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「医療と芸術」展

大学病院で展覧会をする、
という試み

レビュー:「医療と芸術」展

TEXT 中村圭

展覧会ポスター
はじめに
「医療と芸術」展は、広島大学病院(広島市南区)の入院棟や資料館、敷地等を会場にほぼ1ヶ月の会期で開催された。企画運営は同病院のスタッフらによる。参加作家は27名を数え、その経歴も様々だ。

昨今、場所性と関係したアートプロジェクトが全国各地で開催されており、今後もその動向は多様化していくことが予想される。ここでいう場所性とは、その場所特有の地勢や歴史であるのみならず、そこで生活している住民とどのような関係をむすぶか、という課題を含んでいる。もちろん、そこには、作家、オーガナイザー、住人たちそれぞれのアプローチがある。

「医療と芸術」展もまた、「大学病院」という場所が含んでいるテーマに関連して企画された。その中心課題は、病院の存在理由である「医療」に芸術がどのように貢献できるのだろうか、という実践的問いかけであった。医療と芸術という2つのテーマをつなぐ理由は、展覧会の趣旨文の「全人的医療貢献できる新たな領域」を模索するとの一文に見ることができる。この「全人的医療」という言葉は、広大病院の正面入口に掲げられた広大病院の理念の中にも含まれている。
全人的医療という言葉を少し調べてみると、「身体的治療だけでなく、精神的苦痛や社会的苦痛などを癒すこと」というような意味だった。

「病院」といえば、病気や怪我をした時に治療を受けに行くところだし、あるいは、入院中の人にお見舞いや看病をするところだ。そこに通院または入院している患者さんには軽度の容態の人から重度の容態の人もいる。病院で死を迎える人がいる一方で、別の場所では新しく生まれてくる命がある。また、病院は医療スタッフの職場でもある。広大病院は大学病院だから、そこには研究者もいるし、医学部の学生もいるだろう。食堂や売店、理容室で働く人もいる。病院は、患者さんを中心とした医療の現場という前提があるものの、さまざまな人々で構成された小さな町のようだ。

各作家の展示作品について
こうした、大きな病院を会場として、そして、「医療と芸術」というテーマについて、企画者、そして参加作家はどのようにアプローチしたのだろうか。以下、箇条書きで展示の様子を紹介したい。


アシュレイ・ディーン
「Moir vision Films tide Sequence.」
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Ashley Dean《Welcome to my lupine hell》、《Moir vision Films tide Sequence》
作者が見た悪夢を再現した映像と、架空の航空会社の広告を、外来棟の2階にある「いこいの広場」で上映。悪夢を再現した映像では様々なシーンが細かくスクラッチされ神経質な絵になっている。猿がオルゴールのようなものをまわしていると、突然画面にノイズが走る。

赤岩史子《空》、《Collaboration in peace》、《生命》
鉄、ガラス、水といった素材を使い、3作品を展示。カンファレンスルームのある廊下の最奥部にある作品のみを見た。鉛でできた池に水がはられており、その底に白い蚕の繭が沈められている。浸された繭は、新しい命の象徴なのか、あるいは死のそれなのか。


伊東敏光
「怪物と少年2005」
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伊東敏光《怪物と少年2005》
入院棟の南側にある芝生に、院内学級に通っていた子どもの絵から「怪物」の彫刻と、少年の彫刻を対峙させた。医療と芸術というテーマ結びつけようとする意志が感じられる。この怪物は、作家の中にいる〈少年〉のもう1つの姿なのかもしれない。

神田博史《笑薬の治の輪》
入院棟玄関に、様々な薬草でできた《笑薬の治の輪》を展示。収穫された作物が祭事のために飾られたようでもある。略歴をみると、薬用植物の専門家であり広大医学部の助教授とある。

桑田覚《in peace1》、《in peace2》
入院棟の病室が並ぶフロア、中庭にあたるライトコートに線状の鉄で百合の花を展示。林立する百合の花はちょうど人の背の高さくらいある。作品は外に展示されており、多くの人は廊下から窓越しに作品を鑑賞する。ワイヤーフレームになった百合は、植物としての瑞々しさではなく、その形態を全面に主張する。窓越しに見たために余計そのことが強調されていた。

櫻井友子《0(ゼロ)》
歯科外来棟に、ザクロの中から幼児の足が覗いている彫刻を展示。櫻井は以前より様々な足にまつわる作品を作っている。表情がもっとも端的に表れる身体の末端への興味が伺える。中二階という余剰的な空間になった不思議な果物のようであった。

須田悦弘《雑草》、《蓼》
資料館の展示室や検査部の窓口に木彫作品を展示。注意しなければ見逃してしまいそうだ。小さな雑草は、まわりの展示資料の間に鮮やかな色を発して小さく芽吹いている。どこにでもある小さな風景を切り取り、その精緻なかたちに目を向かせる。

瀬戸理恵子《Rieko's Box Vol. 3》、《Box for my head and hand》
資料館に《Rieko's Box Vol. 3》を、入院棟の医療スタッフのステーションに《Box for my head and hand》を展示。ダンボールを人(作家)の部分的に形に型どった作品。まるで体の一部を収めるための形のようだ。身体をぴったりとその形にあわせることで、あやふやな外界との境界を埋めようとしているのだろうか。

高橋佳江《Present. 2005》
入院患者の持ち物を人形という形に変えて作品にし、会期終了後元の持ち主に返すというプロセスを含んだ作品を展示。廊下のガラスにいくつもの人形がまとめて展示されていたが、むしろ、この作品が元の持ち主にプレゼントされた時の事のほうが重要であるように感じた。

手取実咲《Today》、《命の祈り/經(タペストリー)》
真鍮のプレートに般若心経が抜き文字で施されている作品は、一瞬、死や葬儀を連想させる。しかし、そこに込められているのは、生老病死から逃れられない人間という存在への道標なのだろう。しかし、それを読み解くには作品以外の説明が必要だったのではないか。

戸川幸一郎《ゆめ ゆめ 飛べ》、《星カラス》、《ダレノモノデモナイトリ》
3つの絵画作品は、それぞれ3羽の鳥が描かれている。泣いたり、飛んだり、見わたしたりしている鳥は、そうしたい、と願う戸川の代行者なのだろうか。

長岡朋恵《arcade panic》
院内には、休憩のためのテーブルや椅子があちこちにおかれているが、その一部が作品に作り変えられている。白いシリコンに包まれたテーブルから、今まさに生まれようとしている得体の知れない生き物が顔を覗かせる。その近くには、両親と思われるオス的な生き物とメス的な生き物が体をくねらせている。

西山真実《光のみちをたどる》
ガラス窓がつづく廊下の一角に、絵画作品を展示。ガラス窓の1つにはめ込まれるように掛けられたキャンバスには、少ないストロークで植物の形が描かれている。背面からは外からの日光が差し、うっすらと窓の外の景色さえ透けて見えそうだ。

野村敦《川と海の記憶》
石の隙間に張り巡らされた根のように、石膏のプレートの上を木の枝(あるいは根)が固定されている。その一端から一気に立ち上がった小さな小枝。しかし、その枝には葉はついていない。まるで雪の中に立ちつくす一本の木のような素朴な強さを感じさせる。

原仲裕三《0061 HIROSHIMA TIME-Another World's Standard Time 2005》
病院内の敷地にある原爆放射線医科学研究所の壁面に、原爆と核実験をテーマにした映像作品を映写。古びた外壁に映し出されたキノコ雲の映像は、60年前、今見ている空で立ち上ったものだった。時間は違えども、その瞬間は、多くの人にとってちょうど今のこの時のように毎日の中のある一瞬だったのだろう。

ばんば まさえ《残像》、《hands》
白くて無数の凹凸のある布が人の下半身の形を成して3体、廊下の奥に立っている。近づいてその表情をよくみると、まるで人の抜け殻が吊られているようだ。ふっくらとした凹凸は、装飾的なもののように見えるが、異体化した皮膚のようでもある。

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「医療と芸術」展

広島大学病院(広島県)
2005年9月2日(金)−9月30日(金)
主催:「医療と芸術」展実行委員会
 
著者プロフィールや、近況など。

中村圭(なかむらけい)

1975年大分生まれ
2003年広島市立大学大学院修了
現在、同大学芸術学部の協力研究員


 


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