topreviews[藤井まり子「Existence」/京都/奥村里菜「tracing」/大阪]
藤井まり子「Existence」/奥村里菜「tracing」

奥村里菜《tracing》2010年 トレーシングペーパーにインク/サイズ可変

存在の耐えられない透明さ


奥村里菜《tracing, tracing, tracing》(部分)2010-2011年 アクリル板/サイズ可変 (撮影・写真提供:Port Gallery T)


奥村里菜《tracing, tracing, tracing》(部分)2010-2011年 布、糸、針/サイズ可変(撮影・写真提供:Port Gallery T)


奥村里菜《tracing, tracing, tracing》2010-2011年 トレーシングペーパー、インク、アクリル板、布、糸、針/サイズ可変(撮影・写真提供:Port Gallery T)




奥村里菜の個展「tracing」を見て、ミラン・クンデラの小説のタイトル『存在の耐えられない軽さ』を思い出した。だが、「耐えられない」のは、重さ/軽さという相対的な差異ではなく、そのような「軽さ」を持つことすら許されない、「透明さ」なのではないか。

数百枚ものトレーシングペーパーに赤い字で綴られた、「神戸新聞社へ」という見出しで始まる文章。奥村が行うのは、「酒鬼薔薇」の声明文を毎日の日課として正確にトレースし続けるという行為である。奥村によれば、書き写したトレーシングペーパーの枚数は、「二百枚か、それ以上はあるかもしれません」という。TVのニュースで名前を読み間違えられたことに対する抗議から始まる文章は、「透明な存在」である自身を造り出した義務教育とそれを生み出した社会への復讐を宣言する。名前の読み間違い、すなわちある固有名を持った存在が否定され、透明な非人称の世界へと溶け出す地点。そうした地点に覆われることに対する抗いの言葉を、奥村は、トレーシングペーパー、刺繍、そしてアクリル板への刻印と様々に媒体を変えて、執拗に反復し続けていく。とりわけ、それ自体透明な素材であるアクリル板に、「透明な」という単語を刻み、何枚も重ねた作品を見た時、その詩的な美しさが孕む残酷さは、こちらの心をヒリヒリと突き刺した。何層もの透明な板の間を、音のない残響のように谺していく言葉が、ぞっとするような冷たさと硬度を持って立ち現れたのである。

奥村が日々反復する行為は、「作品をつくる」というよりは、極めてパーソナルなものであり、詩的であると同時にほとんど狂気を孕んだ行為である。それは、「内なる酒鬼薔薇」との終わりなき対話なのかもしれない。
いや、ここで「酒鬼薔薇」と名指すのは適切ではないだろう(それが忌まわしい記憶やショッキングな事件のことを思い出させるからという倫理的な問題ではなく、この名前が既にある「重さ」を獲得しているからである)。そして、日課として行うという性質上、極めて個人的なものに思える奥村の行為は、パーソナルな領域に属すると同時に、社会的な領域への射程も含んだものである。何よりも奥村が、複製・トレース可能な「文字」を素材として選んでいることの意味は大きい。「透明な存在」としてその固有性や人格を剥奪されたことに対する抗いの言葉は、マスコミが日々垂れ流す情報の海のなかで、その重さを失って文字通り限りなく「透明に」浸透し、消費されていくのだ。伝達可能であると信じられているものが暴く、コミュニケーションの不可能性。奥村自身の言葉を借りれば、「コミュニケートしえないコミュニケーションの残骸」だけが、澱のように溜まっていく。私達の日常の生とは、そうした残滓を拾い上げ、「コミュニケーションのようなもの」を仮構しようとする中に、かろうじて繋ぎとめられたものなのかもしれない。奥村の行為は、社会の中で磨耗され、強度を失っていく叫びを回復しようとする、密やかだがラディカルな抗いの記録として、私の中に刻みつけられた。
その行為を「アート」と呼びうるのであれば、それは資本主義の枠組みの中に組み込まれた、「商品」の生産行為ではなく、何ら実効力もカタルシスを伴った慰撫も持たないからこそ、我々の生と思考を紡いでいくために必要不可欠な、根源的な生の技法(アート)と言うべきものなのである。


奥村里菜 左:《既に無数の穴をたずさえていた》2011年 衣服、ハンガー、洗濯ばさみ、糸/サイズ可変
右:《2010年3月7日》2010年 紙、インク、額縁/28×36cm (撮影・写真提供:Port Gallery T)

また、個展会場には、《tracing》のシリーズ以外の作品も展示されていた。
《既に無数の穴をたずさえていた》(上掲画像)は、衣服の縫い目をほどき、解体したパーツをハンガーから吊り下げた作品である。《tracing》のシリーズでは、痕跡としての文字が提示・反復されていたが、この作品では、当たり前すぎて普段は意識すらしないもの、すなわち私達の意識の中で「透明な存在」である「無数の穴」が痕跡として可視化されている。

衣服の構造を支える「糸」(それ自体は可視的なもの)ではなく、糸をほどいて解体しなければ不可視の存在である「穴」/解体することで初めて可視となる、糸が通っていた痕跡。奥村は、一本の糸で結び合わされている繋がりではなく、そのような繋がりが形成される基底にある、不可視のマトリクスを現出させる。

見ているのに見えていなかったものを露呈させること。私達の日常には、そうした不可視の「無数の穴」が至るところに存在し、解体されるのを待ち受けているのかもしれない。奥村による静かな挑発がつけた、小さな、しかし無数の傷は、やがて裂け目となって日常を侵蝕していく。


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