユマニテ、ギャラリーQ)
鈴木繭子(1982〜)、海老塚耕一(1951〜)、利部志穂(1981〜)、中崎透(1976〜)(『所沢ビエンナーレ「引込線」2011』
ネヴィン・アラダグ(1972〜)、ヨン・ボック(1965〜)、マティアス・ヴェルムカ(1978〜)&ミーシャ・ラインカウフ(1977〜)(「ゼロ年代のベルリン」展・東京都現代美術館)
ヤン・シャレルマン(1975〜)、佐伯洋江(1978〜)(「アート・スコープ 2009-2011」―インヴィジブル・メモリーズ展・原美術館)
ライアン・ガンダー(1976〜)(「墜ちるイカロス展」・エルメス・アートフォーラム)
Chim↑Pom(Chim↑Pom「広島!!!!」展・丸木美術館)

 これはあくまでも私の勝手な分類である。当然ながら両方の要素を備えているアーティストもいる。例えば、エル・アナツイはあの巨大な素晴らしいタペストリーに崇高性を感じないわけではないが、日常どこにでもあるボトルキャップを多数使って制作する発想の素晴らしさを優先させた。小川浩子は「本来型」とも考えられるが、ユリの雄しべと雌しべを日常品である岩塩と鉛筆の芯を素材にして制作しさらに発展させる発想が素晴らしいので「発想型」に入れた。海老塚耕一は給食センター内の特殊な展示場所を巧みに使って作品を制作しているところが見事、「発想型」に。また、鈴木繭子の作品は、木枠とテグス、ドローイングとガラスの関係、特に後者が実に面白い。これが「発想型」に入れた理由である。逆に、名和晃平はいわゆる彫刻の流れの延長線上にある現代彫刻のあるべき方向の一つを示しているように思い「本来型」に入れた。このように整理してみると「アートのいま」が見えるような気がするがどうだろう。

1.「アートのいま」(その1)

 上記アーティストを生まれの年代別に整理して見ると次の通り。
年齢別
本来型
発想型
合 計
40年代生まれ
1
1
2名
50年代生まれ
3
1
4名
60年代生まれ
2
3
5名
70年代生まれ
1
14
15名
80年代生まれ
4
4名
合計
7
23
30名
(注)Chim↑Pomは6人からなるユニットなので数には参入していない。その反面、マティアス・ヴェルムカ&ミーシャ・ラインカウフは作品を共同制作しているが、2名に数えた。

 僅少例だが、「本来型」と「発想型」はある程度生まれの年代別棲み分けがなされているように思えた。「本来型」はほぼ50〜60年代以前生まれのアーティストに見られ、「発想型」は60〜70年代以降生まれのアーティストに多いようだ。時代を反映して新しい流れとして登場してきているということだろう。美術評論家松井みどりは70年代生まれのアーティストに見られる傾向として「マイクロポップ」の考え方を提示したが、これが80年代にも引き続いているんだろうか。興味あるところである。
 このように見ると50年代生まれのアーティストのあたりに「本来型」と「発想型」の分かれ目の兆候が見えるように思う。同じ51年生まれでもイケムラレイコ(「本来型」)と森村泰昌(「発想型」)とが典型例のように思えるし、この付近のアーティストを考えると一層そう見えてくるようだ。活躍を始めた頃の流れの影響が強いのかもしれない。だからと言って今後「発想型」が「本来型」に変わっていくと考えているわけではない。現在の傾向として「発想型」が多く見られが、「本来型」を交え、今後の動向を見たいものである。

2.「アートのいま」(その2)

 「発想型」として挙げた小林耕平の作品《2−9−1》(2011)(「PLATFORM 2011」展)とヨン・ボックの《バウムヘーレ・バウヘン》(2011)(「ゼロ年代のベルリン」展)はともに映像作品。小林の作品では連続するナンセンスな行為の中でなぜか自転車の車輪を時々手で回す仕草が気になったし面白かった。ボックでは多くの表現中の一コマ、トイレで派手に嘔吐する仕草がトイレの使用法の「ずれ」をあえて表現しているよう。両者ともよくもまあ、ナンセンスな行為の連続だ、と感心。「ずれの表現」と言っていいのかもしれない。意識的なずれの表現ってたまらなく面白い。細部は別として狙いは両者ともに近いように思えた。
 また、「ヨコハマトリエンナーレ2011」の田中功起と「ゼロ年代のベルリン」展のマティアス・ヴェルムカ&ミーシャ・ラインカウフの作品も共通点があるようだ。田中の映像5点中の1点。公衆の面前で自筆の看板を掲げて何の目的もなく屋根に上がったり下りたりする手助けをわざわざ公衆に依頼するもの。こんなナンセンスな行動をする人と本気で協力する人の動きが凄く面白い。一方、ヴェルムカ&ラインカウフも映像。ベルリン市内のあちこちにブランコを無許可で設置し漕いでいる様子を撮影したもの。地下鉄の線路のすぐ脇、橋の下などに入り込みこんな行為を繰り返す。両者の作品はいずれもナンセンスな行為の連続。普通では考えられない「ずれの表現」であろう。ここが狙いか。
 小林とボック、田中とヴェルムカ&ラインカウフの作品をこのように見ると東京とベルリンとで考え方とか傾向にはかなり近いように思えた。もちろん相違点もあるが類似点のウエイトが大きく映った。ベルリンと言えば今や世界のアートの中心地の一つだろう。僅少例だが、作品の傾向がベルリンと大きな相異がないと確認できただけでも私には発見であり、一例だが、「ゼロ年代のベルリン」展がこれを証明してくれたように思う。グローバル化の影響であろう。「アートのいま」をつかんだような気がした。

 最後に「2011年の足あと」という意味では、東日本大震災が忘れられない。あちこちの展覧会で震災関連の作品が見られた。私の掴んでいる範囲でも陸前高田出身の畠山直哉は「畠山直哉展」で震災後の郷里をあえて撮った写真を他の作品とともに展示し感動を誘った。また、「現代美術展〈分岐点〉2011」では宮城県最南部にアトリエを構える杉崎正則は《宮城レポート》として《震災後、放射能に覆われた宮城里山の風景》を展示し見えない放射能の影響を白黒の合成写真に込めた。その他にも震災、原発問題という悲惨な状況を何とかして乗り越えようとの数々の励ましの作品を制作している様子が見られた。横浜トリエンナーレのジュン・グエン=ハツシバ、所沢ビエンナーレの中山正樹や水谷一の作品などがその典型例であろう。いずれも素晴らしい作品でアーティストの気持ちが心底伝わるものだった。一刻も早い復旧、復興を期したいものである。

 
 
著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、生命保険会社退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室MOMASコレクション作品ガイド)を行う。

ウエブサイト アートの落書き帳

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。


topnewsreviewscolumnspeoplespecialarchivewhat's PEELERwritersnewslettermail

Copyright (C) PEELER. All Rights Reserved.