topreviews[藤井まり子「Existence」/京都/奥村里菜「tracing」/大阪]
藤井まり子「Existence」/奥村里菜「tracing」


気配のポートレートを追って/存在の耐えられない透明さ
TEXT 高嶋慈

私達の「存在」について、それぞれ異なる観点から考えさせてくれる、二つの興味深い個展に出会った。以下では、二本立てのレビューという形で書いてみたい。


気配のポートレートを追って

藤井まり子の個展「Existence」は、DMを手にした時から既に始まっていた。いや、既にその仕掛けの中に取り込まれていたと言った方が良いのかもしれな い。
作品のイメージの代わりに載っているのは、「存在」という語の定義を、辞書から引き写したものだ。だがその文字列は、インクが水に滲んで溶 け出したかのように、あるいはピントの合わないレンズ越しに覗き込んだように、焦点がぼやけたままで、そこに文字が「ある」ことは理解で きても、判読できないのである。どうやらこの展覧会の狙いは、当たり前に「存在」すると考えられているものを、揺らぎを伴った、よく見えないものとして再提示することにあるようだ。
「存在」をテーマとした展覧会の導入に藤井が仕掛けた身振り。それは、展覧会の「存在」それ自体についての問いでもある。展覧会とはどこから始まるのか、物理的な展示空間に一定の質量を伴ったモノとして存在することだけが、展覧会の存在であると言えるのか。


(画像1)藤井まり子《Trace》 画像提供:art project room ARTZONE


(画像2)藤井まり子《Trace》 画像提供:art project room ARTZONE


滲んだ文字の先には何が待っているのか、私は確かめに会場へと向かう。歩道からガラス越しに目に入るのは、会場入り口に置かれたバスタブだ(画像1)。床に散乱する、白い破片。覗き込むと、そこに残された窪みは、二本の脚、臀部、そして腕と手―誰かの身体がそこにあったことを生々しく物語る。これは、バスタブをペースト状の型取り用の素材で満たし、藤井自身が浸かって型を取った後、「脱出」したパフォーマンスの記録なのである(画像2)。
この手法は、ターナー賞受賞作家、アントニー・ゴームリーの彫刻を想起させる。本来ならば、血と肉を備えた/石やブロンズなどで充満しているはずの内部が空洞化され、内包と外部、量塊と空虚が反転した彫刻。物理的な量塊ではなく痕跡として差し出された身体に向かい合う者は、空虚さの充満という反語法の中に、生々しい実体を感じる、という逆説的な体験をすることになる。
藤井のパフォーマンスが提示するのは、アーティストの身体が「かつてそこにあった」ことを確かに示す、物理的な痕跡、すなわち指標である。そして展示室の奥へ進むと、自らの身体の型取りという直接的・一人称的な段階から、他人のポートレートを撮影した写真作品が展示された、第二段階とも言うべきステージに進むことになる(画像3)。


(画像3)藤井まり子《Existence-photo/Portrait》 画像提供:art project room ARTZONE

ただしこの《Existence-photo/Portrait》はどれも、曇った磨りガラス越しに誰かを見ているように、輪郭や目鼻立ちが曖昧にぼかされた、「気配のポートレート」とでも言うべきものである。性別、大まかな髪型、服装の形や色は何となく分かるものの、個人を特定できる視覚的な情報は、靄のかかったような光の中に溶かされ、おぼろげに融解している。存在は知覚可能でも、薄皮一枚を隔てた距離の中で向かいあっているような、もどかしさの感覚。その距離は近いのか、遠いのか。


(画像4)藤井まり子《Distance of existence》 画像提供:art project room ARTZONE


(画像5)藤井まり子《Untitled》 画像提供:art project room ARTZONE


そして会場中央の螺旋階段を上って2階へ上がると、この近さ/遠さの麻痺感覚に、全身を侵されることになる(画像4)。視界を遮る半透明の白い皮膜。ぼんやりと透過する光が柔らかに滲む。突如、ホワイトアウトに襲われたかのような、奇妙な浮遊感。そして物音のする方に目をやると、輪郭が曖昧にぼやけた「誰か」の気配がそこに感じられることに気づく。半透明のシート一枚を隔てて、別の観客が歩き回っているのだ。彼/彼女の存在は、顔や表情が判別できない遠さ/生身の人間が確かにそこにいるという気配だけは感じられる近さが二重に重なり合った感覚として、新たに獲得されるのである。
そう、このインスタレーション作品《Distance of existence》は、観客を身体ごと取り込むことで、先ほど目にした写真作品における視覚経験を、三次元的に体験させる装置なのである。逆に言えば、先ほどの《Existence-photo/Portrait》は、ここでの体験の予兆として存在していたことになる。
そして、このインスタレーションの展示室を出ると、もう一つの仕掛けに相対させられることになる(画像5)。ちょうど目線の高さに掛けられた、正方形の鏡面。ただしそこに、近づいた私の姿ははっきりとは映らない。磨りガラスのような特殊加工が施されているため、この最後の仕掛けにより、見る者自身が「気配のポートレート」に取り込まれてしまうのだ。
そう気づいた時、《Distance of existence》のインスタレーションにおける体験は、もう一つの意味を持ち始めることになる。おぼろげな気配として知覚された他者の存在は、別の観客から見れば、この私自身の存在のことでもあったのだ。他者の目を通して自分の存在に向き合うという擬似体験。その時、確固たる輪郭を備えていたはずのものが溶解し始め、私の存在は相対化されていく。こうして、抜け殻のような作家自身の身体の痕跡を提示することから始まった「Existence」という一つの実験装置においては、平面と立体の間を往還しながら、存在することについて、見ること/見られることについての問いが変奏され、最終的には観客自身の「存在」についての問いへと送り返されるのである。

このように、観客の身体を巻き込み、「身体」「見ること/見られること」「近さ/遠さの感覚」という点から「存在」の確かさと不確かさについて問いかけている藤井の試みに対し、「言葉」を用いたアプローチにより、情報の伝達と消費が加速化する社会の中で透過/淘汰されていく個人の生について問うているのは、奥村里菜の作品である。

  12 次のページへ

藤井まり子「Existence」
2011年3月12日〜27日

art project room ARTZONE(京都市中京区)

奥村里菜「tracing」
2011年3月7日〜19日

Port Gallery T(大阪市西区)
 
著者のプロフィールや、近況など。

高嶋慈(たかしまめぐみ)

1983年大阪府生まれ。
京都大学大学院在籍。『明倫art』(京都芸術センター発行紙)にて隔月で展評を執筆。関西をベースに発信していきます。

京都芸術センターが発行する通信紙『明倫art』にて、4月より、隔月で展評を執筆させていただけることになりました。第一回目は、「風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム、アジアから」展(国立国際美術館)について。京都芸術センター他、市内や主要都市の文化施設で無料配布されています。お立ち寄りの際は、お手に取っていただければと思います。





topnewsreviewscolumnspeoplespecialarchivewhat's PEELERwritersnewslettermail

Copyright (C) PEELER. All Rights Reserved.