topreviews[WATARASE Art Project 2007/群馬・栃木]
WATARASE Art Project 2007

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1.足尾:渡良瀬社宅の共同井戸
2.WAP2007の活動記録展示(花輪のインフォメーションにて)
3.旧花輪小学校での風鈴ワークショップでつくられた風鈴
4.鎭目紋子「空箱に水色」展示風景
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5.門眞妙「山のはなし」(一部)
6. 仁科力蔵「Landscape −水路−」(一部)
7.列車内広告スペースを利用した作家紹介
8.旧桑原利平マンガン工場でのアーカイブ展示
“多様性”が見せる地域の現在

今回のWAPを通観して感じるのは、“多様性”ということだ。
わたらせ渓谷鐵道が足尾銅山の銅鉱石の運搬を目的として敷設されたことは先に述べたが、どうしてもこの域一帯の印象というと、足尾銅山のインパクトが強すぎて、それ以外のものにはどうしても目が届かなくなりがちだ。
また、足尾銅山にしても、かつての繁栄や現在の過疎、そして鉱毒問題といったように、とらえ方が定型的なものになってしまう傾向があるように思う。
しかし、大間々や花輪、神戸といった足尾に至るまでの沿線の街にもそれぞれの文化や風土、人々の生活があるし、足尾にしても、これまで足尾で生きてきた人々の悲喜こもごもの営みがある。
今回の展示を観ていると、そういったそれぞれの街における日々の営みの蓄積のようなものが浮かび上がってくるように感じられた。
今回WAPに参加した作家たちは、それぞれ自分なりの視点でこれらの地域を見つめ、自分ならではの表現を構築していった。
WAPでは、プロジェクト全体のテーマは特に設けていない。あくまでも作家たち個々人の視点や表現を優先させるため、プロジェクトの運営や管理、はたまた個々の展示会場の交渉等もすべて作家たち自身によって行われている。
今回の展示を観ていると、それぞれの作家の視点によって、地域の多様な側面が引き出され、それぞれの地域の姿がよりリアルに浮かび上がってくるように感じるのだ。
それも、それぞれの作家の表現をひとつのテーマの下に平準化してしまうことなく、尊重しあうWAPの方向性ゆえ可能となったことなのだろうと思う。

また、それぞれの作品からは、都市と地方の関係性のようなものが観えてくるように感じる。
今回参加した作家たちは、大半が東京藝術大学をはじめとした首都圏の美術系大学に通う現役の学生であり、リサーチや交渉、実制作も学校生活やアルバイトの間をぬって行われた。いわば、東京での日常生活とわたらせ沿線での制作活動が平行して進行していく構図になっている。
そうしたことが影響したのかどうかはわからないが、それぞれの作品からは、その土地ならではの地域性とともに、それとは異質の、どこか都会的なものが共存しているように感じられるのだ。
こう書くと、いかにも作品が地域に合っていない場違いなものとなっているようだが、実際に作品を観てみると、不思議とそうしたネガティブな印象は受けない。むしろ、都会的な要素が加わることで、その地域の新たな側面や魅力が引き出されるように感じる。
WAPはあくまでも個々の作家たち自身が表現するための場であり、地域の活性化やまちづくりを第一の目的としたプロジェクトではないが、結果として地域に新たな風を吹き込み、徐々にではあっても地域を変えていく可能性を秘めている。それは、“若さ”“よそ者”“アーティストとしての個性”という特性を持つ彼らだからこそできることだ
ろう。

しかしこうした特性はまた一方でウィークポイントでもある、ということは指摘しておかなければならない。
WAPは作家個人の表現を優先させるが故に、プロジェクト全体としての相乗効果や地域全体の盛り上がりに結び付けにくい、という構造的な課題を抱えているように思われるのだ。
このWAPは今回で2回目であり、来年も開催する予定とのことだが、継続するということは、地元からも相応の役割を期待されるということでもある。そのような中で若い作家たちが作家としての主体性を保つことができるのかも注視していかなければならないだろう。

また、気になったのは、個々の作家が地域に真摯に接しているのは作品からも感じ取ることができるのだが、全体的に見るとどうにも優等生すぎるように感じられたことだ。
“毒”が足りない、と言い換えてもいい。
あくまでもそれぞれの作家の個性の問題であり、わがままなのは承知している。しかし、僕たちが見知らぬ土地、見知らぬモノに触れるとき、そこから受ける印象はポジティブなものだけではないはずだ。せっかくこれだけの作家がいるのだから、もっと地域へのネガティブな感情、あるいは地域の人々が“毒”と感じてしまうものを表現する作家がいてもいいのではないか、と思ってしまう。そうしたものにふれることで地域の姿がよりリアルに浮かび上がってくるのであり、それもアートだからこそ、あるいは若いからこそできることなのではないかと思うのだ。


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9.10.クロージングパーティーでのポールダンス(ポールダンサー:khiri)
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そんなことを考えながら、最終日のクロージングパーティーを迎えた。
このクロージングパーティーでは、作家たちによって地元の方々からの差し入れも含めた様々な食材が料理され、来場者にふるまわれたのだが、その中のイベントとして、コバヤシのプロデュースによるポールダンスが行われた。
ポールダンスは足尾の渡良瀬社宅でも行われ、そこでは鑑賞者が家の外から障子に穴を開け、中で繰り広げられているダンスを覗き見するという何とも刺激的な形で行われたのだが、クロージングパーティーでは、大きなスクリーンに皆川俊平によって編集された足尾の風景の映像が目まぐるしく映し出される中でダンスが行われた。
思わず目に毒なのではないかとやきもきさせられるようなセクシーなダンスと、足尾の風景とが速いビートの中で絡みついていく中に身を委ねながら、僕はそれまで感じていたもやもやが晴れていくのを感じていた。足尾の風景に、都会的かつ刺激的なポールダンスという一見“毒”のように見えるものを重ねることで、新たな格好よさを感じさせるとともに、いたずらに過去にとらわれるのではなく地域の現在を肯定する力強さをこのパフォーマンスから感じたからだ。
そしてそれこそが足尾の、そして沿線の街が持つひとつの可能性のように感じる。
足尾銅山もすでに閉山して30年以上が経過し、今後は閉山後に生まれ育った世代が足尾の街を支えていくことになる。今回のWAPの代表を務める的場順平によると、足尾の街でも30〜40代の人々は過去にとらわれず未来を見据えたまちづくりを模索しているのだという。
そうした地元の人々の機運とWAPが結びつくことにより、新たな地域の価値を産み出しうるのではないか、そんな期待を抱かせた。

また一方で、WAPのような試みは作家自身を育てることにもつながる。ホワイトキューブとは全く異なる、場の力の強い展示会場で作品を展示するということ、見知らぬ土地で場所の交渉から実制作、プロジェクト自体の運営まで多くのことを自分たちでやらなければならない環境に身を置くことにより、作家自身の成長を促されるのだ。

作家も地域も育てるプロジェクトへ。
かつて日本の近代化を支えた銅は渡良瀬から失われた。しかし、首都圏の美大からやってきた若い異邦人たちの試みは、そんな渡良瀬の地に、そして彼ら自身にも可能性という名の宝物が埋まっていることに気づかせてくれる。

《参考文献》
『桐生再演アーカイブス』abductive-art collaboration

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