《安全地帯》原井輝明
《KANMON》》鶴留一彦+森秀信
《月在手》山本博子
《月在手》山本博子
《It was a「tanko」》ニホヒロノリ
|
商店街を進むと「安全地帯横丁」というスナック店が6軒並んだ路地がある。それらの店舗は全て閉店してしまい人通りがない。会期中これらの店舗は多様なインスタレーションの作品会場となり、ドアが一斉に開放された。「ドアが開け放たれること」は、なんと心地良いことか!
《安全地帯》原井輝明
この横丁の通路は狭くて暗い。原井はこの通路の壁に海の風を想起させ、自然の景色を抽象化したような絵を描いた。これは誰にも優しく誰からも親しまれるような壁面で、商店街の通行人を会場へと誘うのに効果的だった。こうして観客は足取り軽く路地へと侵入するのだが、最後に大ドンデン返しの恐怖を食らうことになる。ここに描かれた色やデザインは、原子力発電所の外観に使われているもので、発電所が自然景観に溶け込むこと・安心安全を醸し出す演出のために使っているものだったのだ。頭上の看板「安全地帯横丁」が生きている。
《安全地帯》原井輝明
《KANMON》》鶴留一彦+森秀信
関門トンネルの人道に引かれた県境の福岡県側と山口県側にそれぞれ7分間直立するパフォーマンス映像。県境のラインがない映像であれば、トンネルなのか、地下鉄の通路なのか、あるいはショッピングモールの通路なのかわからなかっただろう。
観客がこの会場に来るためは、屋根付きアーケードという大きなトンネルに入り、次にそこから枝分かれした飲み屋通りの小さなトンネルに入る。そしてようやく店のドアを開けると目の前にトンネルの映像が現れる。店の中に入ると、画面の前の壁面は鏡になっているため、観客は更に小さなトンネル内部に侵入にした形になる。そうしたトンネル続きの奇妙な感触を味わうのだが、その体感が作品コンセプトだろうか。また、作家の鶴留と森が「北九州市在住」という理由だけでこの作品を制作したとは思えない。
森秀信は、これまで各地の商店街活性化プロジェクトを仕掛けてきたアーティストである。交通と商店街活性化との関係を一考すべし、ということが暗示されている気がする。前述したように、商店街はトンネルのような構造をしているのだから。
《月在手》山本博子
「月に願いを込めて。あなたの想いが届きますように」をコンセプトに地元アーティストの山本博子が開いた店。来店した客はカウンター席に座り、目の前にセットされた銀製の皿に映る三日月と向かい合っている(頭上から、水を張った皿に三日月の形の光を投射している)。そして、山本は自分の手形を切り抜いて願いを一つ書くよう客に紙を差し出す。この時、ママ(山本)とお客との対面空間が出現するが、客が向い合っているのは自身の心の内側。どの客も自分の願いについて語り家路に着く。こうして願いへと向かう自分を「お持ち帰りする」作品なのだろう。三日月は満月へと、日に日に満ちていく月だから。
《こうしないために》ニホヒロノリ
《こうしないために》ニホヒロノリ
ニホはデジカメで撮影した写真をOHPシートに印刷し、暗い室内に浮かべた。そこにはごくありふれた風景の断片、しかも輪郭しか写っていない。そもそも、輪郭だけの写真は見たことがなく、浮遊するこれらの日常の切れ端は不気味さえある。
カウンターにも同様な写真が無造作に置かれている。これらのシートは連続するものではなく、実体を立ち上げ編み上げていく行為もない。断片を断片のまま、真っ白な脳裏を真っ白のまま提示している。自らも「リンカク」となってしまったかのように。
以前ニホは「カメラで写真を撮り、ハードディスクにデータを保存する。記録された写真がリンカクになってゆく。」と言ったことがある。脳内の記憶とディスクの記録との狭間で自己を再構築しているのだ。これは作家の個人的領域の話ではない。人は皆、日々の感情は時の経過と共に色褪せていく。ここには、生身の人間として生きた、その瞬時のナマの自分を思いだせないことを知った時の空虚感がある。繁華街の片隅にあるすっかり「もぬけの殻」になってしまった空間を、ニホは「もぬけの殻」で埋め尽くした。
《It was a「tanko」》ニホヒロノリ
ニホが見た昔の炭鉱町。炭住やボタヤマなどの風景も、炭鉱で栄えた時代、石炭すら知らずに育った世代の作家に何の先入観もないようだ。ここにある風景の切れ端には、ノスタルジックな感傷や哀れみ・再生という意図は感じられず、作家の初めて見る地への好奇心の息遣いが聴こえてくる。40点余の写真の中から少々紹介すると、道に捨てられていた地球儀からは人の住む地の血脈を感じるし、店舗から覗く猫の写真には、社会の端っこで生きているもの同士が目を合わせた瞬間がある。仏具店の陳列には「作り物っぽさ」の臭いがあり、社会の表層の嘘っぽさ・滑稽さ、人間の逞しさまでをも考えさせられる。この町の普段の風景に(シャッターを切った)一瞬、隠れている本質を自ら表出させる力を与えるのは、photographerの純真さ(眼力)というものか。
会場の開いた窓からは、周辺の古い家の屋根が見える。宇部も炭鉱町の一つだった。
この「まちなかアートフェスタ」のテーマは、「美楽=be-happy」。音楽を楽しむのが音楽ならば、美を楽しむことは「美楽」ということだ。そこで、美の楽しみ方としてアンデパンダン展は元より、市民による作品やイベントと、アーティストによる作品やイベントが等価なものとして展示・開催された。勿論、このアートフェスタが、各地のアーティストの参加によって「現代美術の展覧会」として成立したことに異論はない。現代美術を市民に紹介できたこと(市民が受け入れてくれたこと)は非常に高く評価できるし、今後美術を通じた地域ネットワークの広がりが期待できる。
最終日に近づくにつれ、多くの市民が「また、この展覧会を開催して欲しい」という声を上げている。私も応援したい。