topreviews[芳木麻里絵展/大阪]
芳木麻里絵展

《レース #17》2010年、240×590mm、ガラス板にシルクスクリーン



多層化された表面の、
甘い誘惑

TEXT 高嶋慈

芳木麻里絵は、モノの「質感」や「手触り」に非常に敏感な作家なのだと思う。

個展案内のDMを手に会場のSAI GALLERYへと向かいながら、改めてそう感じた。
裏面に簡潔に記された文字情報は一見シンプルだが、真っ白のボール紙に箔押しという凝った仕様なのだから。文字の上をそっとなぞると指の腹にくぼみが感じられ、斜めから見ると文字は銀に光る。

繊細なレースや刺繍、一口サイズのチョコレート、それを包んでいた銀紙、青い釉薬による絵付けの美しい、伊万里焼の皿…。芳木の作品は、美しい装飾品やおいしそうなチョコレートといった感覚に訴えかけるモチーフを、一見リアルに再現しているのが特徴だ。


《レース #17》(部分)2010年、240×590mm、ガラス板にシルクスクリーン


《gingami#01》2010年、248×248mm、ガラス板にシルクスクリーン

《chocolate #01》2010年、248×248mm、ガラス板にシルクスクリーン

 
《imari # fune》2010年、φ320mm、アクリル板にシルクスクリーン


《imari # fune》(部分)2010年、φ320mm、アクリル板にシルクスクリーン
《レース#17》は、アンティークレースをモチーフにしたものだろうか。母から娘へと時代をこえて受け継がれてきた記憶が、糸と糸の間にそっと封じ込められているのかもしれない。メーカー名の刻印まで再現されたチョコレートは、思わず手にとってつまみたくなるリアルさだ。伊万里焼の皿をモチーフにした《imari#fune》からは、磁器特有のなめらかな肌触りや、湿気をたっぷりとはらんだ東洋の空気が伝わってくる。丸い小宇宙の中の山水は、霧深い大気の中にむせび、船影は霧の海の合間を航海しているかのようだ。

ところでこれらの作品は一体、何の素材で出来ているのだろうか?よく観察しようと近づいて見ると、表面が盛り上がり、奇妙な凹凸を含んでいるのに気がつく。レースも、チョコレートも…。特殊なゴムや、樹脂で作られているのだろうか?

実は、彼女の作品は全てシルクスクリーンで制作されている。立体作品のようだが、れっきとした「版画」なのだ。まず実際のモノをパソコンでスキャンし、光沢部分や影の部分などを区別して色域分解をすることで、5〜7種類の「版」を作る。各版につき数十回から百回ほどに及ぶインクの層を刷り重ねていくことで、刷られたモチーフは、立体的なふくらみを獲得していくのだ。層の厚さは多いところで、千層近くに及ぶという。地道で、非常に根気のいる作業だ。

芳木がこだわるのは、刷りの工程だけではない。レースやチョコレートの作品ではガラス板にインクを定着させることで、モチーフが浮かび上がり、つまんで手に取れるような効果をもたらすのに対し、伊万里焼の皿の作品では、不透明なアクリルに刷ることで、あたかも磁器の表面のようなリアルさが追求されている。
扱うモチーフによって、支持体も意識的に変えているのだ。

ただし芳木は、単に「インクの層によるリアルな再現」を目指しているのではない。彼女が「版」を作る工程に注目しよう。

立体物をパソコンでスキャンし、色域分解するという作業は、カラーコピーの感覚に近いという。つまりスキャンというデジタル化の過程を介在させることで、立体物は二次元に翻訳されて平面として取り込まれ、さらにその際、表面の凹凸や光沢、質感の違いは、色調の差異として処理されるのだ。硬くツルツルして光を反射する部分と陰影の部分、レースであれば糸の層が密に重なった部分と薄い部分の違い、というように。いったん二次元化を経たのち三次元へと送り返されたオブジェは、もはや単なる再現ではありえず、表面を彩る質感や光沢といった
感覚的な差異が増幅され、インクの層の厚みの違いとして、物質的に還元されてしまったものである。
つまり、「キラキラ」「ピカピカ」「ツルツル」「ざらざら」といった感覚的な差異が、多層化されたインクによって立体的に立ち現れるのだ。しかし、表面に付随する質感や光沢といった要素は、表層的で現象的な、とるにたりない存在にすぎないものなのだろうか?

芳木の作品は、インクを何十層と刷り重ねる制作過程に目がいきがちだが、ここで、芳木が選んだモチーフそのものにも注目してみよう。装飾品や食べ物など、「手や舌で触れる」ものが多いことが特徴の一つだ。また、嗜好品であるチョコレート、美しく着飾るためのレースや刺繍、古美術品として鑑賞されたり、料理をよりおいしく見せるための絵付け皿…。それ自体魅惑的なものばかりだ。これらのモノから、表面を彩る質感や光沢を剥ぎ取ってしまったら、どうなるだろう。のっぺりと単調になった表面は何も魅力を語らず、おいしそうにも高級そうにも見えないだろう。写真に撮られ、二次元の画像になった場合はなおさらだ。
例えば絵付け皿の場合、釉薬の盛り上がりに光が宿っていなければ、ただのプリントを施した薄っぺらい安物に見えてしまうかもしれない。チョコレートの写真を見て「食べたい」と思わせるのは、いかにもおいしそうな表面の色ツヤだ。

私達の欲望を刺激する「表面」。その効果が最も要求されるのが、印刷物やモニター画面といった二次元の画像の領域だ。質感や光沢といった感覚的情報は、表面に依存する点でそれ自体は自律的な存在ではないものの、「おいしそう」「繊細できれい」「美しい」と感じさせるリアリティの在りかを逆説的に支えている。私達を取り巻く、氾濫する画像における視覚経験は、この逆説的なリアリティのあり方によるところが大きいのだ。

ただし芳木の作品は、モノの魅力を高め、食べたい、触りたいという見る者の欲望をかきたてる表面の誘惑を、単に再創造している訳ではない。スキャンという人工的な過程の介在によって、手触りや凹凸といった感覚的経験が、二次元上の情報に置換された形でアウトプットされるという、ゆがみを伴ったあり方をしているのだ。

一見、「かわいらしい」「きれいな」芳木の作品は、「本質」対「質感」という二項対立が無効化し、むしろ「表面的」な質感こそがリアリティを生み出すという転倒したあり方について、見る者に再考を促す。さらに、触覚的経験と二次元上で処理された情報とのズレを提起することは、批評性をはらむと同時に、新たな視覚経験を開くものでもある。


《UNTITLED》2009年、1085×765mm、紙にシルクスクリーン
一方で芳木の作品には、デューラーやルーカス・クラナッハといった北方ルネッサンス時代の版画を下敷きにしたシリーズもある。これらの作品は、レースやチョコレートといった立体物をモチーフにした作品とは異質な性格を帯びている。数種類の版を作り、インクの層を刷り重ねていく制作過程は同じだ。では、もともと平面である版画を下敷きにした作品の場合、インクの階層の違いはどこに現れるのか?近づいて見ると、遠くの山々や町並みは薄い層で刷られているのに対し、手前にいくに従って、インクの層が厚みを増しているのが分かる。前景に登場する人物や木は、黒々と盛り上がるインクによって重厚感さえ感じさせる。ここではむしろ、遠近法によって前景・中景・後景と構造化された、絵画空間のあり方が意識的に言及されているのである。

手や舌で触れられるモノであるがゆえに、表面を饒舌に彩って、手に取らせようと誘惑する質感や光沢。一方、視覚だけで完結するからこそ、前景・中景・後景という空間的構造によって見る者を惹きつける絵画の世界。芳木の作品は、両方の「誘惑」について、実験的な版画の技法によって言及している。この二つの系統が、今後どのように展開されていくのか、非常に楽しみだ。

芳木麻里絵展
2010年3月29日‐4月17日

SAI GALLERY(大阪市西区)
 
著者のプロフィールや、近況など。

高嶋慈(たかしまめぐみ)

大学院で近現代美術史を学びつつ、美術館での2年間のインターンを修了。
関西をベースに発信していきます。




topnewsreviewscolumnspeoplespecialarchivewhat's PEELERwritersnewslettermail

Copyright (C) PEELER. All Rights Reserved.