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美術散歩


束芋 撮影:稲垣尚志



想像力豊かな「束芋:断面の世代」展

TEXT 菅原義之


 想像力が際限なく広がる「束芋:断面の世代」展(於横浜美術館)は面白かった。始めから構想がしっかり出来上がっているのではなく、描いていると次から次へとアイディアが浮かぶんだろう。なぜこんなアイディアが出てくるか驚くほどだった。新作5点の映像インスタレーションを含む個展である。以前に横浜トリエンナーレ(2001)、ヴェネチアビエンナーレ(2007)、原美術館(2006)などでも見た。いずれも想像力の展開の広さに感心した。

 美術館に入ると初っ端から大ホールが暗くなっていて正面に映像が映っていた。作品≪団地層≫だ。団地の側面が映る。側面に10とある。10号棟だろう。4階建てだ。すると側面がパッと消え1階から4階まで部屋が映る。束芋によくある表現だ。生活実態そのものが分かる。同一間取り、同一部屋なのに居住者によって異なる。家具の多寡、種類、配置、整理状態はまちまち、違いが手に取るようだ。室内模様は性格が一番表れるところだろう。現代社会に暮らす居住者それぞれの個性が浮き彫りになる。「個」をこんな形で取り上げているのが面白かった。

束芋《団地層》(イメージ)2009年
映像インスタレーション
Courtesy the Artist and Gallery Koyanagi



 3階の1室には作品≪団断≫が映っていた。≪団地層≫の各部屋を上部(天井)から全貌した様子だろう。カラーで大写しされる。色彩がきれいだし室内がよく分かる。一つの居住スペースが大写しになった後、別のスペースへと変わる。同じ間取りでも実態は異なり個性むき出し。これも≪団地層≫とは表現方法こそ異なれ個々人の生活の一断面だ。束芋は≪団地層≫と≪団断≫とで居住空間をあからさまに提示し、現代に生きる人々の日常生活の断面を切り取って表現しているのだろう。

束芋《団断》(イメージ)2009年
映像インスタレーション
Courtesy the Artist and Gallery Koyanagi



 
 3階第1室は「悪人」(挿絵原画)のコーナーだった。朝日新聞の連載小説「悪人」(吉田修一著)の挿絵が全て展示されていた。出会い系サイトから知り合い、殺人事件にまで発展してしまう現代の男女を描いた小説。この秋に映画化される。「悪人とは本当は誰なのか」を問うているのか。現代社会に繰り広げられるごくありふれた内容。日常的に起こる社会の暗い部分を顕わにしている。束芋の取り上げる打って付けの作品かもしれない。挿絵はかなりの数だった。自由自在に展開するユニークな発想に感心した。首を何本もの指で締め付けているところ、髪のずっと伸びた先はまな板の上、その髪を包丁で切るところなどなど、どうしてこんなに想像力が膨らむんだろう。以前見た束芋のデビュー作≪にっぽんの台所≫でも首になったサラリーマンの妻が料理中にまな板上で夫の首を切るところもあったはず。恐ろしい内容もアニメだから面白く見られる。こんな束芋に感心頻りだった。

 続くコーナーは映像≪油断髪≫。説明によると新聞小説「悪人」の登場人物金子美保をモチーフにしているようだ。美保はヘルス嬢、主役として登場しているわけではない。画面一面に髪の毛が大写しになる。あたかもカーテンか緞帳のよう。時々その向こうが部分的に見える。やがて髪の間から鋏と手が出てきて髪を切る。するとシャワーから水が噴き出し、水たまりができ、そこから指が2本現われもつれ合うように動く。美保が想像する男女のもつれ合う世界か、あるいは加害者清水祐一と被害者石橋佳乃の姿か、あるいは祐一と自首を止めさせた馬込光代の姿か。そこに何があったのか。本当の悪人っていったい誰か。犯罪を通して考えさせられる問題提起かもしれない。

束芋《油断髪》(イメージ)2009年
映像インスタレーション
Courtesy the Artist and Gallery Koyanagi




 ≪ちぎれちぎれ≫は変わった作品である。「個」とは物理的には小さい存在だが、想像力の点からみると物理的な「個」からは想像できないほど大きい、とのコメントあり。これがベースとなっているようだ。
 薄暗い部屋である。床一面に鏡が敷き詰められている。その上に直径3メートルほどの半円錐柱が横に置かれている。中が空洞のかまぼこ型と思えばいいだろう。かまぼこの天井には男性の裸体が映る。床の鏡にも同様の裸体が。かまぼこ内の世界である。一方、かまぼこの外、部屋の天井は空に雲が浮かび動いている。時々得体の知れないものが浮かぶ。床面も一面同様だ。かまぼこ内の世界とその外の世界が共存、不思議な世界が現れる。まるで中空に空洞円柱が浮いているよう。中には男性の裸体、外は雲が浮かび突き抜けるように広い。円柱内は物理的「個」の世界、外は想像の世界だろう。巧みな表現方法に感心した。

束芋《ちぎれちぎれ》(イメージ)2009年
映像インスタレーション
Courtesy the Artist and Gallery Koyanagi


 最後に≪BLOW≫である。なぜか部屋の左右から次々といろいろな種類の花が咲き始める。それも水の中からだ。一つが咲き、消えると反対側から次の花が咲く。花は何一つ同じものがない。ときには花から人の手足が表れる。それぞれ違った姿。「個」の表現かもしれない。前出≪団地層≫、≪団断≫は部屋という生活実態から、≪BLOW≫は花にたとえて「個」を表現しているのかもしれない。同じ「個」の表現でも≪BLOW≫と≪ちぎれちぎれ≫はそれぞれ視点を変えている。際限なく広がる束芋の想像力の素晴らしさを実感した。

 
 
束芋《BLOW》(イメージ)2009年 映像インスタレーション Courtesy the Artist and Gallery Koyanagi
 

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 この美術展のタイトルは「束芋:断面の世代」である。「断面の世代」って何だろう。束芋は「団塊の世代」を持ち出し、これと比較することで「断面の世代」を説明している。「団塊の世代」は昭和22年(1947年)から24年(1949年)生まれ、人口の特別多かった世代としてよく知られている。一方「断面の時代」は束芋(1975〜)を含め1970年代生まれの人たちを指しているようだ。とすれば両者はほぼ親子の時代ということができるかもしれない。

 束芋によると「団塊の世代」が「個」より「集団」を尊重するのに対して、「断面の世代」は「集団」より「個」を尊重する。「団塊の世代」ではそれぞれのパートを分業していたと思う。その分しっかりとプロフェッショナルだったかもしれないという。一方「断面の世代」では1から10まですべてのパートをこなさなきゃいけないことが多い。こういうことで、自分で何でもできると思えてしまう。一人でもやっていけると思ってしまう。だから自分という「個」にとってより良いと思える方向を選びとるのも特徴。ペラペラなんだけど、全ての要素が詰まっているともいう。
 束芋が自分の世代を説明するのになぜ「団塊の世代」を取り上げたかである。束芋のこの取り上げはかなり「大事なこと」を述べているように思う。それは何か。両世代はアートの流れからみても違いがはっきりしているし、「断面の世代」の根源をたどれば「団塊の世代」に行きつくとも考えられるからだろう。

 はじめに「団塊の世代あるいはその周辺」にはどんなアーティストがいるかを見てみよう。気の付くままに挙げると、野村仁(1945〜)、彦坂尚嘉(1946〜)、堀浩哉(1947〜)、戸谷成雄(1947〜)、辰野登恵子(1950〜)、遠藤利克(1950〜)、藤本由紀夫(1950〜)、森村泰昌(1951〜)などであり、時代の傾向を探るという意味で外国人まで広げると、ジョセフ・コス―ス(1945〜)、アンゼルム・キーファー(1945〜)、シェリー・レヴィーン(1947〜)、ビル・ヴィオラ(1951〜)、ジュリアン・シュナーベル(1951〜)などである。
 これらアーティストの活躍開始期はまさにアート界の大きな変革の時期だったといえるのではないか。大きな物語(メインストリーム)の終盤期か、それとも大きな物語を超克した新たな視点が切り開かれ始める時代だったのではないか。どちらがいいかの問題ではない。
例えば、戸谷成雄は一般には概念芸術といわれる「もの派」の影響を受けているといわれているし、藤本由紀夫も作品内容は概念芸術であろう。これに対して森村泰昌はアプロプリエーション(流用)作品を制作することで知られる。外国ではコス―スはコンセプチュアル・アーティストとして知られているし、シェリー・レヴィーンはデュシャンのレディーメイド≪泉≫のアプロプリエーション作品を制作している。
 まったく異なる視点の混在した時代。20世紀後半の大きな転換期だったといえるかもしれない。束芋はこれを端的に「団塊の世代」と「断面の世代」という言葉を使って違いを説明し、自分の時代を「断面の時代」として違いを分かりやすくしたのではないか。一方、「断面の世代」は大きな物語を超克した新たな流れにその根源があるともみているのではないか。

 次に「断面の世代」を振り返ってみよう。するとなぜかマイクロポップが思い出される。マイクロポップは美術評論家松井みどりが提唱した考え方で、70年代生まれのアーティストは他の世代と比較して次のような特徴がみられるとし、これをマイクロポップと名付けている。松井の「マイクロポップ宣言」を抜粋すると、マイクロポップとは、例えば「主要なイデオロギーに頼らず」、「マイナー(周縁的)な」、「小さな事実をもとに」、「小さな創造」、「日常の出来事」、「子どものような想像力」、「とるにたらない出来事」、「視点の小さなずらし」、「ささやかな行為」などであり、そこに見えるのはこれまでの大きな物語(メインストリーム)とは全く別のマイナーな視点であり、多様化時代のストリームである、という。
 束芋はどうか。対談などから拾った内容をまとめてみると彼女の作品には、例えば「筋書きをつくらない ← からっぽの器」、「日常的」、「ほんの些細なこと」、「ずれの表現」、「身近にモチーフは転がっている」などがみられ、これこそマイクロポップの考えと重なるように思う。同世代の考え方がここに表現されているのかもしれない。これこそこの世代のコンセプトではないか。
 束芋(1975〜)とマイクロポップの青木陵子(1973〜)とは同世代だ。2人を比較しても作品こそ異なれ、考え方は上記特徴がにじみ出ていてかなり近い。メインストリームのない現代、それぞれのアーティストが「個」の中から工夫に工夫を重ねて到達した現在地点を表現しているのだろう。「束芋:断面の世代」はその真っ只中にいる。現在地点は動いていく。今後の活躍を期したいものである。


   
著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、生命保険会社退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室MOMASコレクション作品ガイド)を行う。

ウエブサイト アートの落書き帳

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。

 

 

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