topreviews「ignore your perspective 10 “Is next phase coming?”」「展覧会ドラフト2011 TRANS COMPLEX―情報技術時代の絵画」/京都
「ignore your perspective 10 」「展覧会ドラフト2011」
 

村山悟郎 ウォールドローイング 京都芸術センター ギャラリー北 photo:大島拓也
【注1】村山の展示会場において、制作ボランティアに「描画についての最低限のルール」の指示だけ与えて描かせたウォールドローイングが発表されている点は、非常に示唆的である。
迷路を思わせる下書きの鉛筆の線がベースとなっており、一本の線上に任意の一点を取り、それを起点に逆V字型の線を引く。下段の下書きの線と交わった二つの交点のそれぞれを新たな起点として、さらに逆V字を引いていくという単純な作業に、色彩の選択のルールが加わったものと推察される。こうして(支持体となる壁の面積という物理的な限界を無視すれば)、ピラミッド状に無限に増殖可能な形態が生み出されていく。


彦坂、村山、関口の作品については、具体的にどのような「ルール」が作品内で駆動しているのか、説明がなければ分からない、という批判があるかもしれない。だが、重要なのは、「ルール」自体の表層的な理解ではなく、ある「システム」が作品を支えるものとして「仮構されている」ものの、それ自体は不可視であり、また不断に更新されていくため、全体像を把握できないという点にある。
彼らの作品が問いかけるのは、「規定の平面に何らかの記号的表現を描くもの」としての「絵画」を無条件に前提している、実在論的な姿勢に他ならない。「システムを偽装すること」の真の意義は、そうした問いを射程に含んでいることにある。原理的には誰でも再現可能であり、従って共有可能な方法論(【注1】)へと還元し、システムとして偽装することで、逆説的に、「絵画」は(実体ではなく)そのような仮構のシステムであることが暴かれているのだ。
では、その「絵画」のシステムを仮構し、ルールの設定/更新/書き換えを行うことで作動させている主体とは誰である(あった)のか?単純化して言えば、それは(近代以降の日本が受容してきた)西欧の「絵画」理念、「絵画」の歴史の総体と仮定することができるだろう。遠近法や明暗法、色彩分割、キュビスム、フォーマリズム…など、「絵画」というシステムが機能し、維持するように設定と更新が繰り返されてきた「ルール」の数々。
ここで、最後に本展のタイトルを振り返るなら、「TRANS COMPLEX」とは、展覧会リーフレットによれば、複雑系の科学理論や、相互作用によって形成されるシステム内部に組み込まれた主体のあり方への言及として「透明な複雑さ」と解されているが、もう一つの意味を読み取ることが可能である。すなわち、「コンプレックスを越える」―西欧近代の「絵画」概念や「絵画」史を無批判に受容するのではなく、(かと言ってサブカルチャーの力との融合によるエキゾチシズムの変形に依存するのでもなく)、「絵画」をメタ的に偽装することで乗り越え、新たな可能性を再構築しようとする、果敢な試みへの命名として解釈できるのではないだろうか。


和田真由子 展示風景 撮影/写真提供:児玉画廊

「絵画的なもの」のもう一つの位相―和田真由子、貴志真生也


和田真由子《鳥》2010年 ビニールシート、合板、紙粘土、メディウム 27 x 16 x 80(h) cm 撮影/写真提供:児玉画廊


貴志真生也《アナクロニム 1》2010年 木材、紙、インク、アクリル絵の具、ウレタンシート、テープ、コンクリートブロック、ワイヤー、キャンバス等 約 332 x 420 x 400(h) cm 撮影/写真提供:児玉画廊


「ignore your perspective 10 “Is next phase coming?”」展に出品されていた和田真由子の作品は、上述の彦坂、村山、関口とは別のアプローチによる、「絵画的なもの」への取りくみであると思われる。四角い木枠に、あるいは壁に直接かけられた和田の作品は、透明なシートの間から、白い鳥の羽のような形象や、二股に分かれたツバメの黒い尻尾のような形象が垣間見えている、不思議な印象を与えるものである。和田によれば、頭に浮かんだ鳥のビジョンをそのままキャンバスに描くのではなく、イメージを出力するメカニズムをどのように視覚化できるか、について考えているという。その際、重要な役割を果しているのが、素材の物質感の差異である。例えば、鳥の白い翼といった、鮮明に浮かんだビジョンには硬い板が用いられ、白く塗られているのに対し、不鮮明な胴体の部分は柔らかく透明なビニールシートが使われているという。つまり、画材や溶液の選択、絵具の塗りの薄さ/厚さやタッチの粗さ/細かさといった差異の代わりに、透明なシート/厚紙/板といった素材の物質感の違いへと置き換えられているのである。平面性と立体性を同時に獲得した、ハイブリッドな和田の作品は、イメージが立ち上がる場について独自の考察を行っていると言えるだろう。
一方、貴志真生也の作品は立体ではあるものの、角材の囲いが空間を仕切る「フレーム性」が、絵画のメタファーとして読み取りたくなる誘惑に誘われた。貴志はブルーシートや角材、発砲スチロールといった身近で安価な素材を用いて、即興的に雑然と置かれただけなのか、それともいかなる意味づけも拒むような計算ずくの配置が慎重になされているのか、判然としない仕方で、空間の中に配置を行う。それは何かのイメージや形象というよりも、出来事の生起と言った方が近い。そして「結界」のように空間を仕切る囲いは、建設現場のような雰囲気や仮設性を強調する一方で、「作品」が文字通りのカオスへと崩壊することをぎりぎり防いでもいる。ここに、劇場の舞台空間のような、絵画の矩形のフレームと描かれた中身の関係に対する一種の比喩的な考察を読み取ることができるかもしれない。ただしここでは、もはや「中身」には意味作用や表象行為と呼べるものはなく、ただむき出しのマテリアルだけが、意味や価値付けをあざ笑うかのように、その存在感を主張しているのである。


貴志真生也《リトル・ヘラクレス 2》2010年 木材、ブルーシート、発泡スチロール、金属パイプ、コンクリートブロック、照明装置等 約 400 x 400 x 300(h) cm 撮影/写真提供:児玉画廊

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