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美術散歩

藤田嗣治とその生き様

TEXT 菅原義之


《5人の裸婦》1923年 油彩、キャンバス

 永住を決めた藤田は、どうしたら勝ち残れるか、これこそ死活問題だった。
 パリ生活が次第にわかってくると、油絵ではどうしても向こうの画家にはかなわない。いかに独創性を発揮すべきか熟慮の末、浮世絵の女性の肌の美しさを油絵で表現するという技法を思いついた。このときには小躍りして喜んだそうである。
 すぐに実行しようとした。しかし浮世絵の細い細い線描が油絵具やあのキャンバスではできない。着想はよかったが、実行できず、また隘路にぶつかった。努力に努力を重ねついに線描法採用可能ないわゆる“魔法のキャンバス”制作に見事成功したのである。
 1921年(「腕一本」藤田著では1920年)のサロン・ドートンヌ(秋の美術展)で、藤田は裸婦像を発表、その作品を見て人々は口々に「素晴らしい深い白色」だと言って絶賛した。一躍彼は流行児になり、翌年のサロンドートンヌでは審査員にまで上り詰めたのである。藤田の巧妙な戦略と不屈の努力が功を奏したと言える。

 藤田はこうして成功するが、自らの技法を隠し続けた。“魔法のキャンバス”は人に明かさなかったそうである。作品制作中はアトリエには人を入れなかったようだ。アトリエはいわば企業秘密がイッパイだったからだ。ピカソが彼の個展にきて3時間近くも作品を見て行ったという。
 浮世絵への着想といい、魔法のキャンバス制作といい、その後の秘密主義といい藤田はかなりの戦略家だったといえるのではないか。藤田にとって日々が天下分け目の戦いだったからだろう。

 《藤田嗣治「異邦人」の生涯》近藤史人著(講談社) にこんな部分がある。
 「多くの人は驚くはずだが、実は藤田は酒が一滴も飲めなかった。ドラッグに手を出したことも一度もない。数多くの破天荒なエピソードからは、酒にも女にもどっぷりと浸った破滅的な芸術家を想像しがちだが、藤田の実像はまったく逆なのである。
 確かに藤田は他人の前では、わざとドラッグに手を出すふりをしたり、乱痴気騒ぎにうつつを抜かしたりした。大騒ぎの中心にはいつも藤田がいるため、一番派手に酔っぱらっているように見えた。しかし、実は一滴も飲んでいなかった。その上、どんなときにも絵を描く時間だけはしっかり決めていた。一日の仕事をすべて終えてから騒ぎに繰り出すのである。・・・」
 また、仮面舞踏会に行っても、夜の12時か1時には切り上げ、翌日はキャンバスに向う習慣を守り続けたそうである。


《眠れる女》1931年 油彩、キャンバス
   藤田には後に引けない覚悟とずば抜けた先見性があったと言えるだろう。最初から世界に挑戦し、成功を勝ち取るなど闘志と先見性以外の何者でもなかっただろう。反面あまりにも目先が利く、要領がよすぎる(節操がない)と誤解されることもあったのではないか。さらに国際舞台での大成功には嫉妬心も働いたであろう。むしろこの方が大きかったのではないか。そして日本では終始作品が正当に評価されることはなかった。

 戦後美術界では戦争責任論争が巻き起こった。戦争中、藤田など軍部の意向に沿って活躍した画家たちが、戦後になるや翻って進駐軍(アメリカ軍)に日本美術を紹介するための美術展開催に加担したと誤解されたことから発生したそうである。
 結局、藤田は美術界から画家としてただひとり戦争責任“有り”との烙印を押され、日本にいにくくなり、アメリカ経由でフランスに行くことになるのである。1954年フランスに帰化、そして日本に帰ることはなかった。
 若い藤田は、パリで誰よりも日本人として生涯を賭けたつもりだった。日本人としてのアイデンティティーを獲得しようと励んだ。しかしその意が肝心の日本に伝わらず、異国の地で果てた。痛恨の極みだったであろう。“梯子をはずされた藤田”を見るようである。

 藤田の作品を見るにつけその独創性に感心せざるを得ない。素晴らしいと思う。しかしこれらを正当に評価できず、藤田をむしろ異端児として見なした当時の日本の美術界はいかに視野狭窄、狭量だったかということに尽きるだろう。1920年代以降の話である。藤田自身の破滅的なありようの点で評価できないのであれば、いかに表面的にしか実状を見ていなかったかとしか言いようがない。
 明治以来、日本は西欧絵画をひたすら様式、形式中心に導入し、真に独創的、正統的な作品を見出すことを忘れてしまったのだろうか。その結果国際舞台で評価された藤田を傍系のごとき扱いをしてしまった。まことに残念である。

 あれからまだ100年を経過していない。現在もその残渣が残っていると思うが、もし残っているなら一刻も早く改革しなければならないだろう。“おろかな話”だからである。
 藤田嗣治展も会期終了(5/21)が迫ってきた。仄聞するところによると、5月17日(水)12時頃チケット購入に30分、入館に40分待ちだったとのこと。すごい人気だ。当時の日本の美術界より、現在の人たちのほうがはるかに目が高いと言えるだろう。
 “日本の藤田よ、安らかに!”

参考図書
「藤田嗣治「異邦人」の生涯」近藤史人著 講談社
「評伝藤田嗣治」田中穣著 芸術新聞社
「腕1本巴里の横顔」藤田嗣治著 講談社
「日本洋画の人脈」田中穣著 新潮社
「日本洋画界七十年」瀧悌三著 日経事業出版社
「芸術新潮2006年4月号 特集藤田嗣治の真実」 芸術新潮社
「戦後美術盛衰史」 針生一郎著 東京書籍
「藤田嗣治展」図録 NHK、NHKプロもション、日本経済新聞社
「現代日本美術全集12 梅原龍三郎」 集英社
「日本洋画の道標」小倉忠夫著 京都新聞社
「新潮日本美術文庫40 梅原龍三郎」 新潮社

※このイラストは全てイメージです。



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