topreviews[高本敦基展 Note:日常性の現場から/岡山]
高本敦基展 Note:日常性の現場から

この距離をうめるもの
 TEXT 丹原志乃

日常の中で、急に知らない人と同じ空間で過ごさなければならなくなったとき、人はどのような行動をとるだろうか。
長い時間でなくても、ちょっとした間、5分でもいいし、10分でもいい、そんな少し中途半端な時間を他者と過ごさなければならないとき。
とりあえず相手に話しかけてみる、というのは、全く知らない人が相手だと少し勇気がいったりする。
短い時間の中だと余計、時間をつぶすためだけに話しかけたんじゃないかと思われたくない。
だったらと、ついつい一人の世界に閉じこもることを選択し、携帯電話をずっといじったり、眠たいふりをして寝てしまったり、手持ち無沙汰の解消に身近にあるものをじっと眺めてみたり、触ってみたり。
結局ひと言も目の前の人と言葉を交わさないまま、その時間をやり過ごしてしまう。
そんな経験が皆さんにもないだろうか?

 
高本敦基《モールハウスプロジェクト》2011年
展覧会場の天井から床までを覆う黄色い網のようなもの、これはすべて工作などに使う、少しの力で簡単に形を変えられるモールだ。
よく見ていくと床を埋め尽くしている黄色のモールは、家のかたちを模している。


《モールハウスプロジェクト》一部


この作品《モールハウスプロジェクト》は、高本が知人の家を訪れた際に、お菓子のパッケージについていたモールを使って手遊びをしたことから始まったという。
モールでつくられた家が並ぶ会場の中央には机と椅子が置いてあり、作者が黙々とモールで家をつくっている姿を想像することができる。
机と椅子の小さな空間から生み出されたモールの家は、どんどん増えて周りをうめていき、空間を拡げていく。
高本のつくったモールの家が、床を、天井までの空間をうめつくすように、私たちが何気なく他者と過ごしている時間も、形として残していくと、この会場をたやすくうめつくしてしまうぐらいになるのではないだろうか。
先ほどあげた人と向き合うには中途半端な時間のなかで、何となく何かをいじってしまうとき。
例えばそこがファストフード店だったとしたら、ストローが入っていた袋だったり、紙ナフキンだったりが手遊びにより特に意味もない形に姿を変える。

《モールハウスプロジェクト》一部)


たいていはその場限りのものであり、時間が過ぎればどうでもいいものであり、結局はただのゴミになってしまう。
けれども、その意味なきものを毎回大事にとっておくとどうなるだろう。
何気ない手遊びが、つもりにつもり床を、空間をうめていく。
目の前にいる他者との空間をうめていき、いつしか他者との距離は、自分の想いでうまっていくのではないかと感じさせる。
向き合う中でつくりだした小さなモールの家は、そのとき発することのできなかった言葉や、過ごした時間や、他者と築き上げていく何かのようで、少しずつ二人の間を満たしていく。
それはまるで、人と人との不器用なコミュニケーションのようである。

作品のまわりをぐるっと回ってみると、不思議なものを発見した。
天井と床の間をうめているモールの集合体のそばに、これまた手の加えられた小さなモールがぽつんと置かれていた。
しかし、それは家を模したほかのモールとは異なり、動物の形をしているようにも見える。
気になって高本本人に聞いてみると、この小さなモールは高本がつくったものではないという。
展覧会場に、来場者にも同じモールを使って好きに手遊びできるスペースが設けられていたのだが、そこで誰かによってつくられただろうこの小さなモールが、いつの間にかこのように作品のそばに置いてあったそうだ。
同じ素材で同じように手遊びでつくる、高本のコミュニケーション方法に対し、同じ方法で返事が返ってきている。
この小さなやりとりに、とても温かいものを感じた。

高本敦基《Water_text》2011年

《モールハウスプロジェクト》の奥には、もう一つの空間、作品《Water_text》シリーズが展示されていた。
カフェのようにセッティングされたソファーとテーブル。
テーブルの上には二つのコーヒーカップが置かれている。
二つのカップには同じように数カ所穴があいており、その穴と穴を結ぶように一つ一つがチューブでつながれていた。


《Water_text》一部



高本敦基《Water_text》2011年


カップの中に注がれたコーヒーは漏れることなく、片方のカップを持ち上げてみると器用にチューブを通り互いを行き来し、増えたり減ったりする。
また別のスペースにはちゃぶ台と座布団があり、ちゃぶ台の上に置かれたヤカンやマグカップ、ガラスコップを先ほどと同じようにチューブでつないでいる。

ひとつのヤカンで沸かされたものを、家族それぞれの容器にわける、そんな日常の一コマが浮かんでくる。
チューブによって結ばれた二つのコーヒーカップも、ヤカンやマグカップも、容器は分かれていても中身は同じだ。
同じ成分で同じ液体、普段感じることはないが、こうやってチューブで結ぶと簡単に行き来し、一つになれるということがわかる。
結ばれたコーヒーカップ、その傍らにある二つのソファーにそれぞれ座っていただろう二人の人間。
その二人の間も、コーヒーカップと同様にチューブで結ぶことができるのではないだろうか。
同じ成分でできていて、同じように呼吸をして生きている。
もし二人の間をチューブで結べるならば、通い合うことができるのではないか。
そう考えると、人と人との距離は、チューブで簡単に行き来できるぐらい、近いものなのではないだろうか。


高本敦基展 Note:日常性の現場から
2011年8月31日〜9月4日

天神山文化プラザ

高本敦基HP
http://www.takamotoatsuki.jp/

 
著者のプロフィールや、近況など。

丹原志乃(たんばらしの)

1985年岡山県生まれ。
地域とアートについて勉強中です。
今回取材した展示期間は台風のまっただ中でした。





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