topreviews[アサヒ・アート・コラボレーション「岸にあがった花火−宮永愛子展」/東京]
アサヒ・アート・コラボレーション「岸にあがった花火−宮永愛子展」

 
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1.「貴族的なピエロ」2.「貴族的なピエロ」(一部)(6月16日撮影)3.「貴族的なピエロ」(一部)(7月15日撮影)4.「貴族的なピエロ」(一部)(6月16日撮影)5.「貴族的なピエロ」(一部)(7月15日撮影)
「貴族的なピエロ」(一部)(6月16日撮影)
 
「貴族的なピエロ」(一部)(7月15日撮影)
 
 
「貴族的なピエロ」表面のナフタリンの結晶(7月15日撮影)

時のうつろいが歴史となるまで


宮永がこれまで多く手がけてきているナフタリンの作品は、時間の経過とともにナフタリンが少しずつ昇華して形が崩れていき、ついには消えてしまう。いわば、時の流れそのものが形をまとって現れたかのような印象を与える。
そしてそうした時の流れをより効果的に見せるために、絵画や陶器など、長期間にわたってほとんど形を変えずに残るものと対比させるような展示をこれまでにも試みているが、今回題材に選んだのは、ジョルジュ・ルオーの『貴族的なピエロ』、ロココ時代と1940年代のドレス、そして昭和初期につくられた古い金庫である。

20世紀を代表する宗教画家として名高いジョルジュ・ルオーは、一方でピエロを描いた作品も多く残している。そのうちのひとつが『貴族的なピエロ』である。
ピエロといって僕たちが真っ先にイメージするのはサーカスに登場する道化師だろうが、中世においては、宮廷道化師として王に仕え、諜報活動を行ったり王に意見を具申したりしていたという。
今回、宮永は、そんな王に仕える道化師を現代社会に置き換え、会社に仕えるサラリーマンを象徴する道具(メガネ、腕時計、携帯電話、ネクタイ、靴)をナフタリンで制作した。これらのうち、靴を除いた4つの作品は大きな木製のケースに入れられ、スーツの布地でつくられたふたを開けてのぞき込む格好になっている。
これらの作品は小さいこともあってか、会期中にどんどん形が崩れ、消えていく。会期末になると、メガネのフレームは片方がほとんど消え、携帯電話はキーが陥没し、わずかに原型をとどめていることでかろうじてそれが携帯電話だとわかる状態になっていた。
一方、靴だけは別の透明ケースに入れられており、ケースの内側には、気化したナフタリンが再結晶化して付着している。
この再結晶化したナフタリンは、会期当初の時点ではほとんど見られなかったが、会期が進んでナフタリンの靴が次第に気化していくとともに、ケースの内面をびっしりと埋め尽くすようになっていった。
靴というモチーフは、単なる生活上の道具というだけではなく、それを身につける人の歩んできた足跡や人となりといったもののメタファーであるといえる。
そうした靴がしだいに消えていってきれいな結晶に姿を変えていく様は、そこから新たな生命が生まれていくような生命の連鎖のようなものを感じる。
この作品のサラリーマンに代表される、現代に生きる僕たちもいつかは生を終え、この世界における存在をなくしていく。しかしその足跡は形を変えて次代に引き継がれていくのだ。


 
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6.(手前)「指針」(奥:中央、右)ロココ・スタイルのドレス(18世紀後半)(奥:左)1920年代〜1940年代のドレス7.「指針」

左.「指針」(一部拡大)(7月1日撮影)右.「指針」(一部拡大)(7月15日撮影)
 
左.「闇に届けた話(sumida)」右.「闇に届けた話(sumida)」(一部)
こうした生命の連鎖、あるいは想いの連鎖といったものは、他のナフタリンの作品からも感じ取ることができる。
例えば『指針』では、いくつものカフスをナフタリンでつくられたカフスボタンでつないだ様が、人と人との結びつきのうつろいを感じさせ、『闇に届けた話(sumida)』では、ナフタリンでつくられた鍵と錠前を金庫の中で展示することで、時代を越えても変わることのない、大切なものを永遠にとどめておきたいと願う想いを浮かび上がらせる。

モノたちには、それをつくり出した人、使ってきた人の想いが宿る。
宮永がつくり出すナフタリンの作品は、モノとしての形が消えていくことで、そこにこめられた想いを明確化させる。
そしてそれらと長い年月を経てきたモノたちとを対峙させることで、そうした想いがつながりあって歴史となることに気づかせてくれるのだ。


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