「チャロー!インディア:インド美術の新時代」展は予想にも増して人が入っていた。かなりの人が音声ガイドを耳に解説を聞きながら作品を見ていた。見なれないインド・アーティストの作品展である。解説を聞きながらのほうがわかりやすかっただろう。参加アーティストは27組。象、孔雀など動物の登場、ゴミの散乱する町の様子、混雑する乗り物などに触れる作品が見られインドの特徴がいくつも出ていると思える美術展だった。
インドについてはわからないことだらけだった。これを契機に同展図録やインターネットで調べてみた。
インドは1947年イギリスの植民地から独立、その際インドはインドとイスラム教国家のパキスタンとに分裂した。90年代に入り政治面で社会主義経済体制から経済自由化体制がとられるようになり、外国籍企業のインドへの参入、国内企業も新たなビジネスを展開して、急成長を遂げた。90年代後半から大量消費社会が定着し、街の様子が大きく様変わりしてきたそうである。大量のゴミ流出、農村から都市への人口流入、貧富の格差などの問題が巻き起こった。さらに中間層からは心の問題に対する問いかけからだろう、宗教問題も浮上。多くの問題を抱えつつ90年代以降、政治経済だけでなく各分野にその波が押し寄せたとみることができるだろう。
アート界ではヴィデオやインスタレーションの実験的な手法がとられるようになる。若手の台頭により、性差や消費主義といった新たな主題も取り上げられるようになり、多様化重層化が一気に進んだとのこと。具体的には絵画、彫刻(立体)、写真、映像、インスタレーションなどにより、発展するインド社会の現況、大量消費反映の模様、社会問題に関する建設的提案、コンセプチュアルな作品、観客参加型作品、遊び心、ユーモアある作品など広い範囲にわたって展開されていた。印象に残ったアーティストの作品を見てみよう。
バールティ・ケール(1969〜)
展示室に入るとすぐの壁面にある大きな円形の色彩豊かな作品が目に付いた。いろいろな色彩の丸いシール状のものを内側から渦巻くように外に向かって一つひとつ貼り付けているようだ。規則的に貼付している。これは既婚女性が額に貼り付ける装飾物『ビンディー』だと後でわかった。一つひとつは単色だが、いろいろな色彩が集まると見事な装飾作品だ。元来宗教的な意味合いを持つものだそうだが、現代では装飾性、ファッション性が強調されているとのこと。このように『ビンディー』の意味あい変容に対する本来の姿を問うているのだろうか。また、その脇に象が横たわっている。いかにもインドのアーティストの作品らしさを感ずる。よく見ると象の肌に小さな模様が。毛並みに変わって精子模様が象の肌一面に描かれている。何か変だ。これも『ビンディー』の貼付だそうである。『ビンディー』もここまで変容している。象の皮膚にこんな表現。前作と同様の指摘ではないか。
横たわるのはメス像だそうである。メス象に無数の精子模様である。若々しい発展途上のインドをこんな形で表現したとみることもできるかもしれない。とにかく凄い。
ジティッシュ・カッラト(1974〜)のパノラマ写真が展示されていた。インドの街中風景を撮ったものである。多くのオートリキシャーや町の様子が目に映った。町はゴミが散乱してあまりきれいでない。中央部に男が公衆電話を使って話をしている。よく見るとオートリキシャーと車の一部が重なって映っている。映像を修正したものだろう。車や携帯電話氾濫時代に意識的にだろう、車と多くのオートリキシャー、公衆電話使用風景、さらにビルと二階建ての町並み、ゴミで汚れた街の様子、あふれる看板群など新旧混交したインドの姿をそのまま撮っているかのようだ。背後にはテロ、貧困、天災、人災(紛争)、多民族、言語、宗教など多くの問題を抱えつつも急速に発展している大国インドの力強い姿が垣間見えるようだ。まさに生きているインドの姿だろう。よくぞ捉えたという感じだった。
ヴィヴァン・スンダラム(1943〜)。何点かの作品が展示されていた。1点はうずたかく積まれたゴミの中で生活している少年があるときそのゴミから離れ、別の世界へと舞い上がる映像作品である。ゴミに埋もれた生活を乗り越えて別の世界へと飛躍(発展)しようとする姿かもしれない。あるいは乗り越えつつあるインドの現況を表現しているのか。そのほかゴミを種類別にきれいに並べ写真に撮ったもの、一面に空き缶を並べ見事な模様を作り写真に撮るなどゴミを素材として見事な作品を制作していた。
先日ワンダーサイト渋谷でブラジルのアーティスト、ヴィック・ムニーズの「ビューティフル・アース」展を見た。ゴミを使って制作した写真が何点もあった。インドのスンダラム、ブラジルのムニーズともにゴミを素材としてすばらしい作品を制作している。両国に共通する大きな問題かもしれない。両者は内容こそ異なれゴミを転用する着想と作品の出来栄えは見事の一語。
シルパ・グプタ(1976〜)の作品は一種の影絵を利用したものだった。部屋に入ると大きなスクリーンに自分の影が映る。すると上から綱のような影が自分の影めがけて降りてきてスクリーン上でつながる。何かと思うや物がその綱を伝わって降りてくる。自分の頭に当たるかのよう。次から次へと何かが綱を伝わって落ちてくる。現代インドに起こる種々の難問が降りかかってくるかのようである。一瞬手を上げたりよけようとしたりするが、綱は自分から離れない。人が入ってきて自分を通り越そうとするとその綱がその人に移る。その人も同様の場面に直面する。不思議な光景が影絵で展開されていた。観客参加型の作品だ。入ってくる人が手を上げたりして不思議そう、面白そうに楽しんでいた。
去年開かれた横浜トリエンナーレでもシルパ・グプタの作品が展示されていた。
作品は《見ざる、言わざる、聞かざる》だった。大勢の若者が一列に並んで前の人の目、口、耳などをふさいでいる様子を写したものだ。海岸や高原のすばらしい環境を背にしていた。人が持つべき普遍性をこんな形で表現しているのかもしれない。これをまねて同行した我々5人も同じ行動をとった。内容もさることながら観客を意識した観客誘導型作品かもしれない。
トゥシャール・ジョーグ(1966〜)。アーティストにもいろいろな人がいる。この人は社会問題にも関与しているようである。面白かったのは、床に人の足型が番号つきで1から20ほどだったか描いてあった。3種類あった。その番号順に足を動かすと身体が回転する場面があったりでなかなか大変だ。ムンバイはインド第1の大都市だ。電車が混雑して誰でも身の処し方に苦労する。解決する方法として足型どおりに身を処すといいという作品だ。《満員電車での動き方》シリーズの1点だった。役立つかどうかは別として考え方が面白い。そのほかにもいろいろあった。郵便ポストの後ろが開いている。その中に『めがね』がいくつも置かれていた。合法な郵便ポストを利用してやってはいけないところでめがね屋をやっている内容のようだ。ちょっとしたスリルの味わえる様子を作品で提示。ひとつのアイディアであろう。遊び心のある面白いアーティストだった。
アシム・プルカヤスタ(1967〜)。インドの切手、収入印紙のシートが何種類も展示されていた。いずれもインド建国の父マハトマ・ガンディーに因んだ作品だ。《ガンディー 眼鏡なしの男XV》、《ガンディー 眼鏡なしの男Xll》などである。ガンディーといえば『めがね』が連想されるが、よく見るとシートの中央にある1点がガンディーの姿で、その周りの切手や収入印紙は眼鏡をかけてないもの、目の部分を黒く塗りつぶしたものなどである。また、顔を黒で塗りつぶし静かに!の意味で「シーッ」と口に中指だかを当てているシートがあった。タイトルは《見ざる、言わざる、聞かざる》だ。シートの中央部を見ると塗りつぶしてない人物の収入印紙?1枚とその隣は人物もない。これが原型かもしれない。これらはすべて原型にいろいろ手を加えて作品にしている。いずれも中央部に手を入れていないガンディーがいて、周辺部は手が加えられている。このアーティストは自分の出身、育った環境がインド周辺部であり、ガンディーの姿を変容して作品を通して過度の中央集権に対する警鐘をこんな形で乱打しているそうである。表現方法は一見穏やかだが、建国の父ガンディーにインド人が手を加えるなど内容はかなり厳しいものだろう。インドの現状批判かもしれない。コンセプチュアルな作品だった。現在の日本にもこんなアーティストがほしいものである。
リーナ・サイニ・カッラト(1973〜)の作品《同義語》はポートレイト・シリーズである。絵の具を使って描く代わりに数百個のゴム印を使って制作している。ゴム印にいろいろの色のインクをつけてゴム印ごとアクリル板に貼り付けた大きなポートレイト作品である。若い女性、年配の男性、子供だろうか、色彩豊かな作品が展示されていた。これらはインドにおける災厄に見舞われ行方不明となった人たちのもので、存在を喚起するために制作したそうである。制作理由を別にしてもやや距離を置いてみるとなぜか柔らかい感じの伝わるポートレイトだ。背後から見るとゴム印の黒い取っ手が林立し異様に見える。ポートレイトと背後の黒い取っ手の集合。一種の彫刻作品といえるかもしれない。発想が面白かったし目立つ作品でもあった。
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