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美術散歩

「アヴァンギャルド・チャイナ」展を見て

TEXT 菅原義之


同展フライヤー表面、方力鈞の絵画


同展フライヤー裏面


同展図録表紙、彭禹と孫原の立体作品

 国立新美術館で開催された「アヴァンギャルド・チャイナ展」を見た。その後開かれた中国の美術評論家、高名●*1の講演とシンポジウムにも参加した。シンポジウムは「中国の現代美術とこれから」と題したもので高名●*1、牧陽一(埼玉大学教授)、建畠晢(国立国際美術館長)と進行の平井章一(国立新美術館研究員)の出席で行われた。
 内容は面白かった。ほとんど知らなかった中国美術がある程度わかったからである。中国の現代美術というと思い出すのが、以前テレビで見たオークションである。ここでかなり高価な作品が登場しているのに驚いた。日本の現代美術家で有名な白髪一雄の作品が1600万円で落札されたのに対し、中国作家の作品はその10倍以上の高値だった。値段ですべてを評価するわけではないが、白髪一雄とあまりにもかけ離れていた。「なぜか?」ここに興味があった。

 高名●*1の講演とシンポジウムから中国現代美術の特徴がわかった。
 1つは、中国の現代美術は政治と切っても切り離せない。文化大革命を始めとする政治的引き締めに対し、第一次天安門事件(1976)、第二次天安門事件(1989)など民主化に至る闘争が展開された。美術界にもアヴァン・ギャルド(前衛)思想が広がり作品に反映された。
 2つ目は、現在ではあまり用いられていないアヴァン・ギャルドという言葉が高名●*1から再三出た。中国でいうアヴァン・ギャルドは、西欧のモダニズム、中国独自のもの(3つ目)、毛沢東思想の3つからいかに脱却し新たなものを生み出すかが主眼だったようである。
 3つ目は、アヴァン・ギャルド作家といわれているデュシャン、ラウシェンバーグ、ウォーホル、ジェフ・クーンズなどはそれぞれ時代背景の中から登場するが、中国ではデュシャンとジェフ・クーンズが、モダニズムとポストモダニズムが同時に理解された。

 また、中国現代美術の流れを別の切り口から見ることもできる。
「・・・。中国の前衛は、マルセル・デュシャン以降の一世紀に及ぶ西欧の現代アートの歴史を、二十年に凝縮させて展開した。この二十年をさらに見ると、学習・受容は前半の十年ですでに終了していたといってもよく、後半の十年は同時代的に世界のアート・シーンに参入していっている。・・・」(講談社選書「中国現代アート」牧陽一著)
 ここでは79年の「星星画会の結成」から85年からの「ニューウェーブ運動」の展開までが学習期間、90年代以降は世界のアート・シーンに参入していっているとみている。(下記年表参照)

 以上の点からみて、これまで闇の中だった中国現代美術が短期間で世界のアート・シーンへ参入した推移が実験的な面白さを持ってみられること。中国のアヴァンギャルドは官憲との闘争、生死をかけた戦いであり究極のところまで追い詰められた結果の生成物だったこと。ここに興味、魅力、評価があるのだろうか。これらがオークションで高値を呼んでいるところかもしれない。

中国現代美術関連年表
当年表は同展図録、前掲書、美術手帖(06.10、08.10)などから一部借用した。朱記は美術関係。

1949年
中華人民共和国誕生。

1966
文化大革命開始。約10年間中国全土を大混乱に巻き込んだ思想・政治闘争。毛沢東主導により、古い文化を壊し、新しい文化を創り、理想社会を実現しようとした中国全土を巻き込んだ大政治運動。76年の毛沢東死去に伴って終了した。

1976
第一次天安門事件。天安門広場において、文化大革命に批判的な民衆が抗議行動を起こし、北京当局と衝突した。

1979
星星画会、北京で結成。文革後、毛沢東様式を最初に破壊し、表現の自由を訴えた。王克平、馬徳昇、黄鋭、薄雲、楊益平、毛栗子、曲磊磊ら。

1982
反精神汚染キャンペーンの展開。政府の自由化引き締めキャンペーン。このキャンペーンにより「星星画会」などの前衛芸術の活動は発展の余地を奪われ、官製リアリズムの革命芸術が急速に勢力を拡大する。

1984末
同上キャンペーン終結宣言。同上キャンペーンで自由化引き締めを試みたものの、洪水のように押し寄せる西側の情報は、止めることができず容認することになった。

1985
85ニューウェーブ運動(85〜89)興る。同上終結宣言の結果、新たな思想解放運動が大々的に展開される。官製芸術を批判、過激で挑発的な作品を発表。理想主義を掲げた。国際的に活躍する中国人芸術家の大部分が、この運動に出自を持つ。黄永*2、蔡國強、陳箴、谷文達、徐冰、張曉剛、王広義、楊詰蒼、張培力、顧徳新ら。

1986頃
厦門(アモイ)ダダ、黄永●*2を筆頭に結成。ダダイズムを掲げ反芸術を追求した。厦門市新美術館で開催された展覧会の出品作品を、展覧会終了後に焼き尽くした「焼却イベント」が大きなインパクトを残す。

1989/2
中国現代美術展の開催。権威ある中国美術館で、パフォーマンス、インスタレーションを含む現代美術展が開催された。85ニューウェーブ運動は極点に達する。

1989/6
第二次天安門事件。天安門広場において、民主化を求める学生や市民に対して人民解放軍が武力弾圧する。疾風怒濤の文化改革運動(ニューウェーブ運動)は潰えた。

1990初期
シニカル・リアリズム、ポリティカル・ポップという二大潮流の誕生。天安門事件後二大潮流が誕生。シニカル・リアリズムは民主化運動の敗北を経験した作家たちが始めた運動。方力鈞、王勁松、丘敏君ら。ポリティカル・ポップは海外資本の流入を背景に、資本主義などを揶揄的に扱う美術運動。王広義、李山ら。

1992
北京東村。表現に対する規制の強化を逃れようと若い作家が集まり北京東部農村地帯にできた村。もしくはそこで行われた美術活動の傾向。張●*3、馬六明ら。

1990半ば
(1996頃)
艶俗芸術。中国キッチュ。市場経済の発展とともに到来した消費社会を、享楽的かつアイロニカルに映し出した美術傾向。

1990半ば
死体派(傷害芸術)。生々しい肉体の一部や激しい暴力性を作品に取り入れて、身体と精神の境界、生と死の存在を問うた。孫原、彭禹ら。

作家と作品

黄永●*2(ホアン・ヨンピン)(1954〜)
 入るとすぐのところが黄永●*2関係の展示場だった。戸外で何かしきりに燃している映像が壁イッパイに映っていた。一瞬何のことだかわからない。見ると絵画を燃している。黄永●*2は厦門(アモイ)ダダ(1886頃)の創立者だとのこと。その黄永●*2が、厦門の美術館で展覧会をやったが、これも1時間半で当局の介入により閉鎖に追い込まれた。そのときにすべてを火中に投じたそうである。入ってすぐのところから早くも中国の実態を表現していた。
 作品では《無規則な指示どおりに制作された4枚の絵画》(1985)と《円盤》(1985)である。円盤をルーレットのように使うんだろう。その偶然性を活用して指示書にある指示に従って絵画を制作する。抽象絵画4点の展示だった。また、60〜70センチ四方の木箱上に割れた透明ガラスを置きその上に洗濯機で攪拌した紙切れを山のように置いた作品。タイトルには《『中国絵画史』と『現代絵画簡史』とを洗濯機で2分間攪拌した》(1987)とある。両者を超えて新たな歴史を切り開こうとしている姿勢が見た瞬間わかった。コンセプチュアルな作品だが、その明快さに感心した。
 この人はパリで開催の「大地の魔術師たち展」に出席直後に第二次天安門事件(1989年)が発生。国に帰れなくなりパリに留り現在まで制作活動しているそうである。デュシャンに傾倒、そこから吸収した考えを作品に反映しているようだ。「偶然性の採用」(4枚の絵画の制作法)、「既成概念の否定」(過去の歴史の否定)などがそうであろう。
 1997年ミュンスターの彫刻展でデュシャンの《びん乾燥機》をイメージして制作したと思われる大きな作品を街中で見た。デュシャンへのオマージュ作品だったのかもしれない。
 黄永●*2は現在フランスで活躍しているが、当初から外国で活躍している中国人アーティスト蔡國強(1957〜)と比較すると面白いし、その必要もあるだろう。年齢もほぼ同年代である。蔡國強がこの美術展に参加していない理由もよくわかるからである。
 「蔡國強は中国人アーティストとしては特異な位置にいた。1980年代半ばに日本へ留学し、90年代にはニューヨークへと仕事場を移している。確かに伝統的な記号を下に、現代アートを展開したという点では典型的な中国人作家ではある。だが国境を越えること、世界に通じる普遍的な作品を作ることが彼の姿勢であった。であるからこそ、中国の現実とは意図的に距離を保っていたのである。」(前掲書「中国現代アート」牧陽一著)と。こんなことから蔡國強は中国人アーティストというより、中国のしがらみから離れて、国際人として活躍しているためここに入れなかったそうである。黄永●*2はフランスでの生活が長いが、厦門ダダを結成するなどあくまでも中国の現実にかかわっていた点で蔡國強とは異なるだろう。

王広義(ワン・グァンイー)(1956〜)
 絵画《無題(赤い格子の後ろの聖母)》(1988)。赤い格子の背後に聖母が閉じ込められているような作品である。聖母を格子内に閉じ込めるとは厳しい内容でいかにもダダ的な発想ではないか。また、展示にはなかったが、聖母の代わりに毛沢東が格子の中に閉じ込められた絵画(1988)もあるそうである。毛沢東は「赤い太陽」として神聖視され、彼の肖像画は一種の正画像(イコン)として考えられていたとのこと。そうであれば聖母も毛沢東も同じ意味をもつのかもしれない。聖母にしても毛沢東にしても八五美術運動(1985年の解放運動)後のことなので問題が起こらなかったんだろう。
 《唯物主義者》(2002)というタイトルの2点のFRP製立体作品。こぶしを突き出したような大きな力強い男性像である。いかにも典型的な労働者を表現していて凄いインパクトを感ずる。また、絵画《大批判・・》(1992)と描かれた油彩が2点あった。労働者像を描いた絵の中にNikonとかBAND-AIDとかいう語が描かれている。資本主義の代表のような有名企業の商品名を批判的に描いているように見える。
 王広義は黒龍江省吉林にて理想主義を目指して「北方芸術群体」(1984年頃)を結成した。89年2月に開催された中国現代美術展では現代美術が極度に盛んになったが、同年6月の天安門事件以降、民主化に対する官憲の弾圧が厳しくなり、美術界では理想主義が潰え大衆化が進んだ。90年代に入りシニカル・リアリズムとポリティカル・ポップという二大潮流が出現。王広義はここでポリティカル・ポップの代表的な美術家となる。
 前出《唯物主義者》、《大批判・・》は天安門事件以降の作品であり、それ以前のものと異なる。一見資本主義批判しているように思えるポリティカル・ポップの作品であろう。
 シニカル・リアリズムではこれまでの革新的、直接的抵抗からシニカルな表現に変わり、ポリティカル・ポップでは同様の抵抗感を排し労働者讃美、資本主義批判などを取り入れた表現に変わった。いずれにせよこれまで標榜していた革新的理想主義を排しつつも、あくまでも旧い体制に対する否定的態度は引き継いでいたといえるだろう。

方力鈞(ファン・リジュン)(1963〜)
 頭を丸めた同じ顔つきの男たち《シリーズ2 No.3》(1992)、水中に仰向けに浮かんで悟りきっているような人物《1993 No.11》(1993)、女性を背後から抱きかかえている薄ら笑いの男《シリーズ2 No.8》(1991-92)などは方力鈞の油彩である。顔付を見ると世の中を疎んでいる、飽きている、あざ笑っているなど、正常の世界では見られない諦念感丸出しの絵画である。いずれも天安門事件(1989)により民主化が妨げられた後の作品である。民主化に対する諦めはこの当時の中国の人々の気持ちを代表しているのかもしれない。根底には批判精神を持ちながらも体制の直接的批判は難しく、批判意識のまったく感じられない諦念感丸出しの人物を描くなど極端なシニカル表現をしている。ここにシニカル・リアリズムの特徴がある。方力鈞はシニカル・リアリズムの代表的美術家だとのこと。

 張●*3(ジャン・ホァン)(1965〜)の映像作品《12m2》(1994)。作家本人が汚れて不衛生な公衆トイレの中に全裸で1時間も椅子に座っている。蜂蜜を塗った身体にはハエがいやというほどたかっているが、本人は微動だにしない。辛抱の限界を表現しているようだ。不潔である。気持ち悪いなど凄い内容である。天安門事件後の作品。体制側が強くなっていた頃である。強い抵抗感を静かに表現しているんだろう。いかに状況が厳しかったかを物語っている。

 馬六明(マ・リウミン)(1969〜)の作品も身体を使っている。作品《芬-馬六明》(1993)は馬六明扮する12点の女性写真である。なかなか女装が似合う。最も根源的な性差の超越に焦点をあててのパフォーマンスである。制作年代から見て体制側が強くなっていた頃であり、過激な行為により表現の自由を主張することで体制への静かな抵抗を行ったのではないか。
 張●*3と馬六明の作品は北京東村(年表参照)にて制作したもので、内容はかなり強烈である。政治体制に近いところなので官憲の弾圧がより厳しく、抵抗感を強く意識する結果となり、表現も強烈になかったのかも知れない。

 彭禹(ポン・ユウ)(1974〜)、孫原(スン・ユァン)(1972〜)の作品《老人ホーム》(2007)は、広い展示室に大勢のお年寄りの人形がそれぞれ車椅子に乗って部屋をゆっくり行き来している。人形と思えないほどそっくり老人だった。車椅子同士がぶつかると両者とも少し後戻りしてそれぞれ別な方向へと動く。表現方法がユニークでこの展示室に入るや仰天した。車椅子で目的なく単純行動をひたすら試みている老人ばかりだ。見ていると「生」、「死」の境界線上をさまよっているようにさえ思える。この2人の作家は動物だとか人の死骸を表現素材として用いるところから死体派(年表参照)と呼ばれているそうである。

 楊振中(ヤン・ジェンジョン)(1968〜)の作品《I will die.》(2000−2005)は、誰でもが当然迎える死を軽いタッチで世界各国の人々に「私は死にます」と言わせる映像である。切実な内容だが、あまりにも当然過ぎて切実さを感じさせない。不快さ暗さがなく、中には薄笑いしながら話す子どもさえいる。誰にでも理解できる普遍のテーマ。面白い発想だと感心した。2007年のヴェネチア・ビエンナーレでは作品が多くインパクトはなかったが、ここでは印象に残った。

 それぞれの作品を見て中国現代美術の流れが分かるようだった。前掲書で「西欧の現代アートの歴史から見て学習・受容は前半の十年ですでに終了・・・、後半の十年は同時代的に世界のアート・シーンに参入・・・。」と。90年代に入って起こってくるシニカル・リアリズムとポリティカル・ポップ頃から世界のアート・シーンに参入したということだろう。
 シニカル・リアリズムの方力鈞は、中国独特の問題を表現したが、諦念感は中国の特殊事情であると同時に何処にでもあること。そんな意味で中国の問題を超えてみることもできる。偏りの少ない、面白い作品ではないか。王広義はどうか。特にポリティカル・ポップの作品は中国独特の体制を強く推測させる直截的表現であり、社会主義リアリズムを想像せざるを得ない。今回の作品を見る限りでは偏りが過ぎて面白みがないように思う。その前の黄永●*2の方がずっと洗練されていて世界のアート・シーンに参入しているように感ずる。
 また、張●*3はむしろ中国独特のもの。体制に対する強い抵抗感表現は凄さを感ずる。あまりにも狙いが一点に集中しすぎ、表現に「遊び」とか「ゆとり」がないように思えた。馬六明はこの時代からすでに性差の問題を取り上げ、早くも世界時間で物語を作っている。こんなかたちで強い抵抗感を出すのは素晴しい発想ではないか。
 彭禹孫原楊振中の作品はともに「死」をとりあげている。ここには体制に対する暗い抵抗感はみられない。誰でも直面するであろう根源的、普遍的なものを取り上げて作品化している。彭禹と孫原の展示作品は死体派の中でも「死」のとりあげ方が直接的でなく老人と車椅子を使ったユニークな表現。発想がいいし理解しやすかった。また、楊振中は根源的な「死」そのものを軽いタッチでユーモアを交えて取り込んでいるところが素晴しかった。
 いずれにせよ中国現代美術の流れをたどることのできた美術展であり、これまで全くわからなかった中国の現代美術を知るきっかけとなったすばらしい美術展だった。

●のに該当する漢字は下記のとおりです。


   
著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、生命保険会社勤務、退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室作品ガイド)を行う。

ウエブサイト ART.WALKING

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。

 

 

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