topreviews[刺繍のワッペン 淺井裕介/のら美術館計画/東京]
刺繍のワッペン 淺井裕介/のら美術館計画

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〜世界を紡ぐ音〜
淺井裕介「刺繍のワッペン」
「のら美術館計画」

TEXT 田多知子
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 それは、ある晴れた二月の午後のことで、私は道に迷ってずいぶん遠くまできていた。何度か道を尋ね、細い路地を通ってようやく、その「阿佐ヶ谷住宅」(写真4)に立ったとき、空気は、どこか密度が濃く、揺れているようだった。なにかの見えない膜を通り過ぎたよう。すべてのものがすこし濃い。くっきりとしていて、空気が何ものかに満ちている。

 それは不思議な空気だ。ただそこにいるだけで、何かわくわくしてくる。ブランコのないブランコ。ベニヤ板で覆われた、いくつかの無入居の棟。だらんと垂れ下がるロープと、誰が描いたのだろうユニークな動物の絵が描かれた、禁止表示の看板。実る蜜柑の木。名も知らないたくさんの実と種。子供たちの隠れ家の跡。緩やかに張られた、団地内の道路の導線。その間のとり具合(写真5〜9)。ゆっくりと歩いてちょうどいい距離と、建物の配置。寄り道したくなるような小道。
 その土曜日、まだ二月だというのに、芝生に寝そべって、本格的に寝入っている父の姿。陽に照らされて、暖かそうなのだ。実際のその日の気温はまだ桜の頃にも満たないはず。でも、そこは温かい陽があたり、その眠りは守られていた。

 もともとの場所の力なのか、それとも、団地の設計(前川國男による)のされ方なのか、両方であるのか、それはわからない。しかし、50年前に立てられたこの建物と場所には、その周囲の家々の連なりにはない、不思議な空気が満ち漂っている。ここだけ、時間の流れが緩んだよう。

 足を運んだ人々は、絶対に都合のつかなかったはずのスケジュールを、やっぱり大丈夫だよと、変更する。一杯のお茶に、ついゆっくりと足を止める。体をゆるめる。憔悴していたはずのわたしも、身体こそ疲れていたが、何かに満たされてそこから旅立った。

 そんなこの場所を訪れた、絵描き:淺井裕介がこの場所に魅了されたのは、当然のことだっただろう。彼は、自分の展示「刺繍のワッペン」を進めると同時に、その場所で、複数の作家を呼び密やかなゲリラ展示を行うことを決めた。彼自身の展示から、一ヶ月ものない一月のことである。淺井は、決断するや否や、次々と彼らをその場所へ実際に呼び、一緒に歩きまわる。その様子は、いくつかの作家のブログにも紹介されている。それを読むにつけても、彼らが如何にその場所に魅了されていったか、よくわかる。淺井、作家、場のマジックが交わって、どんどんと可能性の塊のようなになってゆく。そしてそこに魅せられたものは、−おそらくは、同じ要素のものに触発されているのだろう−しかし、面白いことに、10ユニットそれぞれが全く違う方向に、作品を生み出してくる。各人が、各人の方法で場との掛け合いを楽しんでいる。場の方も、それに応えるだけの力がある。

 たくさんのことをするのではない。ただそこにちょっと手を添えることで、生み出された作品たち。場所と切り離されるのではなく、その場所が持つなにかに、もう少し形を与える。そんな手の働き。それがそこに、さらに満ち満ちた空間を作り出す。こんなに小さな空間に、これほど、ささやかに、あふれている。

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1、2、3、14、15、16  撮影:KenMochizuki

 会場であるとたんギャラリー(後述)にゆくと、淺井による展示「刺繍のワッペン」(写真1〜3、10〜12)、が行われている。この様子は、様々なところで取り上げられているので、そちらを読んでいただくか、写真を見ていただきたい。あふれんばかりの生き物たちが育ってゆく、見事な様である。と、同時に、鑑賞者はそこで、地図を手に入れられる。小さな丸印を頼りに、そこまでいって、作品を探してこようという趣旨。あわせて10ユニットのたくさんの作品が阿佐ヶ谷住宅に点在された。写真13は、とたんギャラリーの壁につくられた阿佐ヶ谷住宅の地図とそこにおかれた作品の写真。その全部を解説できるほど、わたしは詳しくないので、そのうちのいくつかの作品にだけここでは触れる。

 狩野哲郎による「透明な山」(写真14)。生命の始まりにほんの少しの間だけ生まれるある空間を澄んだ目で描き続ける狩野の小品。周辺で拾われた、様々な植物の実・種がそっと透明なコップの山の上に乗せられている。始まりが生まれるとき、それは、必ず、地上よりも少し持ち上げられる。地に足をおろす前に、一度、天の道を通って降りてくる。あるいは、その種が、その山から落ちたとき、生命は本当に営みを始める。その「存在」の一歩手前の、地と種との始まりの関係をとても上手に取り出した作品。設営から一夜を超えたそのコップの山の中には、水滴が満ちていた。まるで「ここで育ちなさい」とでも言うように。作家の意図にはなかったその現象は、まるで自然に静かに祝福され、受け入れられているかのようだった。そのことも、透明なコップの上に、ちょこんと乗った木の実が、どこかユーモアを持ってこちらを見ている様子も、深さの中に、思わずにこにこしてしまうような瞬間を併せ持つ。それは、狩野の作品に限ったことではない。のら美における作品は、どれもがそのような要素を持っていた。例えば、qpによる作品(写真15)高い木の上に、ちょこんと座った、人物。まるで十年も前からそこにいるかのような、静けさで木の上に座っている。見上げないと気がつかない。それでも、ふと顔を上げた瞬間に対峙してしまうと、その異様な感じに、はっとするのだ。こんなにそっと存在しているだけなのに「いる」という感覚が、とても強くわきおこってくる。奥村昂子の「wrapping」(写真16)。ミントの葉を、花束のように無数に包む。どうぞ、よかったらわたしを一緒にお持ち帰りくださいと、小さな声でささやいている。ミントという、現代の東京での暮らしに根付いた植物が、また小さくラッピングされて、人に渡される。その二重にかけられた手のありようは、この場所で、ささやかに幸せを育むことの術を、今、東京で生きることの幸せを、その丁寧な心のありようを、表すかのようだ。

 そのどの作品も、そこにあるものを否定しない。壊さない。そこにあることを、その場所を、大切に思う。その心から生まれた、謙虚な作品ばかりだ。そっと手を添える。それだけで、これほどのことが起きる。

 これらの野外展「のら美術館計画」は、実は、淺井の作品に対する姿勢とも、密につながっているものだ。淺井は、主にマスキングテープを用い、植物のように絵画を壁面や空間に育ててきた。「MaskingPlant」と彼は名付ける。今回の「刺繍のワッペン」においても、そのマスキングプラントは伸び続けた。どうしてマスキングテープなのか、どうして植物なのか、それらの問いにはっきりとした言葉の解を彼は持たない。それでも、いつも世界の境界を揺らしている彼と話していると、いつの間にか、それは、マスキングテープで当然であり、植物以外であるわけがないと思ってしまう。納得するのである。

 彼は世界に触れる。ある瞬間、そっと出現するある空間に、描くことで触れている。それは、確固たる物ではない。固定されたものでもなく、永遠にあるものでもない。常に変わり、そして、やがて滅びる/終わることも、承知している。というよりも、むしろ、滅びることを、終わることを、彼の作品は常に内包し続けている。いつか、なくなること。いつも、変わること。それ自身が、ひとつの真実として、彼の作品を成立させている。その彼は、終わりについては、このように言う。「意識的に終わりを外している」のだと。果たしてそうなのだろうか。

 のら美術館計画(のら犬ののらである:淺井命名)において、彼らは、「作品が作家の手を離れて、野良になって、もって行かれるかもしれないのも良いではないか」コンセプトを見いだした。奇しくも、意識の外にあったはずの作品の終わりを、彼らは別の形で探し始めた。作品は、常に作家のものであるとは限らない。手を離れて、変わっていくこともまたある。買われるわけでもなく、奪われるわけでもなく、花を摘むように(奥村作品wrappingそのものだ)、もって行かれるかもしれない。そんなひとつの可能性と賭けとともに、行われたとても静かなゲリラ展示は、結果的に大成功を収めた。阿佐ヶ谷住宅に突如出現した、それらの異物は、快く受け入れられるとは、限らなかったはずだ。しかし、各作家が、一人としてはじけすぎることなく、驚くほど繊細にその空間に触れていたことと連動するように、クレームは一件もなく、そして、無為に作品の意図を壊して奪われた作品はなかった。

 終了当日に、その山の中に植えられた種と一緒に、「透明な山」のひとつの作品がもっていかれた。終了当日ということに象徴されるように、あるいは、その作品の下に埋められた種の存在を知っていたように、その「犯人」は、その作品の、その展示の意図をとてもよく理解していたのだろう。このとたんギャラリーの地域への根付き方は、ずいぶんとしっかりしたものだ。

 

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のら美術館計画
2007年2月3日(土)−2月18日(日)

刺繍のワッペン 淺井裕介
2007年2月3日(土)−2月18日(日)

とたんギャラリー

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阿佐ヶ谷住宅日記
 
著者のプロフィールや、近況など。

田多知子(ただともこ)

東北の入り口の街、仙台にて、翻訳業等を営む傍ら、日々アート求めて歩く人。

最近のささやかな楽しみは、3代続く飴屋さんの手作りバター飴をたべること。
写真撮り始めました。

あまり美術情報が書かれることが少ない東北からのささやかなアートの喜びをエッセイ形式でお届けいたします。




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