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美術散歩


村上隆の「ロウアート」と
鶴見俊輔の「限界芸術」

TEXT 菅原義之


「芸術闘争論」(村上隆著)(幻冬舎)
 最近出版された「芸術闘争論」(村上隆著)(幻冬舎)には面白いところが何箇所もあった。今回はその中の「第4章 未来編 アーティストへの道」について触れてみたい。ここでアーティスト村上隆は、「アーティストは未来を語らなければならない」といい、そのためにどのように考えるべきかを記している。最初に出るのはハイアートとロウアートである。今や我々が考えている「(西欧式)ハイアートだけではアートの世界が機能しなくなってきている、膠着状態にある」と。だから「西欧かぶれでない日本の土着的なアートもハイアートの世界に侵入できないだろうかと試しているわけです」という。そして「最近では、こうしたロウアートにも可能性があるのではないかといわれるようになってきました」と。つまり最近の傾向を見ればおのずと明らかだが、いわゆる“芸術”というよりもっと身近に感ずる“アート”という言葉の方が的を射ているということかもしれない。作品を見ても「日常性に関する表現」、「遊び心・ずれの表現」などを使った素晴らしいアイディアをもつ親近感ある作品が登場していることからも明らかだろう。以後「ロウアート」とか、「土着的なもの」をキーワードとして見て行きたい。

「芸術起業論」(村上隆著)(幻冬舎)
 突然だが、ここで思い出されるのが藤田嗣治である。明治末期から大正の初めにかけて多くの画家がパリに“お勉強”に行った。斎藤与里、津田青楓、山下新太郎、梅原竜三郎、安井曾太郎ほかである。彼らは絵を学ぶために行ったが、藤田嗣治だけは違っていた。何のために行ったか?勝負するためだった。パリに行ってすぐ気がついたのは油絵の技法ではどうも勝ち目がない、と。どうすべきか。考えに考えた末、浮世絵に描かれた女性の肌の美しさを油絵で表現する方法に着想を得た。これなら決して負けない。技法上の難題も乗り越えついに大成功する。乳白色の肌の美しさと線描法である。
 村上の行動を見ると藤田を参考にしているように思えてならない。2006年に出した「芸術起業論」(村上隆著)(幻冬舎)で村上はこう述べた。日本人アーティストの中で世界で認められた人は片手ほどしかいない。一人は葛飾北斎、二人目は藤田嗣治、三人目は自分だとしている。その他はだれか?書いてないので分からないが、3人はそうかもしれない。藤田は日本の「土着的なもの」、浮世絵にヒントを得た。浮世絵(江戸時代に発達した民衆的な風俗画の一様式。−広辞苑−)は、村上のいうハイアートではなくロウアートといっていいであろう。「土着的なもの」をこの時代に取り入れて成功した。世界を相手に勝負するには「土着的なもの」って何時の時代でも効果的なのかもしれない。先見性とはこんなことをいうのだろうか。

「反アート入門」(椹木野衣著)(幻冬舎)
 図書「反アート入門」(椹木野衣著)(幻冬舎)の中で、美術評論家椹木野衣は次のように言う。「わたしたちに『アート』があるとしたら、それは欧米の価値観に追従するのではなく、・・・」、「それは、キリスト教美術のような永遠性や肉の不滅ではなく、むしろ、現れと消滅のほうに顔を向けた新しい『わるいアート』なのです。・・・単なる『本物志向』のようなものであってはならない、ということです。・・・ノイズとカオスとジャンクに溢れた『いま、ここ』で、けっして大きな峰ではなく、透明で小さな山々を見出すような、そういうアートなのです。」と。分かりにくいが、ここでいう「わるいアート」、「本物志向でないアート」、「大きな峰でないアート」とは、永遠とか崇高とかの意味あいを含まない、ごく身近なところ、日常の中から見出せるもの・・・・というほどの意味であろう。椹木は、この新しいアートの入り口を「隠れ・なさ」という表現を用いる。これはルネッサンス以降キリスト教の影響を受けた「西洋的価値観」とは異なり、直接古代ギリシャにその淵源を求めるドイツの哲学者ハイデッガーの考えが基になっているとのこと。詳細は拙稿、PEELER7月号―「示唆に富む『反アート入門』」―を参照願いたい。
 では、「隠れ・なさ」とはどんなことか。「『存在』がみずからを隠すことによって、みずからをあきらかにする働きを示」すことだという。これも分かりにくいが、例えば、竜安寺の石庭にある15個の岩は表面的にはわずかな大きさに過ぎないが、その本体は、姿を見せている部分の10倍ほどもあるそうである。砂の下に巨大な部分を隠しているからこそ見る者に不思議な安らぎを感じさせる。ゴッホの描いた≪古靴≫だって同様だろう。背後に隠れた農民の苦しい生活実態をそれとなく想像させるからこそ素晴らしいと感ずる。この視点をベースに、制作のヒントとして「水墨画」とか「雨漏茶碗」を例示する。「にじみ」、「ぼかし」などみずから意図しないところに出現する素晴らしい表現法に着目する。「水墨画」は墨一色でその濃淡によって限りないほどの表現ができる。「雨漏茶碗」は天井にできた雨漏りの面白い格好のしみがヒントになって、これを取り入れた茶碗を造ったそうである。「水墨画」にせよ、「雨漏茶碗」にせよ今や「土着のもの」であろう。まだまだある。探っていきたいものである。

 アーティストとしての村上隆、評論家としての椹木野衣、両人はいわば「美術の流れ」の「現在地点」と「あるべき姿」を述べているのであろう。興味ある話である。ここでは2点を指摘している。
 1つは、「西洋的価値観」にとらわれないこと。
 2つは、「土着的なもの」、「ロウアート」に目を向けるべきとすること。

 前者について、それぞれ両者とも強弱、程度の違いはあるが、本質部分は一致していると見ることができる。後者については、細部は異なっても「土着的なもの」、「身近なところ」、「ロウアート」などに目を向けるべきだという点ではほぼ一致している。細部の相違はここではあまり重要でない。「土着的なもの」へ目を向けることが重要だからである。
 20世紀は美術の世界でも革新的な動きが起こり目まぐるしく変わった。戦争の影響も大きかった。特に20世紀後半は大きく変わった。変わりようが凄い。追いついていけないほどだった。でも内容から見るとあくまでも「西洋的価値観」の中で変わったように思える。21世紀はどうか。両者とも「西欧的価値観にとらわれないこと」だという。これこそあえて言えば、21世紀の大きな特徴の1つに思えるがどうか。まさにアートの「現在地点」を表明しているようにさえ思える。グローバル化の中では当然のことかもしれない。これはもちろん20世紀型を否定しているのでない。

「限界芸術論」(鶴見俊輔著)(筑摩学芸文庫)


「今日の限界芸術」(福住廉著)(BankART)
 「現在地点」に関する両者の指摘は貴重だが僅少例だ。村上のいう「土着的なもの」=「ロウアート」って何か。椹木のいう「隠れ・なさ」って他にどんなことがあるか。後はそれぞれの判断に任されるとしても、系統立てて理解する方法、理論的に思考をめぐらす方策はないのか。これが重要なところであろう。「土着的なもの」とか「ロウアート」は、鶴見俊輔のいう「限界芸術」にかなり近いように思うがどうか。
 去年(2010年)の夏、ヒョンナことから「限界芸術」という言葉を知った。哲学者、思想家、鶴見俊輔の「限界芸術論」(筑摩学芸文庫)と美術評論家、福住廉の「今日の限界芸術」(BankART)を見るとこれまで接していなかった多くの問題を取り上げていた。

 「限界芸術」についての詳細は拙稿、PEELER9月号―宮沢賢治とChim↑Pomと「限界芸術」―を参照願うとして、簡単に記すと鶴見は「限界芸術論」の中で、芸術を大きく3つに分類している。「今日の用法で芸術とよばれている作品」を「純粋芸術」(Pure Art)といい、「純粋芸術に比べると俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と考えられ」るものを「大衆芸術」(Popular Art)と呼び、「両者よりさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品」を「限界芸術」(Marginal Art)としている。そして限界芸術の研究者として柳田国男を、批評家として柳宗悦を、作家として宮沢賢治を挙げる。宮沢賢治の考え方(イーハトーヴォ)はドイツのヨーゼフ・ボイスの考え(社会彫刻論)にきわめて近い。これについては「ヨーゼフ・ボイスと宮沢賢治」(栃木県立美術館シニア・キュレーター山本和弘著の小論文)に詳細が記されている。鶴見俊輔は1956年にこの考え方を発表。ヨーゼフ・ボイスの考えが「社会彫刻」の兆しを示すのは1960年代半ば頃からとのこと。両者がいかに時代を先取りしていたか感じざるを得ない。

 ここでいう「純粋芸術」と「大衆芸術」はおおよそ分かるが、「限界芸術」が分かりにくい。どんなことか?鶴見は「限界芸術のことを考えることは、当然に、政治・労働・家庭生活・社会生活・教育・宗教との関係において芸術を考えてゆく方法をとることになる」という。ここがボイスの「社会彫刻」にかなり近い。これで分かる通り「限界芸術」の領域は広く容易に表現し尽くせないが、ほんのわずかだが例示すると、生花、盆踊り、盆栽、箱庭、街並、家、漫才、落書き、書道、祭り、いろはカルタ、などなどあるが、これだけで判断すると誤解を招くかもしれない。これ以上の説明は残念ながら私の力不足でできない。後は前掲2図書を参照願いたい。
 前掲書を参照すると現況を端的に表明しているようで面白かった。どのように面白かったか。私見だが、1つは「限界芸術論」から最近の美術の傾向が一部説明できること(PEELER9月号の拙稿に記載)。もう1つは「限界芸術」といわれる分野に作品制作のためのアイディアがいっぱい詰まっていることである。これこそ宝の山だ。なぜこんな大事な、面白いことに誰も目を付けようとしなかったのか不思議に思えてならない。決して「限界芸術」を土台にして「純粋芸術」を考えたらどうかといっているのではない。今や「純粋芸術」、「大衆芸術」、「限界芸術」それぞれの境界が溶解してきているからこそ取り上げたのである。それぞれの領域を乗り越えて作品が制作される例を我々は多く見ている。鶴見の例示によれば、各専門領域横断型作品の例すらここに該当するといっても言い過ぎでないかもしれない。
 前述の通り藤田嗣治はここでいう「大衆芸術」、浮世絵からヒントを得た。村上は「土着的なもの、落書き」などの中に可能性があるという。ついでながら戦後の美術界で画期的な作品を制作して注目された岡本太郎は1950年代初期に「縄文文化」を発見、その結果日本美術の歴史が書き換えられた。旧大阪万博会場に立つ岡本太郎の≪太陽の塔≫は土着的「縄文文化」の影響を色濃く残している。
 総じてこの時期「限界芸術論」がいかに有効かを痛感している。


西洋料理店山猫軒 作家:白井美穂

 ここで「限界芸術」周辺の作品をいくつか見てみよう。
 2008年に国立新美術館で開催された「アーティストファイル2008」展で、アーティスト白井美穂は3点の映像作品を出品した。白井は年代的にコンセプチュアル・アートの洗礼を受けたのかどうか、かなり分かりにくい作品だったが、その中の1点≪西洋料理店 山猫軒≫は別だった。発想が奇想天外。面白かった。後で分かったが、この作品は宮沢賢治の「注文の多い料理店」が基になっていた。
 白井は、2000年の「第1回越後妻有トリエンナーレ」で新潟県松代町に野外の立体作品として≪西洋料理店 山猫軒≫を出品した。説明には「色鮮やかな8枚のドアが空間を区切るように点在して設置される。これらは宮沢賢治の『注文の多い料理店』の扉を3次元的に実現したものである」と。今でも同町にあり前回(2009年)のトリエンナーレ時にも見たが、「アーティストファイル2008」展の映像はここで撮ったものであろう。 
 宮沢賢治は「限界芸術」の作家として鶴見が取り上げているが、白井の例からも分かる通り宮沢賢治の作品を取り上げるだけでアート作品ができるといっても言い過ぎでないかもしれない。今になって白井のこの作品についての理解が深まっている。白井の選択眼に感心頻りである。

作家:Chim↑Pom
ここに掲載の写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.|日本」ライセンスでライセンスされています。

 森美術館開催の「六本木クロッシング2010展」ではChim↑Pomという日本のアーティスト集団の作品があった。作品≪Show cake xxx!!≫は、中央にロダンの彫刻≪接吻≫を流用した作品が置かれ、その周辺は飲み物、食べ物が散らかり放題。手に負えない。正面の壁面にはART IS IN THE PARTYと食べ物を使って書かれている。跡片づけしないパーティ後の現場だ。ここでいうARTは当然ロダンの≪接吻≫。よく見ると接吻場面は1本の短いポッキーチョコを男女が互にくわえているだけ。ARTもこの雰囲気では台無しである。「高尚」なロダンの作品は美術の現状と乖離していると言いたげ。決してロダンが悪いわけではない。ARTをロダンの作品で代表できないほど現況は変わっているとの指摘だろう。いかにもChim↑Pomらしい発想で痛快。凄い。Chim↑Pomは作品について「面白くなければ意味がない」、「もっとシンプルに、ギャルがバンドをやるような世界になっていった方が面白さの幅も世界的に広がっていくと思ってます。」という。「西洋的価値観」見直しの意を見事に捉えている。いわゆる21世紀型作品の典型例だ、というと言い過ぎだろうか。さらに、こじつけが許されれば、この作品は「純粋芸術」の「限界芸術」化だろう。そうであれば皮肉な話であり一層面白い。

作家:桝本佳子

 
 港区青山にあるスパイラルで今年の10月末から11月にかけて開催された「エマージング・ディレクターズ・アートフェア」の中で、桝本佳子の作品が印象に残った。作品は陶器。陶器といっても単に壺とか器とかではない。壺にうちわが食い込んでいる作品(写真)である。“何これっ!”と。資料によると作品例として、≪壺/城≫、≪ショベルカー/壺≫、≪山/壺≫、≪飛行機/壺≫など壺に何かを合わせ盛り込む。壺にほかのものを一緒に造りこんでいる作品である。普通の観点からこんな発想は出ない。面白かった。陶器作品は工芸と考えられるかもしれない。ところが桝本の作品を見るとアイディアを豊富に盛り込み、実用的ではない。工芸というよりアート作品であろう。桝本は「工芸とか、美術といった枠組みを壊したいと思っています」という。新しい視点でものを見ようとしている。そして「日本のものがいいと感じますね。日本文化が一番格好いいと思います」ともいう。まさに「土着的なもの」である。彼女がこのような世界に入ったのは、大学からだそうだが、そもそも小学生のころから茶の湯をやっていてこれがきっかけだったそうである。「土着的なもの」を取り込んだ具体例である。領域横断型の作品でもあろう。これこそ「限界芸術」の「純粋芸術」化の典型かもしれない。

 まだまだ例示したい感心する作品は多い。紙面の都合もあり別の機会に譲ることにしたい。
 最近美術作品を見て驚くことが多い。なぜか。素晴らしいアイディア、発想に出会うからだ。何でこんなアイディアが出るのか。これが美術作品を見て面白く思ったり感心したりすることかもしれない。こう見ると今度はどんな驚きが発見できるか楽しみになる。そしてまた見に行く。芸術教養主義とは無関係である。単純に面白いから、楽しいから、あるいは分からないと癪に障る。なんとかわかろうともがく。分かった時の嬉しさったらない。こんなことで回を重ねる。見ることによって知らず知らずのうちに自分が作品に教えられているのかもしれない。理屈はない。今がどうなっているか、これからちょっと先がどうなるのか、連綿と続く歴史の最先端、自分のいる「現在地点」が猛烈に知りたいだけである。





 
著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、生命保険会社退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室MOMASコレクション作品ガイド)を行う。

ウエブサイト アートの落書き帳

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。


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