| 地方の無力さと有難さ
 TEXT 藤田千彩
 
 誰かが言っていた、「東京出身者は損だ」。
 「●●ゆかりの」という地縁に関係する人数が多すぎるから、とか、美術館も多いが作家も多くて必ずしも展覧会に招かれないから、とか。
 私はいつも逆のこと、つまり「地方出身者は損だ」と思っている派なので、それは驚いた。
 と同時に、今回紹介する稲垣智子を思い出した。
 稲垣はいろいろな思いを背負って、昨年春に東京へ引っ越してきた。
 とはいえ引っ越して間もなく、昨年2009年から今年春までの約1年間、ドイツ・ハンブルグへアーティスト・イン・レジデンスに行ってしまった。
 こういったアーティスト交換事業は、東京や横浜でもやっている。
 しかし稲垣がハンブルグという街に行ったのは、ハンブルグが大阪市と姉妹都市であり、稲垣が大阪ゆかりの作家だからである。
 
 
                            
                              |  |  ハンブルグのアトリエと稲垣智子
 
 
 
 |  今回のレジデンスに、私は2月に訪れた。彼女がいたレジデンス施設は、ハンブルグ中央駅から電車で数駅行き、駅から5分ほどの郊外にあった。
 まだ雪が降るからか、室外へ出ることがとてもおっくうに思えたし、アトリエは3階建ての家の一番上にあったためか、家特有の居心地の良さを感じた。
 作家のアトリエ、ましてやアーティスト・イン・レジデンスを訪問する機会は、そうめったにないことだ。
 ちょうど稲垣が撮影をする直前だったこともあり、緊張感が走るアトリエには、アイデアやプロットと思われるものが描かれた紙が貼られていた。
 これまでアーカスや大阪のアトリエなど、稲垣の制作現場を私は見て知っているつもりだったが、心が洗われるような衝撃だった。
 
 そんなハンブルグの地で、稲垣が制作したのは「pearls」というタイトルの映像インスタレーション作品である。
 川も凍るようなドイツ北部の街では、真珠は採れないはずだ。
 場所にちなんだモチーフをつかう、ということは、現代において古い手法らしい。
 これまで稲垣は、作品に宝石やきれいに見えるものを登場させているから、真珠をつかうのもそういった流れであろう。
 ループする7分の映像作品には、ハンブルグに住むあらゆる世代の男女が登場する。
 真珠のネックレスをしている主人公らしいアジア人女性、稲垣が住むアトリエの窓からトランクを投げるおじさん、でっぷりとした貫禄のあるおばあさん、電話を取る金髪のきれいなお姉さん、スーパーマーケットで黒い服をまとってかごを押す少年など。
 
 
                           
                            
                              |  The Third Gallery Aya(大阪)での展示風景
 |  帰国展となったThe Third Gallery Ayaで、私は出来上がった作品を見た。
 ストーリーがあるようで、ない。
 真珠はキーワードなのだろうか、隠喩なのだろうか。
 
 私は映像のカット1つ1つに、いろいろな思いを馳せてしまう。
 真珠のネックレス、昨年私の祖父が亡くなったとき身に付けたのは真珠が「涙」を意味するからだったし、きれいなだけの意味ではない伏線(あるいは多重の意味をもつもの)としての真珠の使い方。
 トランクを家の3階から投げる瞬間やたたきつけられた音は、はっと恐ろしく感じるワンシーンであるし、固まった雪が積もっている景色は私がハンブルグに行った日を思い出す。
 あくびをするおばあさんの口に少年の姿が重なるように編集されたシーン、おだやかそうなおばあさんが飲み込むのは美味しい食べ物だけではないというおそろしい童話のような出来事。
 金髪のおねえさんが「ハロー」ではなく「もしもし」と日本語で電話を取る理由、日本人は登場しないのにどこかに日本を求めた稲垣の郷愁心。
 
 こういったカットの1つ1つに反応していくと、連なりやストーリーはどうでもよくなって、ループであることでさえ分からなくなってしまう。
 逆に1つのカットに映された人、表情、動き、背景の場所、色、といった細部に目が行ってしまう。
 
 やがて映像作品は、真珠の首輪をつかって主人公の女性は首を吊ろうとするシーンが登場する。
 もちろん真珠の首輪はもろく、束だった首輪は切れて、ばらばらと床に散らばってしまう。
 展示会場にも真珠の首輪はインスタレーションされており、首輪を中心に放射線状にばらばらと真珠はつながれている。
 映像作品のカット1つずつが気になるように、ばらばらと離れてつながれた真珠の1つ1つが気になってしまう。
 真珠の一粒一粒が連なり、真珠のネックレスになっていくように、映像の1カットがつながって作品になっていくはずなのに、私は映像のカットや真珠の1つ1つに「意味」を探そうとしていた。
 東京は確かにいろいろなものがあふれているけれど、アーティスト・イン・レジデンスという遠いところでつくられたものだからこそ、そのつくっている現場をもっと知りたいと思うのだ。
 それは真珠にしろ、映像作品にしろ、同じ「ものづくり」なのだと改めて実感した気がした。
 
 ■参考
 本作品「pearls」は、レジデンスしていたハンブルグでも展示された。
 作家より、ハンブルグでの展示風景画像もいただいた。
 荘厳そうに見える会場は、真珠が映えるのではないだろうか。
 実際私は見ていないことが、記録者として悔やまれる。
 
 
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