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美術散歩

示唆に富む「反アート入門」

TEXT 菅原義之




 たまたま浦和駅前にあるコルソ内の紀伊国屋書店に行った。美術関係のコーナーで一冊の本を見つけた。美術評論家、椹木野衣著「反アート入門」(幻冬舎)である。立ち読みした後すぐに買った。これがここに紹介するきっかけとなった。
 内容は、第一の門「アートとはどういうものか」、第二の門「アート・イン・アメリカ」、第三の門「冷戦後のアート・ワールド」、第四の門「貨幣とアート」、最後の門「アートの行方」からなっていた。第一の門から第四の門までは、主としてアートの流れと現況を記していた。最後の「アートの行方」が最も興味あるところだった。示唆に富む内容でもあった。結論といえるかもしれない。そんなことでここに焦点を当ててみた。

 数年前、椹木はイギリスの大学から研究員として招かれ、ロンドンに1年間滞在した。その時のこと。
 ロンドンのテート・モダンには現代美術館だが人が入る。人の入りでみると伝統的な絵画を所蔵し美の殿堂と言われるナショナル・ギャラリーと同様だそうである。日本ではどうか。伝統的な作品と現代美術作品とでは人気が全く異なる。その結果現代美術館にはほとんど人が入らない。この違いはどうしてなのか。これが椹木の問題提起である。
 ナショナル・ギャラリーにある伝統的な作品とテート・モダンの現代美術作品とでは内容は異なるが、キリスト教の歴史を持つ人たちにとっては両者の間には密接な関係があるようである。両者には連続性があり、どちらにも関心があるとみることができるのだろう。したがってイギリスの人にとって現代美術が特別なものではなく、伝統的絵画の延長線上にあるということなのだろう。日本人が水墨画、浮世絵、石庭、仏像などの延長線上の現代美術作品があるとすれば、それを見るのと同じなのかもしれない。

 美術作品とキリスト教との関係を辿ると、ヘレニズム(東方文化と融合し普遍的性格を持つようになったギリシャ文明、広辞苑より)とキリスト教が融合した東ローマ帝国の文化(ビザンチン文化)は、イタリアのルネッサンスに大きな影響を与えたといわれている。したがってルネッサンスから現在に至る美術作品の多くは、とりもなおさずキリスト教の影響下にあると言っていいであろう。
 キリスト教とほとんど関係ないこの国で、西欧の人たちと同じ土壌で作品を見たり、制作したりすることの難しさってあるであろう。だからといって、これまでの歴史の流れの中で形作られてきたものを乗り越えて、新しい考え方を構築するのは容易ではない。大事なことは、今後どうやってアートのあり方を考えるべきかであろう。これについて椹木は興味ある提案をしている。別の形のアートのあり方ってあるのではないか、と。ここでドイツの哲学者ハイデッガー(1889〜1976)の登場である。ハイデッガーの考えをベースに椹木は具体例をいろいろ提示している。画期的提案であり、興味ある内容でもある。

 ハイデッガーの考え方は、ルネッサンス以降のキリスト教を取り入れた文化を包含するものと異なり、古代ギリシャにまでその淵源を求めているものだとのこと。ちなみに「ハイデッガーが終始求め続けてきたものは存在の真理――二千数百年前、古代ギリシャで誕生して以来、哲学が持ち続けてきた最も古い問題である存在の真理――に他ならなかった」(「ハイデッガー」新井恵雄著、清水書院)、と。また、結果として、「ハイデッガーによって・・・現代の芸術論の大きな潮流が生み出されてきたのである。ハイデッガーは、こうした現代の芸術論の源泉を成している・・・」(「芸術の哲学」渡辺二郎著、ちくま学芸文庫)としている。
 椹木はハイデッガーの考えの核心部分を「隠れ・なさ」という表現を用いて説明している。この表現が、私には当初わかりにくかったので、ハイデッガーについて比較的分かりやすく書かれた(前掲書「芸術の哲学」)を参考に、必要最低限引用しながら「隠れ・なさ」に触れてみたい。果たしてできるかどうか?

 これまでは、芸術は「美」を目指す活動であった。われわれは作品に描かれたものを見て美しいと感じて感動するなど、美の成立根拠が主観的に考えられてきた(「近代主観主義美学」)。この考え方がヨーロッパ文化を支配し続けてきたそうである。
 これに対して、ハイデッガーは別な立場に立つ。「ゴッホの農民の靴の絵」を例示しているが、この作品を見たときに感動するのは、それが「美しい」からではなくて、描かれた靴が脚光を浴び、その輝きが作品に現れる。そこから想像できる農民の厳しい生活などあれこれ「真実」の実態が浮かび上がる。われわれは「真実」の輝きに感動する。この輝きこそ「美しい」ものなのだ、と。「真実の輝きが、美を生み出すのであって、その逆ではないのである」(前掲書)としている。これがこれまでの考え方と異なるハイデッガーの立場(「存在論的美学」)であろう。
 この考え方が作品においてどのように表れてくるかである。「ゴッホの農民の靴の絵」を見ると、まず「真実」の実態が浮かび上がる。つくづく農作業の辛さ、厳しさなど、さまざまのものが浮かび上がる。そこには農民の「世界」と「大地」の匂いとが、ありありと見て取れる。作品に「開示された世界」が広がる一方、表面的には読み取れない、秘蔵された、隠された、閉鎖されたものが、あたかも「大地」のように拡がっている。それは「これまで見たことのなかったもの」、「一つの出来事」、「一つの衝撃」であり、大地のように、そこにそそり立ち、出現する何ものかである。美の中に感ずる衝撃とでもいうものだろう。作品をじっくり見たときにこそ見えてくるものではないか。
 「真実」を現したゴッホの靴の絵は、そのまま一つの「世界」を開示する、と同時に「大地」に隠れていたものを浮き彫りにする。「大地」は具体的な大地ではなく、隠蔽されているものの保管されているところ?というぐらいに解すと分かりやすいかもしれない。この「世界」と「大地」との相互関係の中に存在しているものが芸術作品ということになるのであろう。

 このようにみると、椹木の「隠れ・なさ」という表現は、ハイデッガーのいう、衝撃の源泉になる「大地」に隠れている「もの」あるいは「状態」を現しているということではないか。
 椹木はギリシャのアテネにあるパルテノン神殿を訪問した時のこと。パルテノン神殿は実際に見ると岩盤の上に立っている。長い年月風雪に耐えた大きな岩盤の上だ。実物を目の当たりにするとこの岩盤が「大海」に、神殿が「船」に見えてくるという。この「大海」こそ見えない、隠れたものであり、ハイデッガーの言う「大地」であろう。
 また、竜安寺の石庭なども同様だろう。石庭を埋める15個の岩は表面的にはわずかな大きさに過ぎないが、その本体は、姿を見せている部分の10倍ほどもあるそうである。砂の下に巨大な部分を隠しているのだからこそ見る者に不思議な安らぎを感じさせる。(「ハイデガー」貫成人著、青灯社)。

 また、水墨画などに見られる「滲み」、「ぼかし」、あるいは「工(わざ)」、「趣」なども椹木は「隠れ・なさ」を現しているという。
 水墨画は墨一色で描かれたいわゆる絵画だ。そこには「滲み」や、「ぼかし」の技術が詰まっている。墨一色でも無限に表現できると言ってもいいほどのグラデーションを見ることができる。それにより遠近表現すら可能であろう。「滲み」や「ぼかし」は、作者の意を越えた表現だという。
 雨漏茶碗も同様である。雨漏りの時に天井に見える「滲み」跡には、時にはなんともいえない味わい深いものがある。これを茶碗制作に生かしたものが雨漏茶碗である。これらの手法も見るべきものがあるという。
 水墨画ではいわば「工(わざ)」だけではなく、そこには「趣」がなければならないと考えられてきた。この「趣」こそ人為だけではどうすることもできない生きる精神の働きによるものであろう。
 これらの例は、西洋の美術では採用されない偶然性や不確実性を表現しているが、これらこそ人の技術だけでは及ばないいわゆる「大地」に隠されたものであろう。

  以上が具体例だが、一般論として椹木は次のように言う。「わたしたちに『アート』があるとしたら、それは欧米の価値観に追従するのではなく、・・・」、「それは、キリスト教美術のような永遠性や肉の不滅ではなく、むしろ、現れと消滅のほうに顔を向けた新しい『わるいアート』なのです。・・・単なる『本物志向』のようなものであってはならない、ということです。・・・ノイズとカオスとジャンクに溢れた『いま、ここ』で、けっして大きな峰ではなく、透明で小さな山々を見出すような、そういうアートなのです。」と。
 ここでいう「わるいアート」、「本物志向でないアート」、「大きな峰ではないアート」とは、永遠とか崇高とかの意味あいを含まない、ごく身近なところ、日常の中から見出せるもの・・・・というほどの意味であろう。椹木は、新しいアートの入り口が、ハイデッガーの「隠れ・なさ」ということと、どこかで通じ合っているという。

 最後に、これまでの考え方をベースに新しい芸術概念の必要性を唱える。まとめでもあろう。
 これまで「美術の歴史において大前提となっているのは、ひとりひとりの人間の価値を超え出る芸術が確かに存在する、・・・」ということであった。これ自身「現状では芸術と人間とのバランスがおかしくなっている・・・」と指摘する。さらに「人間の存在の方が、芸術やアートが成り立つための根源的な礎であるべきで・・・やはり、芸術には芸術であることを越えられない境界であり限界であるべきものが厳然としてある」。これが「芸術の分際」というものであり、これをわきまえたうえで、文明における芸術概念の抜本的な修正が必要だという。それは「・・・、誰もが参加することができるような、なにか流動的な生そのもののような芸術です。それが日々、日常のものであり、かつ創作者と鑑賞者が交換可能であるような芸術です。文字どおり、それは万人のものです。実は西洋のアートに決定的に欠けているのは、この次元なのです」。さらに「すべての人がアーティストであるという、歯の浮くような台詞も、そのときはじめて、それが本来持つべき辞義を真に取り戻すことができるかもしれません」、と。これで終了している。

 最終の門は、ハイデッガーの考えを基に、かなり丁寧に説明している。一つの提案としてみるべきものであろう。今後の指針となるのではないか。
 永遠性だとか、不滅だとかにとらわれることなく、日常に見られること、些細なこと、本物志向でないもの、わるいアート、大上段に構えないもの、そんなアートこそ見るべきものであろう。
 こうみると美術評論家、松井みどりの提案する「マイクロポップ」が思い浮かぶ。この考えは、「主要なイデオロギーに頼らず」、「マイナー(周縁的)な」、「小さな事実をもとに」、「小さな創造」、「日常の出来事」、「子どものような想像力」、「とるにたらない出来事」、「視点の小さなずらし」、「ささやかな行為」などを取り上げていて、椹木の見解にかなり近いように思う。
 また、「すべての人がアーティストである」ともいっているが、これを聞くとヨーゼフ・ボイスが思い出される。ボイスは社会彫刻の概念からこれを言っているが、椹木の言うこととあながち異なることではないであろう。美術手帖2010年1月号に、椹木のボイスに関する論考があるが、最終部分で「わたしはボイスの考えはおおむね間違っておらず、未来の芸術を破壊することなく、それを原資に万人へのエネルギーの移行と配分を行うことで、それを廃棄する方向にきちんと向き合うことだと思う」としている。ここでの論考と同様であろう。
 さらに美術手帖の同号に美術評論家、中原佑介が「美術は崇高なものだという呪縛から逃れて、自由になることが私たちの命題」と題し論じている。その中で「作家にとって最も大切なことは『脱芸術』の意識を持つことだと思います。『脱芸術』とは、既成の芸術観から脱して、作品をどう構築するかということです」と言う。一部だがこれも椹木の指摘とかなり近い。
松井にせよ、椹木にせよ、中原にせよ、芸術を大上段に構えた高尚という考え方を突き抜けてもっと身近に誰でも参加できるようなものであるべきと言っているのではないか。
 何事にせよ実行は難しいことだが、グローバル化時代のあり方として、西欧に依存するだけではなく、日本の立ち位置を見定め独自の表現を見いだしていくべきであろう。マイクロポップはその典型例だろう。本書による新しい世界の提示は大いに参考になった。



著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、生命保険会社退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室MOMASコレクション作品ガイド)を行う。

ウエブサイト アートの落書き帳

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。

 


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