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美術散歩

「neoteny 」と「マイクロポップ」と

TEXT 菅原義之

 上野の森美術館の「neoteny japan―高橋コレクション」展(5/20〜7/15)とその後原美術館で開かれた「日本現代美術におけるマイクロポップ的想像力の展開」展(5/23〜7/20)は興味ある美術展だった。どちらも日本の美術家を対象にしたもので、美術の現在地点を紹介、その傾向を見るのに大いに役立った。美術の流れの最前線を見るようでもあった。

 ところで「neoteny」とは何だろうか。初めて聞く名前である。生物学の言葉で「幼形成熟」だという。精神科医高橋龍太郎がこの時代の日本の美術作品の傾向を称して付けたものだろう。高橋は美術作品収集家でもある。収集数は1000点ともいわれ、その数はただごとではない。「neoteny japan」展は彼の収集作品展だった。出品アーティスト33名、奈良美智(1959〜)、村上隆(1962〜)から80年代にまでわたっていた。
 「neoteny japan」について高橋は「日本の美術界は、・・・江戸期から、西欧文明によって人工早産させられた胎児のショック状態にあったのだ。この幼形の胎児が眠りから覚めるのに100年を要したと考えるのが自然だろう。幼形はゆっくりと成熟する。これはネオテニーの基本である。日本の美術界は、ネオテニーとして、今初めて語り始めた。ネオテニー・ジャパンとはその謂いである。・・・」という。さらに「印象派が単なる風景でさえ、芸術になることを発見したように、私たちの世代は、自分の日常が、アートとなることを発見しつつある。日本の若きアーティストたちは、世界の中でその先頭にいるネオテニー的戦士である。・・・」ともいう。
 ネオテニーとして、初めて語りかけた日本の美術界を高橋は評価し作品収集するとともに、一般に理解してもらおうと作品公開を行った。これが「neoteny japan」展だ。90年代以降活躍している主なアーティストはかなり含まれているようだ。凄い。内容も多岐にわたり面白かった。

 一方「マイクロポップ的想像力の展開」展はどうだろう。まず「マイクロポップ」とは何か。2007年に水戸芸術館で「マイクロポップの時代:夏への扉」展が開催された。「マイクロポップ」とはここで美術評論家松井みどりが提唱した考え方で、松井は「日本の現代美術は1990年代、新たな独創と展開の時代を迎えた。欧米の現代美術の基準をそのまま輸入するのではなく、ポストモダン時代の日本の現実に反応する中で、新しい表現や方法が生まれたのである」としている。そしてこの時代を時代順に第一世代(杉本博司、宮島達男、森村泰昌)、第二世代(村上隆、小沢剛、奈良美智、曽根裕ら)、第三世代に分け、第三世代のアーティスト(60年代後半から70年代生まれ)に1つの傾向が見られとし、これを「マイクロポップ」と名付けている。前述の通り松井は「日本の現代美術は1990年代、新たな独創と展開の時代を迎えた。・・・」とし、高橋は「日本の美術界は、ネオテニーとして、今初めて語り始めた。・・・」と評価し、その視点はかなり近い。
 また、「マイクロポップ」とは具体的にどんな内容なのか。同展図録の「マイクロポップ宣言」を見ると、例えば、「主要なイデオロギーに頼らず」、「マイナー(周縁的)な」、「小さな事実をもとに」、「小さな創造」、「日常の出来事」、「子どものような想像力」、「とるにたらない出来事」、「視点の小さなずらし」、「ささやかな行為」などだという。
 一方、高橋は「私たちの世代は、自分の日常が、アートとなることを発見しつつある。・・・・」という。対象とする範囲は高橋がやや広いがこの指摘も近い。これこそアートが身近になりつつある証拠ではないか。

 「neoteny」の高橋は美術収集家であり、「マイクロポップ」の松井は美術評論家である。両者それぞれの立場から日本の現代美術研究の結果、奇しくもその内容はほとんど同様であろう。両者は日本の現在地点を的確に見通しているのではないか。日本が世界の美術動向を担うことに一躍買う時代が来たのかもしれない。これから開催される国際交流基金企画の「マイクロポップ」海外展の成功を期したいものである。

 話は変わるがごく最近渋谷のBunkamuraで「奇想の王国 だまし絵」展を見た。土曜日だったせいか午前中にもかかわらず混んでいた。聞くところによるとチケットを買うのに40分もかかったとか。
 始めから面白かった。額縁から人物が飛び出している絵画、額縁ごと描かれたもの、板にキャンバスを張り付けた絵画、状差しに手紙がいっぱいの絵画、コラージュ風、右からと左から見るのでは内容が変わるものなどいろいろ。また、日本画のコーナーでは「描表装」として掛軸の表装部分まで絵に描いてしまうもの、歌川国芳の大勢の裸体でつくったあの有名な人面作品など広い範囲にわたっていた。
 見ているうちに発想のよさに感心すること頻り、「そうだ!」、ここになくともこの流れは現代美術に通ずるかもしれないと思うに至った。マグリット、ダリのシュルレアリスムコーナーも面白かった。「だまし絵」というとすぐにアルチンボルドが想像されるが、マグリットやダリまで見られたのは満足だった。展示も当然これで終わりだと思った。「えっ!現代美術のコーナーがある」。驚くと同時にうれしくなった。思いがかなったからだろうか。マルセル・デュシャン、マン・レイ、ジャスパー・ジョーンズ、高松次郎、福田美蘭などの作品が展示されていた。作品数が少ない、最近の作品がない。これは残念だったが、ほかとのバランスもあると納得。ここも面白かった。
 「だまし絵」展には人が入る。現代美術展はそうでもない。内容はそれほど変わらないと思うが、違うんだろうか?違うかもしれない。先日の原美術館で見た「マイクロポップ」展はいくつも面白いものがあった。青木陵子、落合多武、田中功起、泉太郎、千葉正也、佐伯洋江ほかである。違うとすればそれは何だろう。「だまし絵」展は見てすぐにトリックなど内容が分かるからだろうか。「マイクロポップ」展は必ずしもそうでないかもしれない。そこには考え抜かれた現代的発想、アイディア、コンセプトが詰まっているからだろう。それが納得できたときは「だまし絵」を見るより面白いはずである。この違いが大きいのかもしれない。自分自身も原美術館に2回行って初めて「そうか」と自分なりに納得できた作品もあった。「時間をかけてみる」、「見て考える」、「見慣れる」、それとも「だまし絵」が今面白いように「時代の経過を待つ」以外にないんだろうか。

 「今日の芸術」(岡本太郎著、光文社発行)という本がある。発刊当時ベストセラーだったそうだ。面白い。「すぐれた芸術家は、はげしい意志と決意をもって、既成の常識を否定し、時代を新しく創造していきます。・・・そういう作品を鑑賞するばあいは、こちらも作者と同じように、とどまっていないで駆け出さなければなりません。だが、芸術家のほうは、すでにずっとさきに行ってしまっているわけです。追っかけていかなければならない。・・・その距離をうずめていかなければならないのです。」
 「だまし絵」も発表された当時はずっと先に行っていて一般人には相手にされなかったかもしれない。今になってみると発想そのものが感心するほど面白いし素晴らしい。芸術家に少しでも追いつこうと思えば離れている距離を埋めなければならない。それにはやはり「時間をかけてみる」、「見慣れる」などしなければならないだろう。そうすれば面白い、楽しい発見があるのではないか。納得できない作品に出合うといつもこんなことを思うのである。

   
著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、生命保険会社勤務、退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室作品ガイド)を行う。

ウエブサイト ART.WALKING

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。

 

 

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