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この美術展のタイトルは「束芋:断面の世代」である。「断面の世代」って何だろう。束芋は「団塊の世代」を持ち出し、これと比較することで「断面の世代」を説明している。「団塊の世代」は昭和22年(1947年)から24年(1949年)生まれ、人口の特別多かった世代としてよく知られている。一方「断面の時代」は束芋(1975〜)を含め1970年代生まれの人たちを指しているようだ。とすれば両者はほぼ親子の時代ということができるかもしれない。
束芋によると「団塊の世代」が「個」より「集団」を尊重するのに対して、「断面の世代」は「集団」より「個」を尊重する。「団塊の世代」ではそれぞれのパートを分業していたと思う。その分しっかりとプロフェッショナルだったかもしれないという。一方「断面の世代」では1から10まですべてのパートをこなさなきゃいけないことが多い。こういうことで、自分で何でもできると思えてしまう。一人でもやっていけると思ってしまう。だから自分という「個」にとってより良いと思える方向を選びとるのも特徴。ペラペラなんだけど、全ての要素が詰まっているともいう。
束芋が自分の世代を説明するのになぜ「団塊の世代」を取り上げたかである。束芋のこの取り上げはかなり「大事なこと」を述べているように思う。それは何か。両世代はアートの流れからみても違いがはっきりしているし、「断面の世代」の根源をたどれば「団塊の世代」に行きつくとも考えられるからだろう。
はじめに「団塊の世代あるいはその周辺」にはどんなアーティストがいるかを見てみよう。気の付くままに挙げると、野村仁(1945〜)、彦坂尚嘉(1946〜)、堀浩哉(1947〜)、戸谷成雄(1947〜)、辰野登恵子(1950〜)、遠藤利克(1950〜)、藤本由紀夫(1950〜)、森村泰昌(1951〜)などであり、時代の傾向を探るという意味で外国人まで広げると、ジョセフ・コス―ス(1945〜)、アンゼルム・キーファー(1945〜)、シェリー・レヴィーン(1947〜)、ビル・ヴィオラ(1951〜)、ジュリアン・シュナーベル(1951〜)などである。
これらアーティストの活躍開始期はまさにアート界の大きな変革の時期だったといえるのではないか。大きな物語(メインストリーム)の終盤期か、それとも大きな物語を超克した新たな視点が切り開かれ始める時代だったのではないか。どちらがいいかの問題ではない。
例えば、戸谷成雄は一般には概念芸術といわれる「もの派」の影響を受けているといわれているし、藤本由紀夫も作品内容は概念芸術であろう。これに対して森村泰昌は
アプロプリエーション(流用)作品を制作することで知られる。外国ではコス―スはコンセプチュアル・アーティストとして知られているし、シェリー・レヴィーンはデュシャンの
レディーメイド≪泉≫のアプロプリエーション作品を制作している。
まったく異なる視点の混在した時代。20世紀後半の大きな転換期だったといえるかもしれない。束芋はこれを端的に「団塊の世代」と「断面の世代」という言葉を使って違いを説明し、自分の時代を「断面の時代」として違いを分かりやすくしたのではないか。一方、「断面の世代」は大きな物語を超克した新たな流れにその根源があるともみているのではないか。
次に「断面の世代」を振り返ってみよう。するとなぜか
マイクロポップが思い出される。マイクロポップは美術評論家松井みどりが提唱した考え方で、70年代生まれのアーティストは他の世代と比較して次のような特徴がみられるとし、これをマイクロポップと名付けている。松井の「マイクロポップ宣言」を抜粋すると、マイクロポップとは、例えば「主要なイデオロギーに頼らず」、「マイナー(周縁的)な」、「小さな事実をもとに」、「小さな創造」、「日常の出来事」、「子どものような想像力」、「とるにたらない出来事」、「視点の小さなずらし」、「ささやかな行為」などであり、そこに見えるのはこれまでの大きな物語(メインストリーム)とは全く別のマイナーな視点であり、多様化時代のストリームである、という。
束芋はどうか。対談などから拾った内容をまとめてみると彼女の作品には、例えば「筋書きをつくらない ← からっぽの器」、「日常的」、「ほんの些細なこと」、「ずれの表現」、「身近にモチーフは転がっている」などがみられ、これこそマイクロポップの考えと重なるように思う。同世代の考え方がここに表現されているのかもしれない。これこそこの世代のコンセプトではないか。
束芋(1975〜)とマイクロポップの青木陵子(1973〜)とは同世代だ。2人を比較しても作品こそ異なれ、考え方は上記特徴がにじみ出ていてかなり近い。メインストリームのない現代、それぞれのアーティストが「個」の中から工夫に工夫を重ねて到達した現在地点を表現しているのだろう。「束芋:断面の世代」はその真っ只中にいる。現在地点は動いていく。今後の活躍を期したいものである。