topreviews[『それぞれのリアル展』/神奈川]
『それぞれのリアル展』


現実と非現実の間を微妙に行き来すると...、自分だけのリアルからみんなのリアルに行き着く

TEXT 安東寛


 
最近、美大生の作品を見る楽しさに気づいた。
もちろん心技体ともに熟した、完成された世界を披露してくれるアーティストの個展は素晴らしいが、学生の作品鑑賞には、前回からの作風をガラリと変えてしまったりと、成長経過を見守る観察日記的な楽しさがある。
また将来の有名アーティスト発見の予感を感じる時もあるし、なによりも、空き地が出来ればすぐコンビニが建つような、非アート的なこの困った国で、元気にアートの世界を追求する美大生の、そのピュアな姿に胸キュンを憶えるのだ。
 そんな美大生の作品に触れられるギャラリーが、人気ドラマ「あぶない刑事」のロケ地にもよく登場していた、伊勢佐木モールの1本西側の福冨町東通にあるa"art gallery, on the wind"だ。


向後茉莉《八幡平》100cm×80.5cm キャンバス油彩 


 そして今回、シルバーウィーク中に開催されていたのは、相模原市の女子美術大学の卒業生と大学院1年生の5名による、“自分の存在を実感させる自分にしか感じ得ないリアリテイー”というテーマのグループ展「それぞれのリアル展」だ。

 
向後茉莉のポートフォリオより

 この日在廊していたのは大学院1年生の2名で、最初に自分の作品を解説してくれたのは、向後だ。
彼女は洋画を専攻していて、線描画を得意とする。 
ポートフォリオには女性像の絵画が多く、女性のまとう布の細かい模様や髪の毛一本一本まで細い筆を走らせた、誠実な描写が見事だ。
人物のデッサン力もあり、上品で格調高い名画の風格を持つ作品なのだが、どこかで目にしたような印象がある。
聞けば、アルフォンス・ミュシャの「四季」などの作品の模写に近い作品を多く描いてきた、とのこと。
 そして今回の展覧会ではその作品作りから一転、テーマが“自分だけのリアル”ということもあり、日常的で身近なものを描くことにした。
そうして出来上がったのが、一見“青黒い色一色でキャンパスを塗りつぶした”といった印象の作品「八幡平」だ。
今回彼女がモチーフに選んだのは、東北地方の旅行中に出会った八幡平高原の風景。
今まで見本がある上で作品を作ることが多かった彼女にとっては、今回の作品作りは実験的なものに感じたそうだ。
彼女はその風景を目の当たりにした時、木々の発する青黒い色の迫力に圧倒されたとのことで、その色彩の迫力が「青黒い濃霧が押し寄せてきている」といった印象の絵に仕上げさせたのではないだろうか。
しかし彼女はただ青黒く塗りつぶしただけではなく、木の意識で線を引いたりと、高原の風景描写をその中に編みこんでいる。
そのせっかくの細かい描写を、青黒い一色で押しつぶしてしまう表現にさせてしまったのは、彼女に押し寄せてきた“青黒い色彩のインパクト”のせいなのかもしれない。
彼女は今、線描画から具象画に興味を持ち始めたのことで、この相対する表現方法に転換後の作品が気になる。
私としては、得意の線描画で細かく描いた風景を、わざともったいなくも一色の色で塗りつぶしてしまうような大胆で革新的な彼女の作品を見たいと、勝手に思ってみたりした。


小野寺遥《海のかえり》...103cm×72cm 綿布・アクリル


 そして続いて作品解説をしてくれたのは小野寺だ。
まず、展示されていた彼女の作品「海のかえり」を一目見たとき、妙に気になった。
“ソフトフォーカスのカメラで乗り物の中の風景を撮った”ような絵...それを見ていると、なんだかなつかしい気持ちになった。
それはボカシ過ぎないようにボカシた、微妙な表現方法による不思議な絵だ。
私は小さくて丸い窓の形から、飛行機の中の風景を描いたものなのかと思ったが、彼女によると、彼女の思い出の一つの、家族で海へ出かけた時の帰りの車中の風景を描いたものであるという。
そして彼女は、「私は“なつかしい過去の風景”を描いているが、興味があるのは“過去の風景”ではない。“なつかしい”という感覚、“なつかしい思い出を思い出す”という感覚そのものを描こうとしている」という説明をしてくれた。
“なつかしい”という感覚は、誰もが興味を惹かれる普遍的な感覚といえよう。
しかし一般的な“なつかしさを表現しようとするアーティスト”は、昔なつかしい昭和の風景など、何らかの対象物を通じてそれを伝えようとするものだ。
しかし“なつかしい”感覚の正体そのものの表現を試みようとしている彼女は、稀有な存在といえるのではないだろうか。
そしてそのために、彼女は現実的とも非現実的ともいえない表現を大事にしている。
「海のかえり」において車の窓を極端に大きく描いたり小さく描いたりしているのもそのひとつで、過去の現実を忠実に思い出して描くことは重要ではないのだ。
“ピントを合わせず、ボカしすぎない”、“抽象と写実の中間的表現”によって、彼女は現実と非現実の間の微妙な世界を作り出し、そこに普遍的な“なつかしい感覚の真実”が見つけられると気づいているのではないだろうか。
たしかに「抽象的だと多くの人には理解しづらく、写実的だとそこに描かれた体験を重ねた人以外は共感しづらい」といえよう。
 
 
小野寺遥のポートフォリオより
だから彼女の絵は誰が見てもなつかしく感じるのだろう。
 ところでポートフォリオの中の作品には、“男の頭の周辺を泳ぐ魚の群れの中の一匹が、男の右目にはまりこんだかのごとくその輪郭と重なっている”“窓の前に立つ顔の消えた人物像”“”普段まな板の上で切られる存在”の魚を手に持ち、逆に自分の腕をぶつ切りにする女性”など、「現実にはありえないが、非現実的過ぎない」微妙な不思議さに溢れた光景が展開されている。
このようなシュールな作品は個人的に好みなのだが、これらが小さめの画用紙やプリントの裏などに描きなぐられているのに、驚かされた。
しかも対象物の色塗りが“人物の右半分だけ”などと中途半端だったり、輪郭線もテキトーだったりと、なんとなく“大人が描いた子供のラクガキ”といった感じの作品が多い。
しかしその完成度は高く、描こうとするイメージを冷静に把握した上で描いた“計算されたラクガキ”感があり、この感覚を新鮮に感じた。
だから「これらのラクガキ的ドローイングの方が自分の描きたいものが楽に描け、展覧会のために描いた絵にはプロセスに不自然さを感じたり、自分と絵との距離が遠く感じる」との彼女の言葉に納得できる。
“壁に描いた子供のラクガキ”を見て面白く思った大人が、「この白い紙にキレイに描いてみて」とお願いするようなバカバカしさと同じものなのだろう。
これらの作品は、インスピレーションの原型の画、まさに“原画”といえるだろう。
私は彼女から「ラクガキ感覚の方が自分のインスピレーションが正確に形に出来る」可能性に気づかされ、浮かんだイメージを丁寧に描くことを重要視してきた自分の作風をあらためて考え直してみたくなった。
 私は彼女のような“独自の世界観を持った表現者”の作品を見ていると、一アーティストの個展を鑑賞し終えたような満足感を憶える。
そんな人が美大生なのだと気づいた時、「プロアーティストって何者? どこからがプロなのだろう?」といった疑問に駆られるのだった。

『それぞれのリアル展』
2009年9月20日(日) 〜 9月23日(水) 

art gallery, on the wind(神奈川県横浜市)
www.onthewind.net

向後茉莉&小野寺遥
ともに女子美術大学 大学院1年 在学中

 
著者のプロフィールや、近況など。

安東寛(あんどうひろし)

1969年 神奈川県生まれ。現在月刊ムーを中心にして執筆活動をする、妖怪と妖精を愛するフリー・ライター。
趣味で色鉛筆画を描いてます。




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