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美術散歩

宮沢賢治とChim↑Pomと「限界芸術」

TEXT 菅原義之


「限界芸術論」(鶴見俊輔著)(筑摩学芸文庫)



「今日の限界芸術」(福住廉著)(BankART)

 最近、あるシンポジウムに出席したところ、パネリストの一人だった美術評論家、福住廉(1975〜)から「限界芸術」という言葉を始めて聞いた。「限界芸術」は、哲学者、思想家である鶴見俊輔(1922〜)が1956年に始めて述べたもので、それを福住が「今日の限界芸術」(福住廉著)(BankART)で紹介している。鶴見の提示以来50有余年が経過しているのに、その間誰もこの考えに手をつけず放置したのは美術評論家の怠慢だと福住は指摘している。そう言われてみると、初めて聞いたのはあながち私だけでないのかもしれない。このシンポジウムは「限界芸術」という言葉を聞いただけでも値打ちあるものだった。

 元祖、鶴見は「限界芸術論」(鶴見俊輔著)(筑摩学芸文庫)の中で、芸術を大きく3つに分類し、「今日の用法で芸術とよばれている作品」を「純粋芸術」(Pure Art)といい、「純粋芸術に比べると俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と考えられ」るものを「大衆芸術」(Popular Art)と呼び、「両者よりさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品」を「限界芸術」(Marginal Art)としている。そして限界芸術の研究者として柳田国男を、批評家として柳宗悦を、作家として宮沢賢治(1896〜1933)を挙げる。
 なぜ宮沢賢治が「限界芸術家」なのか、その理由を鶴見の宮沢論から探ってみよう。宮沢賢治の芸術観について鶴見は、「自分の今いる日常的な状況そのものから、芸術の創造がなされ・・・」ていると記し、「芸術を作る主体は、芸術家ではないひとりひとりの個人、芸術家らしくない何らかの生産活動にしたがう個人」だという。「シロウト趣味人が、限界芸術家に変貌するきっかけは、職業芸術家の模倣からはなれて、自分の身近にある環境そのものの中に芸術の手本を発見することから来る」ともいう。もっと具体的には「芸術の素材としては、どんな行為でもかまわないが、ヴァイオリンの代わりにスキやクワ、カンヴァスの代わりに大地を使うとしても、行為そのものは芸術としてみがかれ、高まってゆくものでなくてはならぬ。」と。
 この例示により、限界芸術についておぼろげながらわかるような気がする。これをみると宮沢はドイツのアーティスト、ヨーゼフ・ボイス(1921〜1986)の考え方にかなり近い。ボイスの社会彫刻を言っているかのようである。時代の関係からだろう、鶴見は触れていなかったが、興味があったので調べて見ると、驚いたことに「ヨーゼフ・ボイスと宮沢賢治」と題して、すでに栃木県立美術館特別学芸員の山本和弘が論考していたのだ。非常に面白い。

 福住は横浜の「BankART School」で毎年夏に「アートの綴り方」という講座を持っていて、参加者にテーマを出し、それについて書かせることで綴り方の技術向上を目指しているそうである。この中にはアマチュアにもかかわらず凄い力を発揮している人物がいるという。何人か実例を挙げ、これこそ限界芸術の典型であるという。
 その人たちを総称して福住は、「気概を持って取り組んでいる」、「必ずしもプロフェッショナルな専門性には回収しえない何かが潜んでいる」といい、限界芸術を「プロフェッショナルとアマチュアのあいだの領域であり、専門家と非専門家がそれぞれの立場から切り開こうとしなければ、決して見出すことのできない境地である」という。さらに福住は夏目漱石(1867〜1916)の短いエッセイ「素人と黒人(くろうと)」を引用して、文芸作品の評価基準を漱石は「素人離れのした、しかし黒人じみていないもの」としているが、漱石も潜在的に限界芸術の考えを保持していたようだ。(ここでの黒人は玄人であろう)。
 福住はアマチュアのほかにプロフェッショナルと思われるところからも何人も具体例を取り上げ述べている。「プロフェッショナルとアマチュアの間の領域」という点で限界芸術家として挙げているようだ。典型例として鶴見は宮沢賢治を挙げたが、福住はChim↑Pomを一押しで挙げているようである。面白い。なぜなら私もChim↑Pomに関心があるからである。両者の落差に時代の推移を感ずるが。

 鶴見は、「芸術の発展を考えるに際して、まず限界芸術を考えることは、二重の意味で重要である」とし、「第一には、系統発生的に見て、芸術の根源が人間の歴史よりはるかに前からある遊びに発するものと考えることから、地上にあらわれた芸術の最初の形は、純粋芸術・大衆芸術を生む力をもつものとしての限界芸術であったと考えられる」と。「第二には、個体発生的に見て、われわれ今日の人間が芸術に接近する道も、最初には新聞紙でつくったカブトだとか、奴ダコやコマ、あめ屋の色どったしんこ細工などのような限界芸術の諸ジャンルにあるからだ」としている。
 つまり第一の理由から「遊び」が、第二の理由から「身近にあるもの」「身の回りのもの」が芸術発生の原点であり、限界芸術はこれを核としているということであろう。

 現代アートのWeb site −PEELER−5月号の拙稿に「美術の今」と題して、最近の美術作品の傾向を5項目に分類し、その1つに「『ずれ』や『日常性』に関する表現」があると記した。私のわずかな経験則からである。この中に当然Chim↑Pomも入れた。「ずれの表現」=「遊び心」、「日常性」=「身近な、身の回りの」といっていいだろう。そうだとすれば、結果的に限界芸術の具体例とPEELERに記したそれとはかなり近い。
 また、原美術館で昨年、国際交流基金海外巡回展として「ウィンター・ガーデン:日本現代美術におけるマイクロポップ的想像力の展開」展が事前開催された。ここでもChim↑Pomが取り上げられていた。一例にすぎないが、限界芸術とマイクロポップとはこの点で一致する。マイクロポップは美術評論家、松井みどりが歴史の流れなどの分析結果得た結論である。
 PEELERにしても、マイクロポップにしても、限界芸術とはアプローチは異なるものの、取り上げる内容が同じとは限界芸術に関心を持たざるを得ない。「なぜそうなるのか」である。現代のような、大きな物語のない時代、一見何でもありの時代など総じて混とん状態のように思える。しきりに何かを模索している時代のように思えてならない。このような時代には思考がひとりでに原点に還元されるのかもしれない。鶴見のいう「自分の今いる日常的な状況そのものから、芸術の創造がなされなくてはならない」とか、「芸術の根源が人間の歴史よりはるかに前からある遊びに発する」など、「日常性」、「遊び心」が作品に登場するのは、原点回帰の表れではないか。そうであれば限界芸術論から最近の傾向が一部説明できる。発見である。

 近刊図書「反アート入門」(椹木野衣著)(幻冬舎)の中で美術評論家、椹木は、美術の歴史上芸術の価値は人の価値よりも高いという考え方が長い間支配していた。そうではない、芸術には「芸術の分際」があるという。これをわきまえた上で、文明における芸術概念の抜本的な修正が必要だという。それは「・・・、誰もが参加することができるような、なにか流動的な生そのもののような芸術です。それが日々、日常のものであり、かつ創作者と鑑賞者が交換可能であるような芸術です。文字どおり、それは万人のものです。実は西洋のアートに決定的に欠けているのは、この次元なのです」。さらに「すべての人がアーティストであるという、歯の浮くような台詞も、そのときはじめて、それが本来持つべき辞義を真に取り戻すことができるかもしれません」、という。面白い発言であり、注目すべきであろう。
 上記「誰もが参加することができるような・・・」とか、「創作者と鑑賞者が交換可能であるような・・・」などは限界芸術を示唆しているようだし、ボイスの社会彫刻を暗示しているかのようでもある。「ボイスと宮沢賢治」は前述のとおりで、双方の考えはかなり近い。そうであれば椹木のいう内容と、限界芸術そのものも近いところにあるのかもしれない。椹木はドイツの哲学者、ハイデッガーの理論から、福住は日本の哲学者、思想家、鶴見俊輔の限界芸術論からとアプローチは異なれ結論が近い。興味ある話である。

 福住は、鶴見が限界芸術を始めて述べた1956年に「世界・今日の美術展」(日本橋、高島屋)が開かれ、これを契機に「アンフォルメル旋風」が巻き起こったという。この年は誰でも自由参加できる「読売アンデパンダン展」も第8回を迎えていた。56年は「アンフォルメル旋風」、「読売アンデパンダン展」、関西の「具体美術協会」などが前衛を形成していった重要な時期だったのではないか。
 福住はこの56年を指して「限界芸術という言葉の誕生は、戦後美術にとって決定的に重要な時期とほとんど重なり合っていたのである」といい、「限界芸術と戦後美術は1956年の時点で奇妙に交差し、その後何らかの要因によってふたたび乖離していったのではないか」という。
 ところが、椹木と福住の見解の近さ、また具体例としてChim↑Pom選択の一致など、はからずも両者は近い結論を得るに至っている。56年以降乖離していた両者がここにきて再度接近し交差する時点に差し掛かったのではないか。そうであればこれも興味ある話である。ヒョンナことから限界芸術とその周辺についていろいろ知ることができた。発見もあった。限界芸術の動向をぜひ今後も注視したいものである。



著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、生命保険会社退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室MOMASコレクション作品ガイド)を行う。

ウエブサイト アートの落書き帳

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。

 


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