topreviews[qp個展「残す」/東京]
qp個展「残す」

「描く」という字は「猫」に似ている
TEXT 中島水緒


画像1《無題》2011年 紙にインク 写真撮影/qp

qp(キューピー)。左右対称のアルファベットで表記されるため、視覚的にもインパクトを持つ名前である。作家の横顔(profile)を捉えようとして近づくと、何よりも最初にこの暗号めいた名前が門の前に立ちはだかり、奥に隠れた謎への好奇心を余計に掻き立てる。
名ばかりでなく作品の方も、謎を求める観賞者の期待を裏切らない。試みに作家のHPを覗いてみよう。「お絵描き掲示板」と呼ばれるネット上のツールを利用したCG画、紙や鉛筆といった手軽な素材によるドローイング、コラージュなど、qpの活動が各媒体に見合った形態でアウトプットされている様子が伺える。
一方、去る2011年4月、東京・祐天寺にある「GALLERY&WORKSHOP はちどり」で開催された個展では、紙にカラーインクで描いた水彩画調の絵画作品がまとめて発表された。ワークショップなど展示以外のイベントも行う「はちどり」の会場は、どこか懐かしさを感じさせる古い家屋の2階にある。その小さな室内の壁面、窓辺、さらには天井の一部までを、大小さまざまなサイズのインク画がびっしりと覆うのである(画像1)。
筆者はこれまで、作家のwebサイトにアップされる作品画像によってqpの世界に断片的に触れてきたが、手描きによる絵画作品を実見するのは今回が初めてとなる。そして、紙の上で繰り広げられる事態の思いがけぬ大胆さに、不意を突かれた。たとえば、qpのブログに時折アップされるスナップショット写真の、見過ごされそうな事物や景色の隙間を拾い上げるナイーブな視線――とりわけ人物に対していつも遠巻きであるような微妙な距離感――に親しんでいた身からすると、紙と絵具の接触が繰り広げる生々しく直載的ともいえる表現に、意外性を感じずにはいられなかったのだ。
絵のタイプはいくつかの傾向に分類することができる。散りばめられる筆触、ドットや色面のみでリズミカルに画面を構成する「抽象画風」のもの、植物の蔓を思わせる装飾模様に勢いあるストロークで息吹を与えたもの。そして、ヌード姿ないしヌードに近い格好の人物が登場するもの(画像2)(画像3)(画像4)。


画像2《無題》2011年 紙にインク 写真撮影/qp

画像3《無題》2011年 紙にインク 写真撮影/qp

画像4《無題》2011年 紙にインク 写真撮影/qp

画像5《無題》2011年 紙にインク 写真撮影/qp

人物の性別は判別しがたいものもあるが、ほとんどが少女だろうか?大抵の場合、彼女らは表情らしい表情がない。口を示す描線は省かれ、あるいは輪郭を超えて滲む温かなオレンジの肌色のなかに埋没し、彼女らが言葉による交流の回路を持たないことを見る者に突きつけるのである。
代わりに忘れがたい印象を残すのが、アーモンド型の瞳である。こうした人物の瞳は絵具の塗り残しの余白で表現されることも多く、瞳孔の部分にもせいぜい薄い色彩がわずかに添えられるのみである。虚空へ通じる門でありながら画面の隅々にまで磁力を及ぼす、透き通った眼差し。この瞳に似たものをどこかで見たことがある。たとえばパウル・クレーの《セネシオ》(1922年)。クレーが野菊の花に添えた2つの目は、qpの描くアーモンド型の瞳にそっくりだ。いや、美術史の文脈を辿らずとも、もっと身近なところに参照点が見つかるかもしれない。おそらく他の何よりも、qpの描く瞳は、猫たちの眼に似ているのではないか(画像5)。
そういえば20世紀最後の巨匠と謳われるバルテュスもまた、猫たちの王国を愛した画家だった。幼少の頃には愛猫の「ミツ」が失踪するという悲しい出来事を経験しているが、その想い出は少年時から早熟な才能ぶりを示していたバルテュスによってインク画に託され、さらには一冊の絵本として刊行された。詩人のリルケはこの絵本に美しい序文を寄せ、猫たちの眼差しについて次のように語る。この記述は、qpの描く人物の眼についても当てはまるように思える。
「だが猫たちの態度はどんなものだろう?――猫たちはただ単に猫たちなのであり、そして彼らの世界は端から端まで猫の世界なのだ。彼らは私を見つめる、とあなたはおっしゃるだろうか?だが本当に彼らが、一瞬たりといえども彼らの網膜の底に私たちの益体もな影像を有難くも宿してくれているのかどうか、分ったためしがあるだろうか?事によると彼らは、私たちを注視することによって、ただまったく、永久に充足している彼らの瞳孔の魔術的な拒否を、私たちに突きつけているだけなのではないだろうか?」
(バルテュス、ライナー・マリア・リルケ『ミツ―バルテュスによる四十枚の絵』阿部良雄訳、泰流社、1994年)
qpの描く人物たちの話に戻ろう。
少女らは一枚の画面に個体であらわれるときもあれば、二人一組のときもある。あられもなく肌を晒し合う2人の関係にはセクシュアルな含意を読みとってしまいそうになるが、絵の中の人物たちは自意識が欠落していて、そんなことなどおかまいなしであるかに見える。相手の存在を自分の鑑にしようなどとは露とも思わない点においても、彼らの共同体は猫たちに似ているのだ。

画像6《無題》2011年 紙にインク 写真撮影/qp


画像7《無題》2011年 紙にインク 写真撮影/qp
さらに彼女らの肢体もまた、猫のしなやかな体を連想させる。たとえばうつ伏せのまま上体を反らせ、自分の足首を両手でつかむ一人の少女。これは空を飛ぶためのポーズだろうか。子どもの頃、自分の腕を羽に見立てて構えるだけで、飛行機にも鳥にもなりきっていたことを思い出す。彼女もまた、奇妙なひとり遊びによって自分の身体からイマジネーションを延長させ、地上の重力から解き放たれているのかもしれない。
ヌードではないが、両手に花束を持つワンピース姿の少女像も繰り返し描かれるモチーフのひとつである。この図像はポーズが同一であるため、ちょうどカット&ペーストされたパターンがもたらす反復の快楽を、手描きの偏差と色彩のアレンジを加えながら演出しているように見える。少女の像はたわみ、ひしゃげ、テンションをその内側で膨張させる。奔放なストロークが「鋳型」を解放し、「描く」という行為を梃子にして、図像のその先の領域への跳躍を可能とさせる(画像6)(画像7)。
プリミティブ、イノセンス、そういった形容を思わず被せたくなるが、しかしそうしたお定まりの言葉では済ませられない何かがqpの作品に潜んでいる。すべての絵にまつわりつくある種の猥雑さ、視覚ばかりでなく触覚に訴える官能性、無垢さの中に滴り落ちるかすかな濁り…。もちろん、ヌードが多く描かれているからセクシュアルなのだ、などという短絡的な話ではない。おそらくqpの絵に宿る魅力的な猥雑さは、絵具の扱いや描写そのものに由来するものだ。
水で溶かれたインクは画家のコントロールを超えて偶発的な染みや滲みをつくるのだが、こうした効果は多くの画面で積極的に引き受けられている。なぐり描きのストロークは容赦なく景色に被さり、曇りや濁りも厭わず絵具の層が重ねられる。「描く」という行為の揺れを血のごとく噴き出させながら、移ろうヴィジョンがそのまま定着されていく。不協和音を起こしかねない多くの色数をひとつの画面で束ねていく力量は、衝動にまかせるばかりでないqpの構成意識の高さを示しているといえるだろう。
もっとも、今回展示された絵のいくつかに対し、疑問が残らないわけではない。白地に点々をほどこしだけの絵など、「描く」行為が宙吊りされた感覚を引き起こす作品がいくつか見られたが、未結のイメージがそのまま放擲されたような絵を、どう解釈するべきか。
こうしたドローイングは、一点の「絵」としての完成度よりも、展示空間全体にリズムを添える役割として導入されているのかもしれない。事実、「はちどり」の室内は、大小さまざまな画面と無数の色彩によって天体さながらのきらめきを獲得し、総体としての世界観をつくり上げていた(画像8)。
「アナログ」と「デジタル」の差異、「絵画」「イラスト」といったジャンルの問題など、qpの仕事はまだまだ越境の可能性を秘めている。殻を破るような作品をどんどん生み出してほしい作家だ。



画像8《無題》2011年 紙にインク 写真撮影/qp

qp個展「残す」
2011年4月2日〜4月30日

GALLERY&WORKSHOP はちどり(東京都目黒区)
*現在は世田谷区烏山に移転

 
著者のプロフィールや、近況など。

中島水緒(なかじまみお)

1979年東京都生まれ。雑誌やweb上で美術展のレビューなどを執筆。





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