topreviews[松田正隆/マレビトの会『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』/京都]
松田正隆/マレビトの会『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』

多層の声が紡ぎだす、リアルな経験の中の二つの被爆都市

TEXT 高嶋慈



マレビトの会『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』 撮影:橋本裕介


マレビトの会『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』 撮影:橋本裕介


マレビトの会『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』 撮影:橋本裕介

会場となった京都芸術センターの講堂に足を踏み入れると、そこは演劇空間というよりも、都市の雑踏のような、無数のざわめきに満ちていた。

バックパッカー姿の女性が発する、聞き取れぬほどのつぶやき。水のはいったガラスびんを一つ一つ指し示しながら、広島を流れる七つの川について説明する男性。オーディオガイドを首からぶら下げた男性が発音する、単語の羅列。イヤホンから流れる、原爆資料館の展示品のリストを、機械的に反復しているようだ。
頭上から聞こえる、ブーンという飛行機のエンジン音。不穏なサイレン。そして、ざわめきの合間を切り裂くように突然響き渡る、「ひろしまー」という甲高い叫び。

しばらくは、四方から押し寄せるつぶやきの波に囲まれ、どこに焦点を合わせればよいのか分からぬまま、立ち尽くしていた。頭上のスポットライトとモニターによって、俳優と観客はかろうじて区別できるものの、複数の俳優が同時多発的に発話し、あるいは身体的なパフォーマンスを行っているからだ。

そのように形式を了解しても、とまどいが完全に消えることはない。というのは、一人の演者に目を向けるということは、同時進行で起こっている別の演者のパフォーマンスを見逃してしまうことを意味するからだ。独白のような語りが並行して行われる一方で、複数の演者が有機的に関わり合うアンサンブルの場面も展開される。だがそうした「ハイライト」を見ようと振り返っても、パフォーマンスは既に終了し、再び雑踏の中に取り残されることもある。「hypocenter(爆心地)」という言葉と×印が示された地点を取り巻くように、床に打たれた12個のナンバリングの箇所に立ち、パフォーマンスをし続ける俳優たち。舞台と客席の仕切りは取り払われており、観客は俳優の周りを自由に歩きまわって「鑑賞」することになる。

ここでは、観客はその都度、何を「見る」のか(何を「見ない」のか)の選択を迫られ続けるのである。従って鑑賞時間も定められておらず、上演中は出入り自由であり、5分で見終わってもいいし、3時間見続けても構わない。どう見るか(見ないか)の主導権は、観客自身に委ねられているのだ。

「マレビトの会」主宰の松田正隆の演出による本作『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』は、出演者自身が広島や、在外被爆者の多く住む韓国の地方都市・ハプチョンを訪れ、そこでの取材や体験を報告するという、展覧会形式の演劇である。準備期間を通して、スタッフや出演者による広島への取材はのべ6回、ハプチョン取材は4回行われたという。発話と身体パフォーマンスによって「報告」を行う俳優の頭上には、モニターが設置され、各々の体験やそこから生まれた思考を語るテクストがキャプションのように流れ、取材時の映像が映し出されていく。

松田はこうした試みについて「報告者のからだ自体を展示したい」と述べているが、その背景には、広島の原爆資料館における「展示」のあり方への疑問があったという。展示のコンテクストの中で、服や靴といった日用品が原爆の受難を物語るものへと変容し、観客の眼差しにさらされること。「ヒロシマ」を表象することは可能なのか。そして、「唯一の被爆国」という言い方には、原爆の被害を日本という国に還元し、占有してしまう政治性が働いているのではないか。ここに欠けているのは、「展示」という近代的な制度への懐疑と、「ヒロシマ」の外部への眼差しである。

従って本作には、キノコ雲のイメージはもちろん、焼け爛れた衣服や人体、壁に焼きついた影、溶けたアルミの弁当箱といったような、「ヒロシマ」を物語る際の視覚的なイコンは登場しない。むしろ、「ヒロシマ」を外部化し、多焦点から見つめ直そうとする試みが企てられているのだ。

例えば、女優によって演じられる、ハプチョンに住むキム・イルチョの証言。韓国の地方都市・ハプチョンからは、戦前、大勢の人々が地縁や血縁を頼って広島へ渡り、被爆した。帰郷した人々が今も多く住むハプチョンは、「韓国のヒロシマ」「もう一つのヒロシマ」と呼ばれている。当時、広島市内で車掌をしていたキム・イルチョは証言の中で、広島の地図を指でたどりながら、駅名を当時の口調で語ったという。身体感覚に染みついた、「次はー、みゆきばしー」という口調や路線をなぞる指先の動き。その様子をドキュメンタリーとして見せるのではなく、女優に「再現」させることで、観客は、身体感覚の中に残っているリアルな生活の場としての広島、そして広島という都市の姿を想像することになる。

また、今年の八月六日をポーランドでむかえた出演者の一人は、ポーランド人に「ヒロシマ」について質問し、会話する中で、いつの間にか「ヒロシマ」を代表しているような自分=「ヒロシマガール」がいることに気づき、「ヒロシマガール、やめたい」という葛藤を感じたことを報告している。

一方、同じ日付を友人と広島で過ごした別の出演者は、一緒に映画「ヒロシマ・モナムール」を見、会話し、松笠山に登ったという私的で濃密な経験を報告した。ハプチョンへ行った出演者が感じた、「原爆の投下という、時間的にも空間的にも自分の外部で起きたことを想起するとはどういうことなのか」という問いは、平和教育とは無縁に育った韓国人の出演者が感じる「ヒロシマ」という言葉への戸惑いと、鏡合わせのような関係になっている。また、広島やハプチョンではなく、横須賀の米軍基地周辺に出かけ、出会った人々に「ヒロシマ」についてインタビューした出演者もいる。戸惑いや疑問も含めて、「ヒロシマ」とは何か、自分は広島やハプチョンで何を見たのか、再現・表象するとはどういうことか、に向き合った出演者たち。中には、家族や友人と「ヒロシマ」について話し合ううちに、「ヒロシマについて考える会」にようなものが自然と出来てしまい、そこでのやり取りを一人で再現してみせた出演者もいた。

そう、ここでは、大文字の「ヒロシマ」は記号としての意味をなさない。ある出演者が機械的に反復し続けてみせたように、展示品のリストの羅列は、無機的な情報の集積に還元され、一つの物語へと集約されることはない。平和学習の授業で、原爆資料館の展示の中で反復され続ける、「ヒロシマ」の受難の物語は多層の声によって解体され、生きられた経験(の再現)として、演者の身体の中に再び定位されるのだ。

出演者たちは皆若く、戦争経験のない世代であり、全員が普段から原爆や戦争の問題に関心を持っていた訳ではないという。だからこそ、大文字の「ヒロシマ」からはこぼれ落ちるものを、リアルな経験としてすくい取ることが可能なのではないか。当事者性を離れたところで、広島の再表象はいかにして可能か。ビジュアルなイメージに頼らず、演者の発話と身体パフォーマンスの強度によって、観客に伝えることは可能か。ここに、本作が「演劇」の形式を逸脱しているようで、実はきわめて演劇的な装置である理由があると言えるだろう。


グスタフ・メツガー 連作《歴史的写真》


グスタフ・メツガー 連作《歴史的写真》


グスタフ・メツガー 連作《歴史的写真》

広島の(再)表象という問題が要請した、展覧会形式という演劇形態。この要請はまた、自明のものとされている、観客の「見る」行為をも変質させていく。

冒頭でも述べたように、観客はただ受動的に物語を消費する立場ではなく、何を「見る」のか(「見ない」のか)をそのつど選択する位置に置かれるのである。「見ること」は同時に、別の何かを「見逃すこと」でもあり、他の観客とは共有不可能な、非常に個人的な観劇体験が生起するのである。

全てを見ることはできないという不安感を抱えながら、演者の周りを歩き回る観客たち。「舞台上で起こった出来事を全て享受することができる」はずの観客の主体性は、脅かされ、自明であったはずの「見る」という行為じたいに亀裂が入れられるのだ。観客は、眼差す主体としての自らの身体を強く意識せざるをえない。そこで露呈しているのは、「見る/見られる」という関係のうちにある権力構造、眼差すことのはらむ暴力性である。

ここで私が想起したのは、今年(2010年)の第8回光州ビエンナーレで目にした、ドイツの作家、グスタフ・メツガーの作品である。迫害を受けるユダヤ人たちを写した写真の前には、ガレキの山が積まれ、戦火に追われるベトナムの子供の写真はすだれで覆い隠され、周期的にランプが点灯するものの、画像はぼんやりと姿を現すだけで、全体像を把握することはできない。また、紛争や迫害を記録した別の写真は、巨大なサイズに引き伸ばされ、カーテンや黄色いビニールシートですっぽりと覆われている。観客は、写真を覆い隠すカーテンやシートをめくって、記録された画像を確認することができるのだが、そうした身体的動作を伴うことで、「見る」ことがはらむ暴力性に否応なしに相対させられるのだ。

そうした視線の暴力性は、「ヒロシマ」を眼差すときの私たちの視線の中にも存在しているのではないか。今なお、傷口を探すような眼差しを無意識に向けてはいないか。終盤、「見る/見られる」と題された桐澤千晶によるパフォーマンスとテクストは、静かにそう問いかけていた。目を閉じて、たゆたうように手足を動かしていた彼女の姿は、無数のつぶやきの残響とともに、まだ目の奥で残像として動き続けている。

松田正隆/マレビトの会『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』 
2010年10月28日〜31日

京都芸術センター講堂

演出:松田正隆 演出助手:米谷有理子、田辺剛 舞台監督:岩田拓朗 音響:荒木優光 照明:藤原康弘 映像:遠藤幹大 衣裳:堂本教子 制作:森真理子、西村麻生 プログラマ:濱哲史

出演:生実慧、川面千晶、桐澤千晶、黒坂祐斗、児玉絵梨奈、駒田大輔、島崇、武田暁、チョン・ヨンドゥ、西山真来、F.ジャパン、山口惠子、山口春美

共催:京都国際舞台芸術祭2010「KYOTO EXPERIMENT」

主催:マレビトの会

 
著者のプロフィールや、近況など。

高嶋慈(たかしまめぐみ)

1983 年大阪府生まれ。
大学院で近現代美術史を学びつつ、美術館での2年間のインターンを修了。
関西をベースに発信していきます。

今年から始まった京都国際舞台芸術祭2010「KYOTO EXPERIMENT」は、本公演の他にも、チェルフィッチュ『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』や、高谷史郎氏が映像を、中谷芙二子氏が霧の彫刻を担当した、ジゼル・ヴィエンヌ『こうしてお前は消え去る』など、面白いプログラムが目白押しでした。舞台芸術の魅力にどっぷり浸れた一ヶ月でした。





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