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美術散歩


アートの現在地点を
「ゼロ年代のベルリン」展に見る

TEXT 菅原義之


ゼロ年代のベルリン


 
 《ゼロ年代のベルリン 私たちに許された特別な場所の現在(いま)》、東京都現代美術館(2011・9・23〜2012・1・9)にて開催。この企画を見た途端に早期開催を待ち望んだ。アーティストにとって最も魅力的な都市と言われているベルリンで今どんな作品が制作されているかを知るいい機会だったからだ。ベルリンを見れば最先端がどんなものか垣間見ることができるかもしれない。現在の日本と異なるのか、近いのか、共通する傾向が見られるのかなどに興味があった。アーティスト数14名、印象に残った作品を順不同で取り上げてみたい。

ネヴィン・アラダグ 《心ゆくまで騒ごう》2007


 
ネヴィン・アラダグ(1972/トルコ生まれ)
 映像作品《心ゆくまで騒ごう》(2007)。東西ベルリンの境界にあったビルの屋上でハイヒールを履いた4人の女性がヘッドホーンを付けてそれぞれ違った音楽を聞きながら踊るシーンである。場所が場所だけに踊っている様子はいかにも自由を満喫しているように映る。音楽がステップを通して音に変わる様子を撮った作品とのこと。それぞれのステップがリズミカルで心地よい。また、同時展示の映像《ヴォイス・オーバー》、《シティ・ランゲージV》。戸外に置かれたドラムに強く雨水が当たり音を奏でる、走行する車窓からかざしたハーモニカが音をたてる、いろいろな人の手拍子が意思伝達のよう、このように音を取り込んだ作品を制作している。軽い発想だが心に響く。平穏な日常生活に刺激を与える、ゆさぶりをかけるなどを思考しているようだ。発想の良さ、面白さに感心した。

ヨン・ボック
《ヘリボーン式搾乳室》2010
Photo: Jan Windszus
Courtesy: Klosterfelde, Berlin; Anton Kern, New York
© John Bock [参考画像]
 
ヨン・ボック(1965/ドイツ生まれ)
 ヨン・ボックの映像作品は東京の風景を題材にした新作だそうである。展示コーナーにはパフォーマンス用手製ツールが床にいくつも展示され隅にこれらを収納する大きなトランクが置かれていた。ヨン・ボックはこのトランク持参で都内各所を歩き回り、ツールを取り出しパフォーマンスを繰り広げる。披瀝されるパフォーマンスは、奇妙なもの、グロテスクなもの、ユーモラスなもの、観客を巻き込むものなどいろいろ。どれを見てもナンセンスなものばかりである。日常の平穏な生活に揺さぶりをかけようとするのか。正常では考えられない一種の「ずれ」の表現か。次から次へと繰り広げられ、つい見とれてしまう。先日練馬区美術館で見た小林耕平の映像《2−9−1》、あの無意味な行動の連続する場面を思い出してしまった。これ等ってなぜか面白い。

フジ・リユナイテッド(サイモン・フジワラ&カン・フジワラ) 《再会のための予行練習》2011

サイモン・フジワラ(1982/ロンドン生まれ)
 作品は《再会のための予行練習》(2011)。サイモン・フジワラの父(カン・フジワラ)は日本人で母がイギリス人である。サイモンはベルリンで活躍している。離れて暮らしてきた日本にいる父親と再会し茶器のセットを制作するという筋書き。この筋書きを予行練習でサイモン・フジワラと父の代役を務める外人俳優の2人が演じる映像作品である。最後にバーナード・リーチの茶器セットと自分たちの制作したセットと比較し、価値だとか値段だとかの問題ではなく、あることがかえって邪魔になるといって2人でリーチの作品をハンマーで粉砕するシーンで終わる。ここに至るサイモンと俳優とのやり取りが面白い。離れて暮らす父と子の微妙な関係が推察できる。同時に国籍問題も関係あるのかもしれない。


 
イザ・ゲンツケン(1948/ドイツ生まれ)
 イザ・ゲンツケンというとたまたまヴェネチア・ビエンナーレ(2007)のドイツ館で見たゲンツケンの作品が印象に残っていた。石油製品一色で制作した様々なものの批判的展示だったように思う。今回は近代建築の巨匠ミース・ファン・デル・ローエの高層ビル案に着想を得た作品《ベルリンのための新建築》(2001)だった。地階大展示室の中央に8点が展示されていた。高い台座の上に落ち着いた色彩を取り入れた高層建築物の模型が一列に並ぶ。色彩も構造もそれぞれ異なりこれだけ並ぶと圧巻である。ゲンツケンの考えるあるべき建築の姿であろう。

イザ・ゲンツケン 《ベルリンのための新建築》2001


 
カタリーナ・グロッセ(1961/ドイツ生まれ)
 グロッセの作品《無題》は5点とも力強い、生き生きしたグラフィティを連想させる。1点1点はかなり大きく、落ち着いた色彩の魅力的な抽象絵画。見た瞬間惹かれた。なぜか。表現しにくいが一つは色彩、もう一つは造形と言っていいだろうか。画面一面に描かれたもの、余白の多いものなどあるがどちらも魅力的。作品が生きていると言っていいのかもしれない。絵画というと最近では必ずしも中心的存在ではないように取り扱われる。今回も映像が多かった。ところが大展示室に展示されたグロッセの5点は決して引けを取らない。燦然と輝いて見えた。このアーティストは絵画に留まらず絵画と彫刻とを一括した大規模なインスタレーションを手掛けるなど、既存の考えを乗り越え新しい道を切り開いているとのこと。こんな思想が作品にも反映されていたのかもしれない。

カタリーナ・グロッセ 《無題》2011 アクリル絵具/カンヴァス

アンリ・サラ
《入り混じる行為》2003
Courtesy: Hauser & Wirth Zürich London; Galerie Chantal Crousel, Paris; Marian Goodman Gallery, New York; Johnen + Schöttle, Berlin, Cologne, Munich


 
アンリ・サラ(1974/アルバニア生まれ)
 アンリ・サラはアルバニア出身。アルバニアといえば複雑な民族・宗教問題を抱えるとかく問題の多いバルカン半島内の国、しかも富裕国とはいえないだろう。また、かつては東欧圏に属していた。このような背景から人びとはやむなく政治問題に関心を持たざるを得なかったのではないだろうか。こう考えるとこの作品が見えてくるように思えた。映像作品《入り混じる行為》(2003)では強烈なDJが流れ同時に花火か、戦火か、激しい閃光が連続して炸裂する。アルバニアの背景を考えると花火というより戦火に見えてしまう。ビートのきいたテンポの速い自然に体が動くリズミカルな音楽が流れる一方絶えざる戦火、なぜかおかしい、と。音楽と映像とがいかにもアンバランスである。「ずれ」の表現かもしれない。これが面白かった。


マティアス・ヴェルムカ&ミーシャ・ラインカウフ
《ネオンオレンジ色の牛》2005
Coutesy: Matthias Wermke and Mischa Leinkauf

マティアス・ヴェルムカ&ミーシャ・ラインカウフ(マティアス・ヴェルムカ:1978、ミーシャ・ラインカウフ:1977.いずれも旧東ベルリン)
 ヴェルムカがパフォーマンスを、ラインカウフが撮影をこの2人(アーティスト・グループ)による作品である。映像《ネオンオレンジ色の牛》はベルリン市内のあちこちにブランコを無許可で設置し漕いでいる様子を撮影したもの。地下鉄の線路のすぐ脇、橋の下などに入り込みこんな行為を繰り返し実行する。あり得ない光景である。日常あり得ないこと。日常生活に揺さぶりをかけ見る人に問いかけているんだろう。あり得ないことを実行する。普通では考えられない「ずれ」の表現と言っていいのかもしれない。意識的な「ずれ」って面白い。ここが狙いか。

ミン・ウォン 《家族のポートレート(《明日、発ちます》より)》 2011 油彩/カンヴァス


 
ミン・ウォン(1971/シンガポール生まれ)
 タイトル《明日、発ちます》は、イタリア映画「テレオマ」(1968)の主要な登場人物6名すべてをミン・ウォンが演ずる映像作品である。ミン・ウォンの展示コーナーは変わった仕切になっていて、5つの映像が登場人物ごとに同時展開する。ある日ブルジョア家庭に突然訪れた好青年を取り巻く家族4人とメイドとのショートストーリーである。好青年来訪で4人の家族とメイドの5人すべてが自分のアイデンティティを喪失する様子をミン・ウォンが一人で演ずる。これまで何不自由なく暮らしていたブルジョア家庭の崩壊が始まる。ウォンの演技が素晴らしい。誰でも一つのきっかけによってアイデンティティを喪失する可能性があるのか。そうかもしれない。恐ろしい話である。

 ここには一部のアーティストを選んだがこのほかにも面白い作品が何点も見られた。今回展示の作品だけですべてを判断することは短絡に過ぎるが、グローバル時代の反映だろう。ドイツと日本の現在とがあまり離れていないように思えた。以前PEELERに「美術の今を探る」として記載したが、日本で見られる傾向として多いと思うのは「発想の良さに感心する作品」、「ずれの表現の面白さを表す作品」、「日常品を用いる作品」、「政治色の強い作品、社会への言及作品」、「領域横断の作品」などであろう。
 今回の展示を見て類似点として考えられるのは、ネヴィン・アラダグの楽器の本来の使用法と異なる使い方をする発想、アリシア・クワデのこれまでの作品などは「発想の良さに感心する」し、ヨン・ボックのナンセンスな行為、アンリ・サラのアンバランス表現、マティアス・ヴェルムカ&ミーシャ・ラインカウフのブランコなどは「ずれの表現」の面白さを表していた。「日常品を使用して制作する作品」は日本でも多いが、ヘギュ・ヤンの封筒を使った奇麗な作品。ブランコもそうだろう。「政治色の強い作品、社会への言及作品」はキアスティーネ・レープストーフ。ネヴィン・アラダグの東西の境界線上のビルもそうかもしれない。その他「映像作品」が多かったが、これも日本と同様だろう。「領域横断型作品」の随所に見られるのも同様だろう。
 相違点として挙げるとすれば、ヨン・ボックは、ナンセンスの度合いが強烈。こんな強烈な表現は日本では見られないのではないか。カタリーナ・グロッセの輝きのある絵画。これも同様か。サイモン・フジワラ、ミン・ウォンなどの国籍とかアイデンティティに関する問題を扱うものも多国籍者の集まるベルリンの特徴か。また、例のブランコは無許可で市内のあちこちで撮影しているが、自由とか余裕とかユーモアが感じられる。日本だったら直ぐに捕まってしまいそうだ。アートが日常の中に入り込んでいるのかもしれない。
 このようにドイツと日本との類似する点、相違する点などを見ることができたように思う。このあたりがアートの現在地点なのかもしれない。全体に見て面白い参考になる展覧会だった。
 
 
著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、生命保険会社退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室MOMASコレクション作品ガイド)を行う。

ウエブサイト アートの落書き帳

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。


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