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美術散歩


「新世代への視点2010」を見る

TEXT 菅原義之



 今年も「新世代への視点2010」が始まった。これは銀座、京橋にある11の画廊がそれぞれ新人アーティストの作品を個展形式で紹介するもの。40歳までのアーティストが対象。1993年から開催、今回で11回目だそうである。このところ毎年見ているが、今回も初日に見た。

 素晴らしい企画なので参加画廊を紹介すると、
 ギャラリーなつか、コバヤシ画廊、ギャラリイK、ギャラリー現、ギャルリー東京ユマニテ、藍画廊、なびす画廊、ギャラリーQ、ギャラリー58、GALERIE SOL、gallery21yo-jの11画廊である。 gallery21yo-jだけは世田谷に移転したがこれに参加している。残念ながらここには訪問することができなかった。
 11人のアーティストの生年を見ると70年代3人、80年代8名であり、昨年は70年代が8名、80年代3名で丁度反対だった。80年代が活躍を始めた様子が分かるようでもあった。

山本聖子(コバヤシ画廊) 
《空白な場所》2010 物件広告、ラミネート、アクリル

 
 作品を見てみよう。
 山本聖子(1981〜)(コバヤシ画廊)。展示室の周囲一面に1.5メートル近い高さに、何やらを張り巡らしている。よく見ると新聞や雑誌の広告にある住宅の間取り図を丁寧に切り取り、それをびっしり貼り付けた作品である。切り取ったものを両面から透明のフィルムでパウチするように挟んで制作したそうである。壁面から20センチほど離して展示、影が白い壁面に映り不思議な雰囲気をもたらしている。平面図は立体物である住まいの表現には不可欠。同時に平面図を見て、逆に住まいの情景を思い浮かべる。「あっ!そうか」。突然、思考回路が働き、平面と立体の往還が始まる。また、フィルムを壁面から離すことによって平面図の影が白い壁面に映り、実像と虚像とが響き合い、奥行きを感じさせる。
 後ろの部屋には小作品が何点もあった。色付きの平面図を集め中央部にやや大きめの図を、周囲に小さいものを配置している。全面が一様でなく作品として映える。背後のシートからやや離して配置、その影が映り奥行きを感じさせる。色彩が何色も用いられ見事。その他浴室平面図だけを貼り合わせた作品もある。バス部分を切り抜きここだけ光を通すようにした作品など小作品コーナーもヴァリエーションが豊かで面白かった。
 家という日常生活にとって不可欠なものを、新聞や雑誌など身近な素材から拾って制作する。切り抜きだけでこんな作品ができる。発想の奇抜さに感心。現代的な感覚もひしひしと感じた。
富田菜摘(ギャルリー東京ユマニテ)
《さんざん待たせてごめんなさい》2008・2010 ミクストメディア、新聞、雑誌、折り込みチラシ
 富田菜摘(1986〜)(ギャルリー東京ユマニテ)。展示室中央には実物大の10人の人物像が列を作っていた。タイトルは≪さんざん待たせてごめんなさい≫である。それらの人物は何やら待っているようだ。売り出しの開店を待っているのかもしれない。人物構成はいろいろ。老若男女、外人もいる。先頭の人物は新聞を広げて読んでいる。2番目のお年寄り男性のズボンを見ると何やら書いてある。「東証一時8000円を割る」と。年齢、性別などから人物の一般像を割り出し、それに相応しい新聞や雑誌の切り抜きで人物の表面を作るとのこと。その痕跡が読めて面白い。若い女性もいた。顔、手、足は、雑誌掲載の女性の顔写真を貼り合わせて肌の色合いを出していた。しかもそれぞれの人物に名前がついている。若いスポーツマンタイプの男性には≪さんざん待たせてごめんなさい、北島大輔≫である。水泳の北島康介をもじって付けているのか。思考が細部にまでわたり、きめ細かさに感心する。
 壁面の作品も面白かった。電車内のベンチの様子である。7名の男性が並んで座っている。タイトルは≪午前8時の丸ノ内線≫。通勤電車風景だ。スーツ着用の男性サラリーマンが座ってそれぞれ別々なことをしている。居眠り、読書、携帯操作などである。終電風景では、酔っ払いの表情が面白かった。
このように都会で誰もがお互いに知り合いでもないのに、規則正しく行列したり、電車内で秩序正しく座って思い思いの仕草をしている。日常ありふれた現代の典型的な社会現象を鋭くえぐり出す。的を射ていて痛快だった。

豊泉綾乃(ギャラリーなつか)
《日常(緑のスーツ)》2010
157.5×115cm紙、水彩、鉛筆

 
 豊泉綾乃(1981〜)(ギャラリーなつか)。絵画が7〜8点、全て人物を描いたものである。でも何か変だ。人物の頭部や顔が全部とか一部構図から外れている。人物を描いているが肖像画ではない。意識的に顔や頭を外して描いているようだ。ごく日常ありうる人物の仕草が大事なモチーフなのかもしれない。椅子に座って両手をそれとなく膝に乗せている女性、走行中の車の助手席に乗って前方をなんとなく眺めている男性、椅子に座り緑のスーツを着た胸元から膝までを描いた女性像など、いずれも日常よくある仕草を取り上げているようだ。顔の見えないのがかえって気になる。なぜ?と思わせる。見たいところを意識的に「ずらした表現」だろう。こんなところに惹かれる。覗きたいところが覗けないもどかしさかもしれない。日常的なようで着ているスーツが必ずしもそうでないようだ。これも気になる。「ずれの表現」かもしれない。コメントには「日常に潜む非日常を感じる部分を選んだ」と。
水彩絵具を巧みに使用してさらっと描き、輪郭のややあいまいな表現がいい。日常に潜む非日常性、構図の上で何か変だと感じさせるところなど、あえて「ずれの表現」を取り入れる発想の面白さ、ユニークさに感心。描かれた女性はなぜか魅力的だった。



柏木直人(ギャラリーQ)
《film#4》2009 FRP、ウレタン塗料 H89xW45xD37(cm)
 

 柏木直人(1981〜)(ギャラリーQ)。いずれもFRPで制作された彫刻作品である。1点は白色の人物立像、もう1点は彩色された人物の頭像である。前者は両手を上着のポケットに入れ、ややうつむき加減の男性像。後者は長髪で首をやや斜めにした女性像。「個々が所有するイメージと現実の世界と繋ぐかたちを探り、彫刻の表面におけるイリュージョンのあり方を追求する。・・・」とコメントする。両者はいずれも表情がやや淋しそうだ。イリュージョンの世界を表現しているのか、それとも現実か。また、壁面に小作品8点が展示されていた。左側4点はレリーフ状、右側の4点はレリーフの逆の凹彫りである。左右の作品はそれぞれ内容が対応している。実像(レリーフ)と虚像(イリュージョン)を表現しているのか。対比が面白かった。

 田中千智(1980〜)(ギャラリー現)。絵画作品7〜8点である。背景が黒一色。雪と人物、イルミネーションで飾った係船、火災中の家などが描かれている。黒い背景に「灯り」、「光」、「火」とかが目立つ。火災中の家など変な光景だ。コメントには「昨日見た夢をはっきり思い出せない。・・・それは夜の海を前にして怖くなるような感覚に似ている。・・・」と。夢の世界の断面を描いているのかもしれない。黒い背景の広い割に描いている対象が小さい。思い出せないとか、怖くなるような感覚からなのかもしれない。こんな経験って誰にでもある。不思議な絵画である。


田中千智(ギャラリ-現)
《黒い家/Black House 》 2010 915×1170mm acrylic. oil on canvas

 
 森本栄持(1970〜)(GALERIE SOL)。2点の丸みを帯びた立体作品が床に展示されていた。両者は異なるが不思議な形をしている。コメントには「自然界にある美しく嫌みのない曲線、膨らみというのはどの様にして出来ているのか。・・・嫌みのない美しいカタチが生まれることを願って・・・」と。多くのあまり大きくないアルミ板を袋状にして空気を入れて膨らまし、それをかなりの数、繋げて美しく嫌みのない曲線を描くように制作する。個々の丸みと全体の丸みを想定しているような抽象的造形物だ。嫌みのない美しい形ってどんなものだろう。人によって異なるのではないか。残念ながら必ずしも2点から嫌みのない美しい形は想像できなかった。

 この他、鎮目綾子、葉山幸恵、羽毛田信一郎、伊藤知宏などの作品もそれぞれ特徴を見ることができた。鎮目綾子(1981〜)の作品は、一見抽象絵画のように見えるが、都会の風景を描いている。表現方法、色彩の点から暗い感じだ。現代社会の一面を指摘しているのかもしれない。描写が独特で魅力的、抽象絵画とみても面白いのでは。羽毛田信一郎(1972〜)の作品は、屏風と障子を兼ねたような支持体に描かれた作品である。この支持体の表現が面白い。なぜ「蟹」か。コメントを見ても分かりにくかった。伊藤知宏(1980〜)は、野菜など日常的な素材を取り上げて描いている。「身の回りにあるものを線で描く・・・」と。壁面に何点かの野菜を描いた作品を展示。力強い表現である。大きな作品が似合いそうである。葉山幸恵(1971〜)は、コメントに「・・・水は蒸発し、泥ではなく描画材が、かつてここに水たまりがあったことを教えてくれる」と。水を連想させる抽象絵画だ。画面の青い絵具が水の虚像なのかもしれない。

 全体の印象は昨年より面白かった。前述の通り、80年代生まれがはじめて主力で登場した年のように思えた。僅少例だが、若手のいろいろな作品を見て、新しい傾向が読み取れるかどうか楽しみだった。
 全体を見て、コンセプトが分かりやすい、緩やかさ、曖昧さ、遊び心がある、面白い、日常性、身の回りにある、などに当てはまる作品に親しみを感じた。専門家の視点でなく、ごく普通の鑑賞者だからかもしれない。
 以前のPEELERに「美術の今を探る」として、現況を勝手ながら5つに分類し、その傾向を見た。今回の作品をこの視点から見るとどうだろう。下記5項目がそれである。同一アーティストが複数項目に属することもある。
 「社会へ言及しようとする表現」では、富田菜摘は遊び心を取り入れながらも社会の現況を的確に捉え、やや批判的に表現しているようだ。鎮目綾子はやや暗い表現を用いて、現代社会を深刻に捉えているのだろう。柏木直人の人物像の表情から現代社会のやや暗い一面が読み取れるように思えた。
 「領域を横断する表現」では、山本聖子は、住まいの平面図だけを素材に制作する。平面図のアート化であろう。建築との領域を横断する表現といえるかもしれない。
 「新しい領域を切り開こうとする表現」。このように分類すると何でもここに入りそうである。田中千智の夢の中で強く印象に残ったもの、あるいは感じた恐怖の絵画化か。シュルレアリスムとは異なった意味で一つのコンセプトかもしれない。森本栄持の膨らませたものを多用して美しく嫌みのない曲線、膨らみをもった構造物を制作する。発想は面白い。羽毛田信一郎の屏風、襖、障子などの複合したものを支持体として用いているなど。この発想も面白い。もっとこの人の作品を見たいものである。
 「ずれや日常性に関する表現」。これは最近の傾向の一つかもしれない。山本聖子の日常生活には不可欠な住まいと身の回りにある新聞雑誌の広告などの活用、富田菜摘の行列、電車の中など日常茶飯事に発生すること、伊藤知宏の日常使われる野菜をモチーフとする、また、豊泉綾乃のずれの表現などである。
 「実像(実態)と虚像(虚構)に関する表現」は、山本聖子の作品は平面図と壁面に映る影とのコントラストがそれぞれ実像、虚像となって見るものに立体感、不思議な感じをもたらす。葉山幸恵の水という実像を念頭に絵具で水の虚像を表現しているのかもしれない。

 この時代に生きるものとして「アートの現況がどうなっているか」、そして「今後どうなっていくのか」に関心がある。それはこれからの人たちが何を考え、どのような作品を制作しているかに繋がる。その延長線上で今回の展示を見た。こう見ることで自分なりに現代の傾向がほんの少しばかり見えたように思う。「新世代への視点2010」を通していろいろなタイプの作品を見ることができた。中には面白い作品、感心させられる作品にも巡り合えた。それぞれが思考をめぐらして制作している様子が手に取るようだった。見てよかったとつくづく思う。各人の今後の活躍を期すと同時に、この企画の今後の発展を期したいものである。

 
 
著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、生命保険会社退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室MOMASコレクション作品ガイド)を行う。

ウエブサイト アートの落書き帳

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。


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