topreviews[ネイチャー・センス展:吉岡徳仁、篠田太郎、栗林 隆 日本の自然知覚力を考える3人のインスタレーション/東京]
ネイチャー・センス展

超自然的、四次元的世界への憧憬―ネイチャー・センス
TEXT 立石沙織

私は年に2回は登山するほどの山好きで、先日も長野の北八ヶ岳に登ってきた。都会に住みながらもこうした静養はどうしても必要だ。山登りをするたびに何か自分の感覚がリフレッシュするような気分になるのである。
そんなときにちょうどよく開催されていた本展は、日本の自然知覚力「ネイチャー・センス」の可能性を考える展覧会だ。「ネイチャー・センス」と聞いても、すんなり理解できるようでいて実はあまり実態が掴めなかったが、どこか惹かれるようにして足を運んだのだった。おそらく「ネイチャー・センス」とは一体何なのか、果たして私はそれに共鳴できるのかということを知りたかったのだと思う。
出展作家が3人と少なく、実にシンプルな展覧会であった。参加した3人とは、吉岡徳仁、篠田太郎、栗林隆。1960年代生まれの、いまや国際規模で活躍するデザイナーとアーティストだ。
3人はそれぞれ、会場である森美術館の展示室を悠然と使用し、屋内でもスケールの大きさを感じられる作品を発表していた。まずは展示された順に彼らの作品のようすを追っていこう。


「ネイチャー・センス展」 展示風景、森美術館 2010/07/24-11/7 
吉岡徳仁 《スノー》 フェザー 2010年(1997年〜) 600x1400x500cm

入ってすぐ現れるのは吉岡徳仁の《スノー》という作品だ。高さ6m、幅14mの巨大なアクアリウムのようなものが立ち現れ、ホワイトキューブに柔らかな光が注ぐ世界が広がっていた。
アクアリウムの中には驚くべき量のフェザー(羽毛)が入っており、底には二つのファンが設けられている。そのファンの風によって、フェザーは勢いよく空中に放られたのち、世界をかき混ぜながらゆっくり舞い落ちていく。感じられるのはフェザー特有の軽さだけではない。塵も積もれば山となる、ぎっしり積もった部分からは、透明のケースを圧迫させるほどの重みを感じさせる。それもそのはずで、フェザーの総量は約300kgにもなる。
これは雪原を思わせるような作品である。はかない白銀の世界は美しい。けれども時に吹雪となれば、世界は厳しさを帯びる。この相反するふたつの世界を演出するのは照明の効果だ。このアクアリウムには、裏側から強く照明が当てられるようになっている。そのため、はじめ正面から見られるのは柔らかな逆光の世界なのである。穏やかな透過光の中で舞うフェザーはふわふわとした影となって、至福の光景を生む。それが裏側に回ると、一転して順光の景色となる。ポジをネガに反転させたように、アクアリウムの内部の方が暗くなり、フェザーの白さが際立つようになる。暗い世界を浮かび上がる無数の白いフェザーは、まさに冬の夜の嵐を思わせるのだった。
私は温暖な気候に恵まれた地域の生まれなので、実際に体感したことはそれほどないが、小さいころからこの国で育ったのでこのような光景は何度もテレビで目にしている。記憶のどこかにひっかかる光景なのであった。


「ネイチャー・センス展:吉岡徳仁、篠田太郎、栗林 隆」 展示風景、森美術館 2010/07/24-11/7
吉岡徳仁 《ウォーター・ブロック》 光学硝子 2002年 40×120×40cm

吉岡はこの作品の他に、オプティカルという光学ガラスを使用した作品《ウォーター・ブロック》、《ウォーターフォール》も発表している。人工的でいて化学的なこのガラスを用い、吉岡は「滝」などの水の現象を作りだそうとしたようだ。水に沈めればその姿を消失させてしまうようなフォルム、計算して生み出されたそのガラスの滑らかさと透明度の高さに、眠っていた触覚がぐっと引き寄せられる。実際触れることはできないが、これまでに体験した触覚の引き出しを開け、近しいものに思いを馳せる。こうして私たちは、自分たちが持つ皮膚感覚を呼び起こしていくことができる。
「デジタル化や情報化が進んで、ますますモノの形がなくなったとき、残るのは“感覚”のようなもの」と吉岡自身が語るように、私たちはみなさまざまな“感覚”を潜在的に持っている。そのことになかなか気づかないのは、現代社会の忙しさにかまけて眠りについているためだけだ。けれどいざ裸一貫になったとき、頼れる先は自分の“感覚”でしかない。吉岡はこれまで、多岐にわたるデザインを手がけてきたが、これは全てに通ずる作品のあり方であり、吉岡のライフデザインのコンセプトなのかもしれない。


「ネイチャー・センス展」 展示風景、森美術館 2010/07/24-11/7
篠田太郎 《銀河》 ミクスト・メディア 2010年 80×750(直径)cm
撮影:燻R幸三 写真提供:森美術館

吉岡の次に現れるのは篠田の作品群だ。作品《銀河》は、天井から同時にいくつもの水滴がおち、円形の泉に波紋を広げるというもの。水滴を落とす装置は、見た目はとてもメカニックだ。500mlのペットボトルを反対にして、ギラリと光る金属で固定されている。いっせいにすべての水滴が落ちるということは自然界ではおそらくありえないことだろう。その瞬間に立ち昇る感銘は、周囲の鑑賞者を釘付けにしている。何人もの居合わせた人間が、全神経を集中させてその一瞬を見守る状態の発生は、自然と人工を融合させた現象としかいいようがない。


「ネイチャー・センス展」 展示風景、森美術館 2010/07/24-11/7
篠田太郎 《残響》 2009-2010年 ヴィデオ(各:10分)
撮影:燻R幸三 写真提供:森美術館

そして巨大スクリーンに投影された《残響》は、東京のような都市空間も自然の一部として考える篠田の姿勢をもっともよく表す映像作品である。ひっそりと静まり返るゴミ収集場、のっそりと歩くバクの姿、都市の間の川の流れ、大自然の前に広がる川の流れ。それらが断続的に巨大スクリーンに流れる。言葉もなく音もなく、ただ延々と流れ行くさまざまな光景の中にいつの間にか連れ出されている。都会の景色も田舎の景色も織り交ぜることでバラバラな風景を一体させて一つの映像作品として完成させていた。

篠田はこのように「人間と自然の新しい関係」を模索している。今日まで発達したテクノロジーを、ゼロにもどすことはできない。人間は日々創造しながら生きる生き物であるから、余計過去へ後戻りすることはできない。あとはこれからどうよりよい関係性をつくっていくかという今後の姿勢にだけが頼りなのだ。
そのことを篠田の作品は物語っているのではないだろうかと感じた。


「ネイチャー・センス展」 展示風景、森美術館 2010/07/24-11/7
栗林 隆 《ヴァルト・アウス・ヴァルト(林による林)》 2010年 和紙、パルプ、植物、霧 約570x1900x990cm
撮影:渡邉 修 写真提供:森美術館


「ネイチャー・センス展」 展示風景、森美術館 2010/07/24-11/7栗林 隆 《ヴァルト・アウス・ヴァルト(林による林)》 2010年 和紙、パルプ、植物、霧 約570x1900x990cm
撮影:渡邉 修 写真提供:森美術館
アザラシを使ったインスタレーションで知られる栗林隆は、スケールを大きくさせて新たな方向へ展開していた。
《ヴァルト・アウス・ヴァルト(林による林)》は、伝統的な和紙とパルプを使って、巨大な森林を出現させた作品だ。森林の地面は人間の顔の高さぐらいにあり、ぽっかりと穴が開いた部分がある。そこから上の世界を覗くと、白い森林がそびえ立つのである。冬の白樺のような木が何本も天へ向かって伸びる。私たちは地中と空中の境界から、両者の世界を行き来することができるのである。


「ネイチャー・センス展」 展示風景、森美術館 2010/07/24-11/7
栗林 隆 《インゼルン 2010(島々2010)》 部分 2010年 黒土、鹿沼土、植物、アクリル 約400x750x1000cm
撮影:渡邉 修 写真提供:森美術館


「ネイチャー・センス展」 展示風景、森美術館 2010/07/24-11/7栗林 隆 《インゼルン(島々2010)》 2010年 黒土、鹿沼土、植物、アクリル 約400×750×1000cm
撮影:渡邉 修 写真提供:森美術館
栗林は「境界線」を深く捉える作家だ。過去に発表されたアザラシを使ったインスタレーションもまた、アザラシの足がはみ出た壁の穴から覗くと緑に覆われた泉のような景色を見ることができる作品で、鑑賞者は自ら今いる世界と泉の世界の境界を越えていかなければ体験し得ないものだ。今回の作品にもそれは見事に通じていて、前掲の《ヴァルト・アウス・ヴァルト》はもちろん、次の作品《インゼルン2010(島々2010)》にも継承されている。これは展示室に土を盛り上げてつくった山で、高さ4mはあろうかという巨大なインスタレーションだ。この山の両脇には階段があって、登って山を見下ろすこともできる。そしてこの山頂付近の部分に、境界線はある。巨大な山のほとんどは境界線下の世界で、山の根っこのような部分となる。境界線より上の、いつも私たちが見ることができる地上の世界の山はほんの一部でとても小さい。前掲の森林で自分の小ささを感じたあと、その森林さえもちっぽけな存在であることを目の当たりにするという流れ。その下に広がるものの大きさを再認識し、思わず震撼させられた。


「ネイチャー・センス展」 展示風景、森美術館 2010/07/24-11/7
栗林隆 《YATAI TRIP(ヤタイトリップ)》 2009-2010年 一輪車、木材、苔 175x123x61cm (x3)
撮影:渡邉修 写真提供:森美術

私が興味深く見入ってしまったのは最後の部屋に展示された《YATAI TRIP(ヤタイトリップ)》だ。これは栗林を発起人として、手作りの屋台を引きながら、世界の境界線を見にいくという旅のプロジェクトで、過去には博多や新潟の水と大地の芸術祭に登場している。
今回はその韓国編も流れていて、それをはじめから最後まで全部見た。何分の映像だったかは覚えがないほど没頭した。
旅は栗林の他に、ミュージシャンのNAOITOと、瀬木暁、それらをドキュメンタリーとして記録したカメラマン志津野雷が同行している。韓国編は、北朝鮮と韓国の境界線を見にいくというものだった。境界線に行き、何をするわけでもない。ただ屋台でお酒を飲みながらごはんを食べながらギターを弾いて歌を歌う、それだけだ。そこで行われていることの平穏さを、映像を見ながら一緒に味わった。

今回面白いと思ったのは、これらがすべて自然ではなく、人間の手からどうにかこうにか試行錯誤のすえに生まれた作品であるということが明快だったことだ。これらはやはり、自然の中で突然ふわりと生まれるものなのではなく、人間の意思と手からしか造りえないものたちである。その人工物に、私たちは記憶の風景を重ねることだろう。
この作品としてつくりあげるプロセスの中に、あらゆる事物に神が宿っているというアミニズム的価値観はもとより、物と物の間に在る超自然的な存在への憧憬が存在し、私たちに日本的な自然観というものを強く意識させる。

自然の創造物である人間が創造した現代社会のあらゆる事物。そう捉えるならば、今目の前に溢れる大量の物たちもすべて自然の一部であるといえる。けれども現在、それらが自然と融合できずにいる現実は看過できない。なぜ自然と人間の創造物は離れた場所にあるのだろうか。
その両者をつなぐものこそ、間に存在する人間の「ネイチャー・センス」なのではないか。皮膚感覚といった五感や、宗教的、呪術的な価値観こそが、唯一の架け橋ではなかろうか。
「ネイチャー・センス」から生まれる作品は、見る者の眠りついた「センス」を奮い起こす。「ネイチャー・センス」は我々がもともと持っているものであるからこそ、私は彼らの作品に共鳴するのだ。

さて、海外から訪れた人は、本展をどのように見て受け止めたのだろうか。自然と人工物をつなげるのは極小島国の民族だけでは到底覆いきれないだろう。
今、それが一番気になる事柄である。

ネイチャー・センス展:吉岡徳仁、篠田太郎、栗林 隆
日本の自然知覚力を考える3人のインスタレーション

2010年7月24日〜11月7日

森美術館(東京都港区)
 
著者のプロフィールや、近況など。

立石沙織(たていしさおり)

1985年 静岡県生まれ。静岡文化芸術大学で文化政策学を専攻。
在学中に、浜松の街を巻き込んだイベントの企画運営や、自室を毎月サロンとしてオープン。
現在、新宿眼科画廊(東京)スタッフをしながら修業中。
最近はアートピクニックしてます。




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