小山市立車屋美術館展示風景 |
絵画を観ていると、思わず画面に引き込まれ、中に入り込んでしまうかのような感覚を味わうことがある。
色彩的に綺麗、技巧が優れている、鑑賞者の記憶を刺激するなど、理由は様々だが、引き込まれてしまう作品というのは確かに存在する。
その一方で、五月女哲平の作品を観ていると、不思議な感覚にとらわれる。
最初は、画面に強く引き付けられるのだが、観ているうちにある種の違和感を感じ始め、次第に画面から突き放されるように感じるのだ。
違和感−ギャップが生み出す距離感
《Untitled #1》
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その距離感を、五月女は様々な形で生み出す。
例えば《Funiture》と名づけられた立体のシリーズは、スノコやテーブルの脚などの身近なモノを用いて、どの既存のモノにも似ていないものを作っている。鑑賞者の記憶の断片に引っかかりながらも、そのモノが何なのかたどりつくことはできず、鑑賞者にもどかしい距離感を感じさせる。
また、《Untitled #1》は、五月女が何気なく目に付いた風景やモノの一部分にフォーカスした写真のシリーズだが、あまりにも細部にフォーカスしているが故に、画面はいくつかの平面的な色彩で構成され、立体感が感じられず、距離感を定められない戸惑いを覚える。
またこうした距離感の違いは、個々の作品のみならず、複数の作品が組み合わされた展示全体からも感じ取ることができる。
前述した《Sofa》のところの展示は、今のテレビを描いた《TV》や室内に置かれた観葉植物を描いた《Plant》などと合わせて、家の居間をイメージした展示がなされているが、《Sofa》と《Plant》の間には、床に落ちた塵に大きくフォーカスして描いた《Dust》が配置されるなど、鑑賞者は常にフォーカスを動かすことを求められる。
距離感が絶えず更新され続けるかのように感じるのだ。
新たな距離感−時間の距離感、意識の距離感
小川家住宅内展示風景 |
そして今回の展示では、こうした距離感のギャップに新たな要素が加わったように感じられた。
今回、小山市立車屋美術館での展示では、展示棟に隣接する登録有形文化財「小川家住宅」でも作品が展示された。
この「小川家住宅」は、肥料問屋「車屋」を営んでいた小川家の住居として明治末期に建てられたものである。全体としては、純和風の建築だが、2階に、重厚な洋風装飾をもつ洋室が設けられているのが特徴となっている。
五月女の作品は、この洋室の中に展示された。
鑑賞者はこの洋室の中には入ることができず、洋室の中に並べられた調度品と同様に五月女の作品を観ることとなる。五月女の作品は、こうした100年前のものと必ずしも調和し、室内の雰囲気に溶け込むものばかりではない。むしろ反発している部分もある。
しかし、こうした反発する部分も含めて、現在のものと100年前のものとが合わさって、目の前に新たな景色が生み出されていることに、新鮮な刺激を覚える。
(外周)《Untitled #2》(中央)《Untitled #3》
《Untitled #2》(一部)
青山|目黒展示風景 (左)《Girls》(右)《Saturn》
《Car》
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また、第3展示室に描かれた《Untitled #2》は、室内の壁面にぐるりと山の稜線が描かれている。この山々は、五月女の記憶の中にある山を描いたものなのだという。
五月女は、父も祖父も画家という美術一家に育ち、家族旅行といえば、もっぱら祖父の写生旅行を兼ねたものだったという。
そんな幼い頃に旅行先で見た山、生まれ育った小山の周囲に広がる山。ここに描かれている風景は、そんな時代も場所もばらばらな五月女の記憶の断片をつなぎ合わせたものであり、時間的な距離、物理的な距離の壁を越えて異なるものがひとつに結びついて新たな景色を生み出しているのだ。
そして、距離感のギャップということでいえば、栃木の小山市立車屋美術館と東京の青山|目黒という距離の離れた2つの会場で同名の展示が行われたことにも触れておきたい。
今回の展覧会は、「猫と土星」と名付けられた。いずれも五月女が親近感を覚えるものだというこの2つも、今回の展示で作品として描かれているが、猫を描いた《Cats》は小山のみで、土星を描いた《Saturn》は東京のみで展示されている。
自分の身近にいて、常に実物を見ることのできる猫と、遥か遠くにあって写真や映像でしか見ることのできない土星。この両者の間には途轍もない距離があるが、どちらも好きだという五月女の意識の中での距離感はさほど変わらない。
面白いのは、青山|目黒での展示が、小山での展示よりも後に制作された作品によるものであることからか、より遠近感の違いが明確な展示となっていることだ。
遥か遠くにある土星を描いた《Saturn》、赤い車が平面的ながら立体感が誇張して描かれている《Car》、親近感を覚えながらもどこかつかみきれない距離感の遠さも感じさせる《Girls》など、作品による距離感の変化が室内にダイナミズムを生み出している。そのことが、猫と土星、小山と東京との間に横たわる物理的な距離をも乗り越える意識の力の強さをも感じさせるのだ。
こうした中で印象付けられるのは、私たちの意識が距離感に強く影響を与えているということだ。
この世界の中では、自分以外の人やモノとは、必ず距離が離れている。近い、遠いの違いはあれど、自分以外の人やモノとは、必ず距離感を感じているのだ。
五月女の作品は、そうした既存の距離感を解体し、新たな距離感を生み出す。そうすることで、自分と他のモノとの距離感に従って新たな世界が生まれていく。
それは、他者との間に存在する距離感が、物理的な距離、時間的な距離ではなく、精神的な距離によって構成される世界だ。
精神的な距離であるが故に、その距離感は鑑賞者によって異なる。鑑賞者の数だけ、新たな世界が生み出されていくのだ。
しかしそれは、当たり前のことなのかもしれない。同じものであっても、見る人によって同じに見えるとは限らないのだ。
ここで忘れてはならないのは、これらの作品が表すのは、五月女が提示するモチーフとの距離感である。
左から《Cat #4》《Cat #5》《Cat #1》《Cat #2》《Cat #3》 |
そのことが特に顕著に現れるのは、小山市立車屋美術館で展示された《Cat》である。
これは、五月女が飼っていて日頃からかわいがっている猫を描いた作品だが、実物を観ずに想像で描く他の作品とは異なり、近くにいる猫を見ながら描いたという。
作品を観ていると、画面からはみ出す構図や猫のしぐさなどからその距離感の近さが伺える。作品中で描かれる猫のアングルや仕草からは、五月女が猫に注いでいる愛情の深さや距離感の近さがひしひしと伝わってくる。
それ以外の作品についても、五月女にとって身近な素材がモチーフとして選ばれており、いわば、これらの作品は、五月女が感じている距離感の提示といえる。
しかしそれは、鑑賞者がそのモチーフに対して感じる距離感とは当然異なる。鑑賞者がいくつもの作品を観ていて感じるそれぞれの作品との距離感を感じる中で、それぞれの鑑賞者ごとに、五月女の内面世界とは別々の世界が構築されていく。
五月女の作品は、個々の作品もさることながら、複数の作品が組み合わされた展示全体が、そうした鑑賞者ごとに生まれる多様な世界−認識の多様性を生み出す、その意味で魅力的なのだ。