(C)Nobuyuki Osaki
「時間」という言葉には、思いのほか深い感覚が伴う。
私たちの過ごすこの時、今、一瞬一瞬の積み重ね。
これらを離れた所から見、時には振り返られる痕跡や記憶として 個人がそれぞれに身体の中で連続させる過程を経て、 はじめて立ち上がってくるもののように思うのだ。
一瞬一瞬は、それだけでは時間にならない。
通り過ぎ、または未来を思い、そういう自身の「今」との距離感によって 見えてくるある地点。この「奥行き」こそが重要だと感じる。
Courtesy of Gallery Hosokawa
(C)Nobuyuki Osaki
(C)Nobuyuki Osaki
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大阪、ギャラリーほそかわで開催中の、大崎のぶゆき個展、《dimension wall》を鑑賞した。
壁紙をイメージさせるクラシカルな植物の文様パターン。
部屋の中央奥に大きく投影されたその映像と、 両側、そして反対側奥の面に1枚ずつ掛けられた、同じパターンを用いたタブロー作品。
会場には、トーンを統一されたひとつの空間が広がっていた。
似たようなイメージ、似たような色彩での統一は、 そこにあるものたちの「変化」をずらす。
一瞬そのように感じる空間はつまり静止しているような様相を呈している。
しかし次の瞬間、その中において大きく変化する時間の渦中に 自分1人が立たされていることに気付く。
壁一面に映る模様。この映像を眺めている。
と、だんだんとその模様自体が光を反射しきらきらしてくる。
そして次の瞬間、模様は溶けて液体となり、かたちの線からはみ出してどんどんと流れ落ちてゆくのだ。
どろり。
という表現がまさしく当てはまる。
別の壁面に展示されている作品は、この映像で流れるパターンの1種をタブロー作品に用いたものだ。
といってもそのテクスチャも一様ではない。
1点は平面そのものの模様として、他の2点はそれぞれ、 流れ落ちてゆくそれらの様子が、立体的に可視化され留められている。
平面であったものが、浮き上がり、溶けて流れ落ちる過程。
この流れる映像の刻む「時間」が、どの時点かで切り取られここに在る。
その、モノとしての質感と黒に近い色彩により、軽やかなパターンのイメージは、 たちまち重さを持った物質となって自身の目の前に対峙してきた。
そして驚くべきことに、映像自体、CG加工等一切施されておらず、このように模様が流れ出る壁を実際に作り、壁紙の状態から真っ黒になるまでを実写で撮影し制作されたのだという。
印象が切り替わる瞬間を感じた。
変化することの儚さではない、過ぎ去った時間への郷愁でもない、 まして無常という事実でも。
在ることの「重さ」、流れ落ちる無数のリアル。実体を持たない記憶のような映像と、目の前にあるその断面。
これらが絡み合い、「時間」という不確かなものの存在
そのものが、リアルに流れ込んでくるような感覚。
逆に考えればこれは、モノの変化や私たちの存在すら、曖昧にしてしまう ような問いかけを発していると感じた。
大崎は、見るものが日常認識している「現実と非現実」の境界を揺さぶるような作品世界を、このような「溶ける」という現象に焦点を絞った独自の表現により、創り出している。
今回この最新作発表の場となった個展タイトル、《dimension wall》の、「wall」に託された意味も合わせ、鑑賞者それぞれの見ている世界を溶かし更新していくような感覚が印象に残った。
かたちや一瞬だけでは、そこに在るとは言えない。
「時間」というものの経過は、その事実を隠してしまうようだ。
しかしもう1度みつめてみたいと強く思った。
断面と、その連続のスキマを埋めるもの。
どろりとしたその質感は、決して単なるイメージではないだろう。
大崎の「崎」、正しくは です。 |