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言葉と意味
言葉の意味
TEXT 藤田千彩
言葉。
私たちは普段、しゃべり、書いている。
しかし海外へ行ったときに日本語は通じない。
イタリアでパスタを注文しても、マカロニみたいなものが出て来る。
英語が世界共通語と言われても、彼らにはイタリア語しか通じないからだ。
日本語でアートを書く仕事をしている私は、おそらく誰よりも言葉について敏感になっている。
稲垣智子の新作は、日本語による対話形映像作品である。
正しく書くと、対話、ではない。
双子のふたりが、ひとつのストーリーを前からと後ろからしゃべっているような仕組みになっているからだ。
そのストーリーに物語性はない。
正しく書くと、ない、わけではない。
双子のふたりが見掛けた女性のこと、見掛けた場所のこと、見掛けた時間について、論議しているよううな物語に「聞こえる」からだ。
私は双子のふたりの会話を聞きながら、「意味」を求めてしまう。
「5時15分だった」
「7時15分だった」
推理小説のように時間を確認しあう双子のふたりの「言葉」に、私は夕暮れの5時15分と真っ暗な7時15分を想像する。
その想像は他の言葉を遮断し、私自身の中だけで反すうされている。
なにも手掛かりのない、事件が起こるわけでもギャグが連呼されるわけでもない「言葉」の掛けあい。
そんな画面をずっと見ながら、私は双子のふたりの「言葉」に「意味」を求めてしまう。
作品タイトルが《あいだ》だったことを思い出す。
私は「言葉」と「意味」の「あいだ」ばかりを探っていた。
双子のふたりの関係性や距離感という意味での「あいだ」だったのかもしれない。
あなたは何の「あいだ」を読み取っただろうか。
唐突に聞かれても答えられないこの問題は、すべてを失ったいまの日本に何が必要かを問いかけているのではないだろうか。