topreviews[タムラサトル 小山マシーン/栃木]
タムラサトル 小山マシーン


《小山マシーン》

意味からの開放、そしてその先の漂白
TEXT 横永匡史

 
《小山マシーン》

展示室の中に入ると、中央に2つの大きな機械が鎮座している。
機械には、それぞれ「小」「山」の形に取り付けられたチェーンが歯車によって回転している。

なぜチェーンが回っているのか?
この機械は何をするためにつくられたのか?

そのような疑問は、この機械の前では意味を為さない。
なぜなら、この機械には意味はないのだから。
ただタイトルが示すように「小山」という言葉を表す、そのためだけにこの機械は存在している。
本展のタイトルにもなっている《小山マシーン》とは、そんな作品だ。

タムラサトルは、『意味の破壊』をテーマに作品を制作している。
タムラは、物事が持つ意味や設定、目的に疑問を持ち、それらを破壊するかもしくは無効化し、そうした意味や設定、目的が取り払われた剥き出しのモノを見せる。
ただ、この『意味の破壊』を、物事にまつわる固定観念にとらわれず異なる視点を提示する、と捉えるならば、ことに現代美術においては、さほど珍しいことではない。
タムラを特徴付けるもの、それは、意味を無効とする手法の見せ方の妙にあると考える。
タムラは、作品をどう見せるか(あるいは、作品がどう見られるか)ということに対して、敏感な作家なのだ。


《モーターヘッドシャーク》

 
展示風景 左:《Catch and Release》

展示を観てまず感じられるのは、冒頭にふれた《小山マシーン》の他、《Catch and Release》《モーターヘッドシャーク》といった大型の作品がもたらすインパクトだろう。
これらの作品は、館内に3つある展示室に入るとまず目に留まるように配置されており、その物々しい外観が展示室に入った鑑賞者の眼を引く。鑑賞者は、このような動きを見せるのかと無意識のうちに身構える。
しかし、これらの作品の動きといったら、《小山マシーン》はチェーンがただ回るだけ、《Catch and Release》はただ釣竿に取り付けられたリールが鉄の台車を釣り上げては放すだけ、《モーターヘッドシャーク》は、橙色の鮫がその場でただ振動するだけだ。
鑑賞者は、事前の予測とのギャップの大きさに拍子抜けし、大きな脱力感を味わうのだ。

だが、タムラの作品はそういったインパクト勝負の作品ばかりではない。展示室Bの入口に展示されている《Catch and Release》の先には、壁面や展示ケースの中には、打って変わって小さな作品が数多く設置されている。これらの作品は、その小ささから、見た瞬間のインパクトはないが、作品を観ているうちに徐々に味わいが増してくるのだ。


左から《白熱灯のための接点#0》《白熱灯のための接点#8》《回転する木の円盤#4》《回転する木の円盤#3》《回転する木の円盤#2》《回転する木の円盤#1》《20の白熱灯のための接点》


例えば、奥の展示ケースの中に展示されている《白熱灯のための接点》は、本来回路を円滑に通電させるための道具に過ぎない接点においてあえて火花を生じさせる作品だが、今回展示された小型の作品の他、同様の構造を持った大型の作品も存在する。
これら接点シリーズと呼ばれる一連の作品のうち、大型の作品は、派手に発せられる火花のインパクトにより、鑑賞者の視線が火花に注がれ、照明と接点という主客の関係が逆転するところに見所があった。
しかし小型の作品は、火花も控えめになり、インパクトという意味ではさほどではないが、その分、回転運動や往復運動をする接点部分の動きの面白さや、照明全体を俯瞰して楽しむ楽しみが付加されている。
また、《HOT SAND》は、砂をホットプレートで熱し続ける作品だが、猛暑の中であえて展示することにより、作品自体の無意味さが強調され、鑑賞者はやりきれなさ、脱力感をじわじわと感じることとなる。

 
《食器の音を立てる》

このように、タムラは、多彩な手法で意味を破壊し、鑑賞者を楽しませる。
そしてそこには、単に意味を破壊するだけではない。無意味さをより強く感じさせるための様々な仕掛けがある。
例えば作品の表題だ。
タムラの作品の表題は、《白熱灯のための接点》《食器の音をたてる》など、タムラは一切の意図もこめず、ただ作品が持つ機能をそのままストレートに表している。
鑑賞者は、タイトルが作品内容をストレートに表しているからこそ、そしてそこに意図が欠落しているからこそ、鑑賞者は「この作品にはどのような意味があるのだろう」と考えてしまうのだ。
また、タムラの作品の大半が、展覧会のタイトルにも使われている“マシーン”、すなわち機械だということも影響していると思われる。
マシーンとは、語源となっているギリシャ語の「メカネ」が物を動かす道具という意であることからも自明であるとおり、人の役に立つ目的を達成するために作られるものである。そうした目的や意味を持たない機械というのは、それ自体が逆説的な存在なのだ。
タムラの作品は、非生産的な仕事を無機質に延々と繰り返す。人が何らかの作業をする際は、その表情や動作などに、作業をする本人の意識が反映されるが、機械が仕事をする際は、その無機質さ故に、動作にこめられた意図や意識はそぎ落とされて動作のみが残り、動作の無意味さが強調される。

鑑賞者は、タムラの作品にこめられた罠にはめられ、作品の意味を考えようにしむけられた上で、裏切られていくのだ。
そして鑑賞者は、裏切られ行き場を失った意識の行き先を求める。
しかし、タムラはそうした行き先を呈示してくれるわけではない。
目の前にあるもの(=作品)は、ただそれだけでしかない、と突き放すのみだ。
かくして鑑賞者の意識は、ただただ意味を求めて漂泊する。

《ブロアの上の落下傘》  

タムラの作品を観ているときに感じるフワフワした浮遊感、それは、固定観念の束縛から解放される心地よさ、そして、日常生活の中で無意識のうちに依存していた物事の意味や指標を破壊され、何を拠り所にすればよいか見出せない不安である。
考えてみれば、私たちの日常には、様々な形で公表されるランキングやガイドブックなど、多種多様なモノの中から私たちが選択するための指標が数多く存在し、私たちはそうした指標に頼って生活している。
しかしそうした指標は、自分以外の誰かが定めた基準に従って作られたものであって、その指標が自分にとって必ずしも有益なものとは限らない。むしろ、そうした指標に振り回されて、自分自身を見失ってしまうこともあるだろう。
それでも指標がなければ、私たちは何を選択すべきか、どの方向に向かうべきかもわからず、困惑を余儀なくされてしまう。それが現代という時代なのかもしれない。
《ブロアの上の落下傘》は、本来は安全に着地するための落下傘をつけた人形が、下のブロアから出る風に煽られ、いつまでも着地できずに空中を不安定に漂う。
その姿は、過去から続くの束縛からの自由を求めつつ、拠るべき指標を見失って漂泊している私たち現代人の姿と重なって見えた。

*このページの写真は全て、撮影:毛利秀之 提供:小山市立車屋美術館


タムラサトル 小山マシーン
2010年7月10日〜9月5日

小山市立車屋美術館(栃木県小山市)

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著者プロフィールや、近況など。

横永匡史(よこながただし)

1972年栃木県生まれ。
2002年の「とかち国際現代アート展『デメーテル』」を見て現代美術に興味を持つ。
現在は、故郷で働きながら、合間を見て美術館やギャラリーに通う日々。




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