建物はまるで一つの生き物のように、ささやき、観客を包み、時に暴力的にその存在を露にする。そして一つ一つの音や動きは、緩やかにつながっていた。
梅田哲也は常に空間のキャラクターに焦点をあてたサウンドインスタレーションやライブパフォーマンスを各地でおこなっている。作品は先に書いたような、「扇風機のようでいてそうでないもの」や、「スピーカーのようでいてそうでないもの」というふうに、日用品や廃材に彼が手を加え制作したツールや、会場や会場付近にもともとあった物などを使って制作される。会場に設置されたそれらの装置は、動いたり、かすかな(時には大きな)物音を発したり、震えるような光の明滅を繰り返したりしながら、緩やかなつながりをみせる。こちらで火花がちれば、あちらの電球が点滅し、あちらで扇風機が風をおこせば、そのうち遠くで物が落ちる、というふうに。観客の中には、インスタレーションの中に入りこんでこの装置達が立てる物音や動きをじっと見つめる者もあれば、ひたすら壁ぎわに座りこんでこの場所に響くかすかな音のまとまりを聞く者もいた。作品に自由に近づき、覗き込み、耳を澄ますことのできる気安さが、梅田の作品にはある。そしてつい言ってしまう。「この動いてるやつ可愛い・・」と。しかし何と名付けていいのかはやはり分からない。
なんとも名付けがたい装置たち。使われるための機能や名前すらはぎとられた物たち。かつて扇風機だったもの、普段はこんな所にあるはずでない赤いポール、場違いなモノたち。そもそも元々が何であったのかすら分からないようなモノもある。生まれてきた用途とは全く別のものとして、それらはまさしくだだ存在そのものとして、今この場にある。そしてそれぞれがそれぞれなりの音をたて、緩やかに関係し、運動している。音に耳をかたむけ、長いこと展示室にとどまる観客も多い。しかし、観客をとどまらせるのは、装置の動きや音の不可思議さや、からくりの面白さだけではない。
展示室に存在し、観客を惹き付けるのは、何者かの「けはい」とでも呼ぶべきものだ。使っている素材は日用品であり、廃材であり、「モノ」でしかない。そこには人はいない。動物もいない。生き物はいない。しかし確かに何者かの「けはい」があった。梅田哲也は常に空間の特徴や状況に目をむけ、その場所と対峙しながら、ある部分は即興的に展示をくみ上げていく。設置された装置はその場所ならではの響き方をするし、発生した物音は、その音が満たされた空間に観客の目をむけさせ、明滅する光は、空間の輪郭をはっきりさせていく。これは凝り固まった感覚を、ずらすための装置だ。
梅田の作品を見る時、ライブパフォーマンスを見るとき、観客は自分のまわりにこんなにも音が溢れていたのだということに、段々と気づいていくだろう。じっくりと見れば見るほど、会場を歩き回ればまわるほど、様々なことに気づく。自分以外のたてる物音に気づいていく。空間がもっている「けはい」に気づいていく。けれどその「けはい」は今発生したものでは決してない。この場所は今の今まで自分が立っていた場所と同じ空間であり、「けはい」はいままでもずっとそこにあったはずで、何も変わってはいない。自分が気づいていなかっただけだ。
他者の気配=他者の存在を感じるときに、同時に浮かび上がってくるのは自分という存在である。日常に投げ込まれた異様な、けれど気の置けない装置たち。その装置たちと対峙するとき、私はその装置と同じ、一つのただの存在として同じ空間の中にいて、回りを見渡し、様々なものを捉え返す。と同時に、曖昧だった自分の輪郭をも、捉え返すことができるだろう。
今自分の立っている空間の「けはい」に気づくとき、聴こえる音に気づくとき、日常はこれまでと少し違った見え方を、しはじめる。