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a.《Phantom
object #10》※回転しているモノは鉛筆 b.《Phantom object #5》※回転しているモノはサンダル
c.展示風景 |
神聖なるものが宿るとき
TEXT 横永匡史
例えば、夕暮れに紅く染まる空のように。
例えば、雨上がりの空に架かる虹のように。
それまで見慣れていたものが、ふと美しさを見せるとき、そこに神々しいとも言えるような神秘的な雰囲気をかもし出すことがある。
僕たち日本人の祖先は、そうした数々の神秘的な現象に神の気配を感じ取り、時として信仰の対象としてきたのだ。
矢津吉隆は、京都を拠点に活動するアーティストユニットAntennaにかつて所属していた。Antennaについては、筆者が以前上梓した
レビューを参照していただきたいが、自主制作映画『囿圜
yu-en』を核に、彫刻、絵画、インスタレーションなど様々な手法を用いてかつての日本をモチーフにした架空の世界を表現してきた。そのときは、作品自体のクオリティもさることながらその世界観の作りこみや、それを作品として表現する際のプロデュース能力の高さに目を見張った。
矢津は、Antennaにおいては主にドローイングを担当していたというが、Antennaから独立して行われた今回の個展においては、Antenna同様に日本的な美意識をベースとしながらも、一転してシンプルな作品を出展している。
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d.《Rotating
phantom #5-2 (ceremonial paper strings)》
e.《Rotating phantom #6-2 (water pistol)》
f.展示風景 |
様々なモノがモーターによって高速回転する。
言ってみれば、今回出展された作品はこの一言に集約される。
例えば、2階に上がって最初に展示されている《Phantom object》と題された一連の作品を観てみよう。
目にもとまらぬ速さで回転し続けるモノたち。最初は何が回っているのかもわからず、まずはその回転の軌跡が目に留まる。
一面黒く塗られた壁面をバックにライティングに照らされて回転するその軌跡はただただ美しい。回転運動ゆえ、回転するモノたちを投射する光は、透過と反射を繰り返し、その回転の軌跡もいつしか物質感や現実感を喪失していく。
しかし、回転が止まり、回っていたモノたちがサングラス、鉛筆、サンダルなど、日常見慣れたモノであることがわかると、一気に現実に引き戻されたかのようなギャップを感じる。
そして、ふとひとつの疑問が浮かぶ。
「いま目にしていたものは何だったのか?」
《Phantom object #5》において回転するサンダルを例にするならば、目の前にあるモノはサンダルと言われればその通りなのだが、それは、人が履くという機能は剥ぎ取られ、一般的に言うサンダルの形すらしていない。僕たちが目にしているのは、いわば光の残像に過ぎないのである。少なくとも、僕たちの目に映る像においては、目の前のモノは、物質から非物質へと変化させられているのだ。
さらにこれらは、それぞれ博物館よろしく個別のケースに収められている。ここでは、非物質化したものを別の物質(=モノ)として提示しているように見える。
モノが回転する。こう書くといかにもありふれた現象のようだが、矢津はこれを、物質と非物質の境界を越境するものとして表現しているのだ。
展示室の先にある回廊に展示された写真や、一番奥の展示もこうした方向性にあるものだろう。この回廊に展示された写真《Rotating
phantom》のシリーズは、先の《Phantom object》を撮影したものだ。回転の瞬間をとらえたもの、シャッターを開けておいて回転運動の全体像を写したもの、と写真によって異なるが、背景はいずれも黒に統一されたこともあり、《Phantom
object》で感じた光の美しさがより強調されているように感じる。何やら現実のものではないような神秘性をも感じさせるのだ。
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g.《the
Corona -red-》 h.《the Corona》
(c)Yoshitaka Yazu. Courtesy Takuro Someya Contemporary
Art
Photo Masaru Yanagiba |
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i.展示風景
j.《Flower's phantom》
(c)Yoshitaka Yazu. Courtesy Takuro Someya Contemporary
Art
Photo Masaru Yanagiba
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そして、一番奥の展示室に入ると、現実感の喪失は一層顕著となる。
ここで回転するものは、アクリル板や金属板に取り付けられたLEDだ。これが、色を変え、オン/オフを繰り返しながら回転する。
回転運動によって生み出される光の円環は、それ自身が意思を持っているかのようにその姿を次々に変えていく。そして、光の円環が姿を変える度に、僕の中のイマジネーションがダイレクトに刺激され、新たな世界が現出するように感じられた。
特に、展示室の奥に展示された大型の作品である《the Corona》は、金属板の回転が生み出す風と相まって、光の円環が大迫力で迫ってくる。それは、室内の空気を支配し、別世界をつくり出していると言ってよいだろう。
こうした、回転運動によって生み出される空間の変容は、吹き抜けに展示された《Flower's phantom》でも、違った形で提示される。この作品は、モーターで回転する花が円状に配置されているのだが、花の回転運動が周囲の空気を震わせ、まるで結界のように、円環の内側を侵しがたい空気を生み出しているように感じられた。
本展は「Holy and Common」と題されている。
神聖なモノとありふれたモノ。
矢津の作品は、ありふれたモノと回転運動を結びつけることで、日常の中に理解を超越した非日常の美の世界をつくり出す。
人が己の理解を超えるものに対して抱く“畏れ”と、日常目にすることのない“美”が結びつくとき、そこに神聖なるものが生まれる。
ことに日本人は、古来より、自然の中に存在する神聖な現象を神の所為として崇め、信仰してきた。
矢津の試みは、そうした構造を美の観点から現前させたと言えるのではないだろうか。
作品を観ていて、ふとそんなことを考えた。
そしてもうひとつ着目すべきは、これらの“美”が生み出されるのに、僕達の脳が密接に関与しているということだ。モノが回転すること、その現象そのものは意味を成さない。それを僕たちが視覚などで感じ取ることで、はじめてこうした信仰のメカニズムは機能する。
“神”なるものは、実は僕たちの中にあるのかもしれない。