topreviews[稲垣智子「間―あいだ」/京都]
稲垣智子「間―あいだ」

画像1

画像2

画像3

画像4
《間―あいだ》2011年 ビデオ  

藤田千彩によるレビューはこちら
〈あいだ〉に生起する出来事
TEXT 高嶋慈

パフォーマンスや映像、インスタレーションなど様々な媒体を用い、またそれらを複合的に組み合わせた作品を発表している稲垣智子。彼女の作品は、虚構と現実、私たちを取り巻く消費社会、そこに潜むみえない暴力、モノの消費者であるとともに消費の対象として眼差される女性の存在、などについて鋭く問いかけてきた。稲垣の個展「間―あいだ」に出品された同タイトルの映像作品は、展示会場である同志社女子大学のキャンパス内で撮影されており、巧妙なセリフの構成、カメラの視点の移動、さらに映像の編集作業を経ることで、「いま・ここ」の確かさを揺るがし、見る者をある裂け目へと至らせるような仕掛けになっている。
《間―あいだ》は、真正面にカメラを見据えて話す、女性の静かなモノローグで始まる(画像1)。「その日は風が強かった…」。夕刻の公園を通りかかったある日の情景を思い出しながら、話し続ける女性。だが、一見モノローグのようなセリフが淡々と続くものの、正面像の女性の服がわずかに異なるショットが差し挟まれる(画像2)。そしてカメラの視点の移動。やや斜め後にカメラが引くと、よく似た髪形、顔立ち、服装の女性が、二人向き合って会話していた場面であると分かる。先ほどの正面像は、発話している相手をそれぞれが見ている視線であったのだ。
さらにカメラの視点が切り替わる。すると画面の左右に映し出された二人は、窓ガラスの向こうに芝生の見える開放的な室内におり、向かい合って会話していることが分かる(画像3)。しかし二人の見た目の相似性とは裏腹に、会話の内容がだんだんズレをはらんでいく。「時計は5時15分を指していた」「いや、7時15分だった」。始めはささいな食い違いは次第に大きくなり、相手への不信感を募らせていく二人。「相手を確かに見た」と片方が主張すれば、「私は公園になんか行かなかった」と否定する他方。「正直に言ってよ!」という非難を相手に浴びせ、ビンタの応酬でドラマはクライマックスを迎えたかに見える(画像4)。
だがその後、二人の間に生じた裂け目は、再び何事もなかったかのように閉じていく。会話に生じていた食い違いは徐々に姿を消し、互いに互いのセリフをなぞるような会話に戻っていき、分裂した二本の線は、再び一本の線としてモノローグ調の中に回収されていくのである。いつの間にか閉じていく裂け目。だが、そこに安堵感はなく、どうにも説明しきれない居心地の悪さだけが残る。
大学のキャンパス内に存在する現実の場所と、映像内に映し出された場所。見た目はそっくりな二人の人物が交わす会話の、相同性と食い違い。《間―あいだ》は、様々なズレと共振をはらみながら、解決不可能ないくつもの問いをひらいていく。彼女たちの会話内で食い違いの発端となる「時刻」についての言及が、「夕方」という昼と夜の〈あいだ〉である点も、非常に示唆的である。この〈あいだ〉では、いったい何が生起しているのだろうか?そっくりな彼女たちは双子なのか、それとも互いが互いの鏡像であり、分裂した自己像として映し出されているのか?裂け目が出現していたのは、一人の人間の分裂症的な会話の内なのか、それとも、映像を見る私の方だったのか?映像の中に答えはなく、問いは、解決不可能な裂け目としてそこにとどまり続ける。


画像5 《Sakura》2009年 ビデオ

種明かしをすると、《間―あいだ》ではリバース(巻き戻し)の操作が効果的に用いられており、ビンタの応酬の場面を境として、以降の会話部分の映像は逆再生になっている。もちろん音声は後で別録りしたものをあてているため、注意して見れば、口の動きと音声のギャップに気づく観客もいるかもしれない。
このように、リバースや、映像と音声のズレなどの編集作業を駆使することにより、ドラマ性よりも映像を成り立たせている構造自体に焦点を当て、「見ているもの」の意味をズラすメタ的な作用は、一昨年に発表された映像作品《Sakura》においても顕著であった(画像5)。満開の桜の下、首を左右に振り続ける人物の頭部が映し出される。長い髪の毛が顔を覆い隠しているため表情は読み取れず、性別も判然としない、中性的な人物だ。音もなく、延々と繰り返される、否定の身振り。だが突然、首振りの動作に合わせ、平手打ちとパンパンという鋭い音がかぶさり、誰かに殴られている場面に転換してしまう。しばらくすると、頬を叩く誰かの手は画面から消え、また元の首振りの動作に戻るのだが、パンパンという音だけは残響のように残り、みえない手が執拗に頬を叩き続けていく。頬を叩く鋭い音は最後には銃声へと変化し、よろけて倒れた人物が画面から消え失せて映像は終わる。
ここで、人物の動作は「否定する」という能動的で自らの意思を主張する立場から、「殴られる」という受動的で弱い立場へと変貌してしまう。《Sakura》では、固定位置のカメラ、淡々と続く同じ場面の映像というシンプルな構成の中に、音声のON/OFFの切り替えという操作が加わることで、否定/殴打という全く別の意味が付与されてしまう。ここでもまた、映された人物の性別の判断が曖昧なように、「首を振る」というごく単純な動作は、相手に対する拒絶/自分に向けられた攻撃という、二つの暴力の両極の〈あいだ〉を振り子のように揺れ動き続けている。音声のON/OFFの切り替えに伴い、動作の意味合いが変化するだけではなく、暴力の向かうベクトル自体もまた、目まぐるしく反転するのだ。否定や殴打の対象や理由は、全く明らかにされぬままに。そして最終的には、否定とも殴打とも決定不可能な領域へともつれこみ、蓄積された暴力がインフレーションを起こすかのように、銃声が鳴り響いて幕が閉じられる。


画像6 《最後のデザート》2002年 インスタレーション 写真:福永一夫


画像7 《春》2004年 インスタレーション


画像8 《春》2004年 インスタレーション


画像9 《Garden2》2003年 パフォーマンス/インスタレーション


画像10 《嘔吐》2007年 インスタレーション

このように、近作の《Sakura》と《間―あいだ》においては、編集作業の駆使により、映像を成り立たせるレトリックへと焦点がシフトしてきていると言える。逆に言えば、以前の作品では身体的なパフォーマンスに焦点が当たっており、特に消費社会における女性の位置の二重性(化粧品やお菓子など嗜好品の消費者であるとともに、自分自身も男性の眼差しによって消費される存在でもあること)への批判的な言及がなされていた。
例えば、2002年に発表された《最後のデザート》(画像6)。テーブルに所狭しと並べられた、美味しそうなスイーツの数々。奥のスクリーンに映る男女は、繰り返しキスを交わしているように見える。だが本当はキスではなく、女性の唇に塗られた口紅を、男性が食べる動作が(口紅が1本無くなるまで!)繰り返されている。また、テーブルに並べられた甘いデザートは、会期中ずっと展示されていても腐らないという。「甘くて美味しそう」なこれらは全て、食品衛生法で定められたギリギリの量の防腐剤や添加物が入っているのだ。「腐らない」食品は、「食べられる」本物でありながら、限りなくフェイクに近い。そしてこの毒の混ざった甘美な供物が奉げられているのは、愛の交歓に見せかけた、「口紅が食べられていく」という消費行為であり、そこで女性は、華やかなデザートや化粧品のように消費される存在であることが示唆される。
また、2004年の《春》(画像7、8)では、石鹸で作られた彫像と造花を空間に配置したインスタレーションに加え、バスタブに浸かった女性が、自分とそっくりな等身大の彫像をきれいに洗い流していく映像が作られている。オペラ「椿姫」より乾杯のテーマを楽しそうに歌いながら、彫像をやさしく洗ってやる女性。だが、一見大理石で作られたかのように見える白い彫像は、石鹸でできているため、次第に溶けて形がなくなっていく。
また、2003年の《Garden2》(画像9)と2007年の《嘔吐》(画像10)は、稲垣によると、対になる作品であるという。《Garden2》では、服をたくさん着込んだ女性がレトルト食品を食べていくうちに、一枚また一枚と服を脱ぎ、痩せていくように見える。逆に《嘔吐》では、女性が口から何かを吐き出すごとに、服が一枚ずつ重ねられ、どんどん太っていくように見えてしまう。耳障りな音とともに吐き出されるのは、醜い吐瀉物ではなく、紫やピンク、オレンジのカラフルな液体(マニキュアの液)やキラキラした宝石。食べることへの欲望と、美=痩せることへの願望の同居が、不自然なねじれとして露呈される《Garden2》。食べることへの嫌悪が、美=着飾ることへの願望として文字通り吐き出される《嘔吐》。どちらの作品においても、身体を拘束する強迫観念に気づかぬまま(あるいは気づかぬフリをして)、女性たちは憑かれたような動作を反復し続ける。
稲垣は、上記の《最後のデザート》、《春》、《Garden2》と《嘔吐》のいずれにおいても、カラフルで砂糖菓子のように甘い夢の空間の中に毒をしのびこませ、表面的な美や悦楽が、見る者の内で次第に虚飾性や嫌悪感へと変化していく回路を作り上げている。また、小道具として使用されている口紅やお菓子、石鹸やマニキュアは、実用品ではなく女性のための嗜好品であり、いずれも物理的に「消えてなくなる」ものばかりである。つまり快楽に加えて、生産には結びつかない「消費」の側面が強調されているのだ。例えば、「石鹸製の女性の彫像」は、男性の眼差しによって形作られた、理想的な美の規範たる古典的な大理石の彫像に見えるが、大理石という素材が象徴する「永遠の美」は、身体を美しく清潔に保つべきという要請に従って、逆説的に溶かされ消滅していく。これら一連の作品では、消費社会と男性の視線によって、消費する/消費される二重の存在であるという矛盾を抱え込んだ女性のあり方に対して、美しいものへの憧れと皮肉を織り交ぜた言及がなされているのである。

このようにフェミニズム的な解釈が可能な過去の作品と比べた時、《間―あいだ》は表面的にはセリフを多用しているものの、論理的な読解を拒むもののように思われる。会話の中でどんどん肥大していく分裂症的な裂け目は、ビンタの応酬によってフラストレーションが打ち破られるように見えるものの、時計が正確には「5時」だったのか「7時」だったのかの真偽の判定は言表行為それ自体の中にはなく、この会話自体がそっくりな二人による認識の違いによるものなのか、一人の人物の中で分裂症的に生じたものなのかすら、判断が不可能なのだ。閉じていくように見える裂け目は、完全には和解へと至らず、見る者は判断宙吊りの中に置き去りにされる。その時、コミュニケーションの基盤である言語は、その構造自体がはらむ脆弱さをあらわにするだろう。稲垣によれば、本作を制作した背景には、3.11の震災後の原発問題や、メディアの報道に対する意識があったという。私たちが再びアートとともに出発することが可能であるとしたら、それはこのような〈あいだ〉―真偽、善悪が決定不可能な領域、暴力の向かうベクトルが絶えず反転し続け、 その在りかを特定し難い場所―に身を置き、そこから考えることにあるのではないか。


稲垣智子「間―あいだ」
2011年6月20日〜7月28日

同志社女子大学 情報メディア学科mscギャラリー(京都府京田辺市)

 
著者のプロフィールや、近況など。

高嶋慈(たかしまめぐみ)

1983年大阪府生まれ。
京都大学大学院在籍。『明倫art』(京都芸術センター発行紙)にて隔月で展評を執筆。関西をベースに発信していきます。





topnewsreviewscolumnspeoplespecialarchivewhat's PEELERwritersnewslettermail

Copyright (C) PEELER. All Rights Reserved.