「ここ」が「ここ」であるために
美術で見せる「場の蘇生」のメカニズム
TEXT 友利香
神の島・宮島で、風変わりな展覧会が開催された。
どこが風変わりかと言うと、およそ20年間居住者不在の家屋が解体・改装されることに着目し、家屋の改装前、改装工事中、改装後の3期に渡り展覧会をすると言うのだから。第1期は全体的に「宮島の神聖さ・記憶の喚起」という印象の展覧会だったが、第U期の展示は家屋の壁や床が取り払われ、「神聖さ・記憶」という「場」の拘束から解き放たれていく会場で、作品もそれぞれ異なる方向性を現してきたようだ。展覧会はまだ完結していないが、第U期の土木建設現場のような展覧会風景に衝撃を受けたので、ここまでの様子を少々紹介したくなった。

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鹿田義彦《Scenic Beauty-making》 |
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T期、鹿田は家屋全体を梱包用PPテープで縛った。御幣がたなびき、神へ捧げるものと言うのだろうか。それは「ここは結界」と言うかのような緊張感を与えた。U期ではテープを解き、ゴミ袋に詰め展示した。工事開始の合図のようだった。

諌山元貴《organs》U期(画像奥/手前は黒田大祐の作品) |

諌山元貴《organs》T期
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諌山は、鶏のレバーを金箔やアルミ箔で包んで展示した。ケースに入れられた作品は島の模型のように見える。レバーは人間あるいは人間社会を、金やアルミはそれを取り巻く環境を指している。当然ながら、レバーは耐食性を持つ金属を物ともせず、腐敗で形を変え悪臭を放ち、金属箔をも巻き込み肝心要のものが腐敗していく経過を見せる。U期ではこれを焼き、それをセメントを抜いて展示した。この空洞は以前ここに暮した人たちの形跡、居住者不在の告知と受け取れるが、ここには決して悲観はない。前世の焼いたカルマを焼き、吹きさらしの開放的な空間に展示したことで、この「無」を何で満たすのか、次の段階へと気持ちをつなげてくれる。

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石黒健一《修復された壁》T期 |
石黒健一《修復された壁》U期 |
敷地内で掻き集めたガラスと鏡の破片は記憶のかけら。それらをハンダで繋ぎ合わせて作られた記憶の集積。この「記憶の集積」は、T期の展示では家屋内
外の壁の隅に居た。私はこの前を通るとこれらの破片(この家の記憶)に見られているような怖れに襲われた。U期の展示では形を変えて家屋内の地面に居た。壁の崩壊と共に落ちた記憶の結末と受け止めることもできるが、覗き込むと、この家に関わる者を写し、それを奥にしまい込む生きもののよう。これはガラスや鏡の持つ魔性なのだろうか。

伊東敏光《滝見床》T期 |

伊東敏光《滝見床》U期
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伊東は床の間に滝を出現させた。「滝神」だろうか。鑑賞者は水が流れる気配に耳を澄ませ、空き家であっても流れ続けてきた「時間と気」という居住者がいることに気付く。U期では床の間を覆っていた廃材がブチ破られ(勿論この廃材は水の流れを意図しているのだろう)現れた滝は、正に御神体の風格を持つ。

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入江沙耶《エビスダスト》T期 |
入江沙耶《エビスダスト》U期 |
T期では絵の中の鯛が消え、絵の下に鯛が転がっていた。U期では(絵の中の扇子が消え)、鯛のそばに扇子が置いてあった。これは、この地の氏神様である荒胡神社の古いお札なのだそうだ。平面の物が、立体になってポーンと飛び出してくるマジックのような愉快さを味わうと同時に、一方では物を手に入れて喜び、他方ではその物と同等以上の何かが消えていくという事実を目の当たりにする。
T期は「廃屋と美術現場」、U期は「解体工事現場と美術現場」と、毎回現場の次回のV期は、会場も作品もどう変わっているのだろうか。これからまだまだ面白くなりそうだ。
尚、本展覧会の参加作家は、秋山隆、諌山元貴、石黒健一、伊東敏光、入江早耶、チャールズ・ウォーゼン、木村東吾、黒田大祐、鹿田義彦、田島浩平、田中圭子、土井満治、前川義春、和田拓治郎の14名。
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