撮影:怡土鉄夫
数という価値は必要か
TEXT 藤田千彩
先輩の美術ジャーナリスト村田真が、artscape上で毎年「日展」についてぼやいている。
ようは、ものすごい数量の作品が並んでいても、印象に残ったり目を引く作品はあまりない、ということを、いつも書いている。
今回、愛知県名古屋市にある市民ギャラリー矢田で開かれた「460人展」は、その言葉を思い出させるような展示だった。
460人分、ひとり複数の作品を出している場合もあるから、作品数はかなりのものである。
会場が広くないため、作品はぎしぎしに詰められており、その多くは見上げるように壁に貼られた平面作品であった。
画面サイズも塗り方も色も形もばらばらなものが並んでいたため、「良さ」に気付かない。
こんなに多く並んでいても、私の中で引っ掛かるもので新しい作家との出会いはなく、「いいな」と思ったものは、前から「良い」と思っている田口健太の作品くらいだった。
日展のような、いわゆる団体展は作品ひとつひとつを見せるより、出品作家が展覧会場に作品を出品することに意義があるように思える。
そのため出品作家やその家族・友人は、自分たちに関係する作家の作品だけを見るために会場へ行き、あわよくば作品の前で記念撮影をしている。
この「460人展」もそのような気配を感じた。
もっとも私も、冨井大裕がどの作品を出しているか、を確認するためだけに足を運んだのだが。
そう考えると、作家が460人もいれば動員数も稼ぐことができ、作品数が多いことで壁は埋まって圧倒される。
なんら悪いことはない、ともいえるが、果たしてそれでいいのだろうか?
作品と向き合う「鑑賞」という行為は、「制作」の向き合い方とはまったく違う。
たくさんのお皿にたくさんの料理が盛られたとき、何から食べていいのか、手をつけていいのかさえためらってしまう。
同様に、壁にぎしぎしと作品を詰められても、何を見せられているのかさえ分からなくなってしまう。
数は価値を高める行為ではない。
今後どこか小さなギャラリーで、「460人展」に展示されていた作品と再会することもあるだろう。
美しい、きれい、素敵、面白い、欲しい、良い、などと思うことができることを願いたい。