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美術散歩

「美術の今」を探る

TEXT 菅原義之

 年度変りを前後して「アーティスト・ファイル2010」展(国立新美術館)、「六本木クロッシング2010:芸術は可能か」展(森美術館)、「MOTアニュアル2010:装飾」展(東京都現代美術館)、「VOCA展2010」(上野の森美術館)など、立て続けに「美術の今」を探る展覧会が続いた。興味あるものばかりだった。
 最近の美術の世界は分かりにくい。広範囲にわたっていて中には他の分野とのクロッシング作品すらある。見て教えられることが多い。そんなことでこれらの展覧会は「美術の今」を見るのに大いに役立った。社会への言及型、領域横断型、「ずれ」表現の面白さ、日常生活に触れるもの、実虚像現出型など言いつくせないが、内容の豊富さ、範囲の広さは驚くほどである。まるで大河が扇状地に出て、いくつもの流れに変わったかのような思いさえする。大きな物語のない時代、アーティストそれぞれの努力がにじみ出ているようでもあった。
 「美術の今」を探るのに絶好の時期かもしれない。いい機会なので何とか整理できないものか、と。そう考えたら去年開催された「第1回所沢ビエンナーレ」が浮かんだ。ほんの少し携わったこともあり、これも含めて考えればより広範囲をカバーできる。含めることにした。まだまだ、見たりないところ、理解不足などある。気づけばあとで修正すればいい。とにかく現状を一度捉えてみよう。僅少例だが、進めることにした。
 「六本木クロッシング」展ではテーマを5つに分類していた。これを参考にしつつ下記5項目に分類した。同一アーティストが複数項目に属することもある。対象作品は主として上記展覧会展示のものとした。以下は記載方法である。
 ○アーティスト名後の( )内は該当展覧会の下記略号で示した。
「アーティス・トファイル」展(ファイル)、「六本木クロッシング」展(六本木)、「MOTアニュアル」展(MOT)、「VOCA展」(VOCA)、「所沢ビエンナーレ」(所沢)。
 ○各項目の氏名順はアイウエオ順。
 ○《》内は作品名。
 ○「六本木クロッシング」展と「所沢ビエンナーレ」は写真掲載が可能なので適宜掲出した。


作家:Chim↑Pom
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスでライセンスされています。


作家:手塚愛子


作家:森村泰昌
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスでライセンスされています。
 

1. 社会へ言及しようとする表現 


 社会への言及表現はいつの時代でも誰にでもあるだろう。ここではその傾向が強く出ている、あるいは明確に表現されているものを選んだ。
 Chim↑Pom(六本木)、《Show cake xxx!!》。中央にロダンの彫刻《接吻》を流用した作品が置かれ、その周辺は飲み物、食べ物が散乱状態、パーティー風景だ。この環境とロダンの彫刻とがいかにもアンバランス。芸術って身近で楽しくあるべき。「芸術=高尚」に対する批判であろう。痛快。手塚愛子(所沢)、刺繍作品。天井から天井へたるむように吊るされた大きな白い布に、ひらがなと英語とで「こくみん」、「どういつせい」、「さけめ」、「とうごう」、「あい」、「あく」、「とみ」、「くに」、「きが」、「おきて」・・・の刺繍。世界で発生する未解決難問を間接的に指摘しているようだ。糸の滴りは涙か? 簡潔表現だが内容が伝わる。見事。照屋勇賢(六本木)、《来るべき世界に》。04年沖縄にて米軍ヘリ墜落事件発生時、県警や行政関係者を排除し、ピザ配達人だけを現場へ入れたことを指摘。不条理そのもの。ちなみに照屋は沖縄出身。森村泰昌(六本木)、チャップリン演ずる映画「独裁者」を取り上げ、チャップリンに森村がなりきり、実質的独裁者ヒットラーを演ずる。ナチズムに対する強烈な批判的風刺を込める。帽子のエンブレムが「笑」の一字。独裁者の演説内容も独裁者批判。面白いの一言。横内賢太郎(MOT、所沢)、オークションのカタログを写真に撮り絵画に反映させる。オークションといえば「人間の欲望の代表」=「既存の価値体系」を批判的に取り入れているようだ。ステイニング技法により控え目な表現にしているのか。惹かれる。米田知子(六本木)、《Kimusa》。韓国国軍機務司令部「キムサ」の内部である。普段見ることのできないところを写真で表現する。この建物は日本統治下官立病院だった。12年には国立現代美術館の分館になる予定。政治と歴史を実感させる。

2. 領域を横断する表現

 
作家:HITOTZUKI
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスでライセンスされています。
 現在の美術の領域は広範囲にわたり、絵画、立体、彫刻、写真、映像、建築、陶芸、デザイン、アニメ、インスタレーションなどに及び、時には領域を横断する。
 青木克世(MOT)、陶芸による彫刻作品。印象派の名画を入れるようなゴテゴテした白い額縁とタイルに描いた絵画3点。全て陶磁器製だ。白が基調で額縁、絵画とも驚くほど繊細で、装飾の極みか。型取りしない手製とのこと。白一色の室内、作品の陰影が際立つ。異空間にいるよう。見事。宇治野宗輝(六本木)、音楽つき巨大立体作品。「塔」、「自動車」、「ロボット」3者の一体作品。「塔」の上にあるデュシャンの《びんの乾燥器》がアートを主張しているよう。いくつものスピーカーからビートのきいた音楽、「自動車」の後部は蛍光灯の点滅。箪笥、テレビ、スピーカーなどを使った「ロボット」。3者どれからもサウンドが。スケールとパーカッションが凄い。清川あさみ(VOCA)、《HAZY DREAM》。刺繍を写真に取り入れる。空から見た白黒の都会風景写真に刺繍する。刺繍後再度写真に撮る。これを繰り返し行うようだ。写真の変容により幻想的な世界が出現する。中谷ミチコ(VOCA)、絵画なのに彫刻のよう。大きな厚い石膏板を削りその中に少女の絵を描く。窪みに透明樹脂を挿入し絵画を封じ込める。見る角度により絵画が立体的に見える。逆レリーフか。トリッキーな作品。発想が面白い。HITOTZUKI(六本木)、《The Firmament》(天空)。絵画と立体の両用作品。壁面に青を基調とした巨大で鮮やかに描かれた絵画。同色のスケートボード用のセクション付きだ。造形と色彩に見とれる。HITOTZUKIは壁画制作するKamiとSasuによるユニット。Kamiはスケーターでもある。南野馨(ファイル)、陶芸による抽象立体作品。白黒2色の中空6角形の陶器をいくつもボルトナットで繋げた4メートル以上に及ぶものだ。一見金属性ともとれる。色彩と形態が魅力。迫力を感ずる。三宅沙織(VOCA)、絵画と写真の横断作品2点。透明のシートに少女のいる室内の絵を描き、それに光を当て印画紙に定着させる。フォトグラムの手法である。複数枚のシートを使うなど技法は複雑だ。室内には小さな円形、星型、雪の結晶模様などが浮遊。独特の白黒の世界が現出する。


作家:利部志穂(手前から奥の赤色の逆三角表示までが作品)


作家:照屋勇賢
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスでライセンスされています。
 

3. 新しい領域を切り開こうとする表現 


 こんな分類をすればすべてここに収まりそうである。ここでは他の特徴に優先して出ていると思われる作品を取り上げた。特異なコンセプト、アイディアを用いた表現と言えるかもしれない。
 飯田竜太(所沢)、素材は百科事典の1冊か? 絵の部分を全て1枚ずつ切り取り大きなパネルにびっしり針で止め、文字部分は1行ずつ全て切取ってパネル中央にある大きな瓶に封じ込める。元の本は文字も絵もない抜け殻のよう。本を解体して彫刻作品として再構成しているのか。(作品の写真は5に掲出)。利部志穂(所沢、VOCA)、拾い集めた廃物他を利用して思いもかけないインスタレーションを展開する。こうも変わるものかと思う。廃物の絶妙な配置が素晴らしい。加藤翼(六本木)、自分の住まい他を若干縮小制作し、「引き倒し」として大勢の人を巻き込んで紐で引き倒すもの。引き倒しの参加者、それを見る観衆共に引き込む。参加者、観衆など集客力極めて大。新しい領域かもしれない。面白い。清川あさみ(VOCA)、「2.領域の横断」に前出。新しい領域作品でもあろう。斎藤ちさと(ファイル)、炭酸水から出る気泡を通して向こうの世界を撮った写真。気泡越しに見る光景は独特の雰囲気がある。気泡に焦点を当て背後に現れる茫洋とした世界が魅力的。多和田有希(VOCA)、都市部を遠望するカラー風景写真の表面に傷をつける、削るなどする。大小の網目を通して風景を見るよう。手法は極めて繊細。現出する異質世界が見事。照屋勇賢(六本木)、「1.社会への言及」に前出。ここは別作品。高級ブランド店などの紙袋の側面をカットしその紙で1本の樹木を制作し紙袋の中に飾る。カット部分から入る光が鮮やかに樹木を照らす。表現の繊細さに驚く。紙袋の色により樹木の色が変わる。小作品だが見事。中谷ミチコ(VOCA)、「2.領域横断」に前出。新しい領域か。福田尚代(ファイル)、本の彫刻、本、はがき、名刺などへの刺繍、長い回文ほか広い範囲にわたって文字、文章に関連した作品を制作する。アイディアが溢れ出るようである。三宅沙織(VOCA)、「2.領域の横断」に前出。新しい領域表現であろう。


小金沢健人
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスでライセンスされています。


作家:冨井大裕
 

4.「ずれ」や「日常性」に関する表現 


 「ずれ」表現の面白さってある。何でこんな面白い発想が浮かぶのかと感心する。また、「日常性」に関する表現も身近で親近感がある。両者は身近なところ、身の回りから現れるのかもしれない。
 宇治野宗輝(六本木)、「2.領域の横断」に前出。「自動車」、「箪笥」、「スピーカー」、「蛍光灯」、「電球」、「テーブル」ほか「日常品の集合体」による作品である。「巨大」、「雑然」、「物の本来の使い方をしない」、「パーカッション」などなど、尋常でない。「狂気?の作品」のようだが面白い。「ずれ」表現の面白さか。「ずれ」って日常性の中の尋常でないところから発生するのかもしれない。小金沢健人(六本木)、水の入ったコップの縁を指でしきりにグルグルと撫でている映像作品。この動作が室内4面の壁面に数多く映る。単調だが、不思議な「音」のハーモニーが流れる。撫でるだけでこんな音が出るかな?と不思議に思う。小金沢は「日常」の中に潜む謎や美しさ、おかしさを表現するとのこと。その通りかもしれない。白井美穂(所沢)、映像作品2点。ディスコ、野球など現実の世界に対して、ペリー、阿修羅、菩薩など歴史上、宗教上の問題の同時提起である。「ギャップ」というか、「ズレ」というか、こんな世界、不条理の世界を表現しているようだ。コンセプチュアルだが面白い。Chim↑Pom(六本木)、「1.社会への言及」に前出。飲み物のグラス、ボトル、食べ物や皿などごく卑近な日常品散乱状態の中にロダンの彫刻。これ自体異様だ。「あり得ない異様な環境=ずれ」そのもの。なぜか面白い。冨井大裕(所沢)、《ball pipe ball》。このほか《ball sheet ball》は、カラーボールの間に透明なプラスチックシートを挟み何段も積み重ねたもの、《board pencil board》は、きれいな色鉛筆を透明なシートに何段も挟んだもの。すべて日常品を使用して見事な作品に変貌させる。今回もその延長線上だろう。見事。

5.実像(実体)と虚像(虚構)の現出、心象世界の表現

 
作家:飯田竜太

 どう見ても「少し変だ」と思われるが、なぜか惹かれる作品ってある。アーティストの持つ独特の想像世界の表現か。これが魅力なのかもしれない。
 雨宮庸介(六本木)、暗い部屋に映像が映る。一方、これとは別に雨宮のパフォーマンスが始まる。「パフォーマンス=実像」と「映像=虚像?」か。パフォーマンスが映像を追いかけているように思える。不思議な光景が展開され思考が両者を往還する。惹き込まれる。飯田竜太(所沢)、「3.新しい領域」に前出。「百科事典=実体」、「抜け殻の百科事典=虚構」といえるかもしれない。清川あさみ(VOCA)、「2.領域の横断」に前出。「空から見た白黒の都会風景写真=実体」、「変容した作品=虚構」。元の写真が気になる。桑久保徹(ファイル)、花瓶から人が半身を乗り出す。海岸で日常生活ほかが展開される。何とも異様な光景である。桑久保の持つ独特の心象世界か。あるいは何か「海岸など具体的な世界=実像」があって、それを「作品=心象世界」として構築しているのかもしれない。大胆と繊細とが混在しているよう。筆触、色彩も魅力的。坂本夏子(VOCA)。《BATH, L》。青と白と黒を基調にしたゆがんだタイル張りの浴槽に裸婦と着衣の女性を描いた絵画。裸婦、着衣(女性の実像)、水面に映っている(虚像)など全体に揺らぎをもたらした不思議な光景である。坂本の持つ心象風景なのかもしれない。塩保朋子(MOT)、風になびく樹木の光景を巨大な白い紙を細かく切り抜いて表現しているようだ。薄暗い部屋の中でこの切り絵に左右上部からライトがあたり、うしろの白い壁面に影が映る。見た瞬間、後ろにもレースがかかっているのかと勘違いするほど。巨大な「実物=実像」と「影=虚像」とのハーモニーが見事。平下英理(VOCA)、《ラスター》。画面いっぱいに巨大なビルが描かれ、そこに線描による折鶴が何羽も飛んでいる不思議な風景である。折鶴は画面を引っかいたり、削ることで現れる下地で表現しているようだ。「ビル(実像)」風景に対して線描による「骨格だけの折鶴(虚像)」である。意味を見いだせないが、折鶴が効果的。平下の心象表現かもしれない。


 ここに登場したアーティストは70年、80年代生まれが圧倒的に多かった。したがってこの年代の傾向なのかもしれない。もっと上の年代もかつては「新しい領域」を切り開いたといえるだろう。森村はその典型だ。また、80年代生まれのアーティストの活躍が目立ったのも印象的だった。
 2008年の「アーティスト・ファイル」展では白井美穂の映像にデュシャンが登場していた。今回は「六本木クロッシング」展で宇治野宗輝にデュシャンの《びんの乾燥器》(1913)が登場している。100年近く前のデュシャンがいまだに出現するのはどういうことだろう。それだけ影響力が大きかったからか。デュシャンが20世紀美術の世界を大きく変えたのかもしれない。
 20世紀も美術の傾向はデュシャンを通過し大きく変わりながら60年代にはついにコンセプチュアル・アートに到達した。コンセプト中心で作品のないアートといっていいかもしれない。行きつくところまで行きついた感じだ。その後80年代以降だろうか。世界の美術の流れが大きく変わっていった。大きな物語のない時代に入ったといえるだろう。「目で見る」から「頭で見る」にアートの世界が変わったのではないか。コンセプトとか、アイディアの素晴らしさ、面白さなどが注目されるようになった。コンセプト、アイディアで勝負の時代なのかもしれない。
 作品をじっくり見ると見えてくるものがある。あまりの素晴らしさに驚くこともある。後で気づくこともある。勘違いや見落としもあるが、見えた時ほど嬉しいことはない。感慨も一入である。また見たくなる。「美術の今」ってこんなところにあるのかもしれない。

著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、生命保険会社退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室MOMASコレクション作品ガイド)を行う。

ウエブサイト アートの落書き帳

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。

 


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