振り返ると馬場健太郎の《Hopeful Ship》がひかえていた。(画像=b)
緋色の画面から、波しぶきが聞こえたからだ。
クールベのような波は、さっきまでいた伊豆諸島の港の波とは違う。
むしろ私のふるさと、瀬戸内海の小島に打ち寄せるような、波。
向こうに見えるのは、きっと四国。
雲がかかってるけど、もうすぐ晴れる。
と勝手に決めつけて、さざなみの音に耳を澄ませる。
ぼんやりした塗り方は、近ごろ多い気がするが、馬場の作品はどうだろう。
どちらかというとぼんやり度よりも、集中させたい部分をよりよく見せたいから画面全体をぼんやりさせている気がした。
つまり、この作品では波のように横に連なる部分を際立たせるために、空であろう上部、私が四国だと思っている部分をぼんやりさせている。
見て欲しいのは波の部分なのだ。
と断言したかったが、空の部分、四国の部分のゆくえも気になってしまう。
つい「これから天気はどうなるんでしょうね」とつぶやいてしまった。
こうして作品の中に自分を投げ打っていたら、画廊の方がお茶を出してくれる。
現実に引き戻される。
そうだった、私は波の見える場所にいるのではなかった。
らせん階段をとんとんと上がり、傍嶋崇の作品を見つめる。
アスファルトに引かれた線のよう、が最初の印象。
キャンバスは、線というより面で仕切られている。
ぬりえのような感覚で塗っているのだろうか、面は同じ方向の筆運びで塗りつぶされている。
細かい部分がないせいで、つまり単に塗っているだけのせいで、妙な安心感を得た気持ちにもなる。
会ったことがない作家だが、はっきりしているんだろうな、と思った。
ただ、油絵具という素材のせいだろうか、「この作家はしつこくねちっこいのではないだろうか」と思ってしまった。
これまでの3人の作家は作品の中に自分が入っていってしまったが、傍嶋の作品は向き合って話し合いをしているようで、それはそれで楽しい。
私は作品といくつか勝手に会話を交わし、話しやすいと勝手に思った。
(実際傍島と会ったときに、うじうじしてるような人だったらどうしよう?ピカソもはっきりしている人だと私は思っているけど、うじうじしている人だったりしたのだろうか?作品と向き合うときそういう想像も巡らせてしまう)
企画者である美術ジャーナリストの名古屋覚によれば「画家たちは、とりわけこの4人の画家たちは、色と形で、飽くことなく『春』を追い求めている。絵画の春は、永遠の春である」とのこと。
私には色や形だけでなく、さらに描かれたなにか、あるいは見る者を魅きつけるなにか、が彼ら4人には備わっていると思う。
それはテレビ番組でいうところの演出や台本、広告でいうところのPR方法だろうが、嘘を本当のように見せかける技術のうまさ。
それを持ち合わせつつリアルに伝えることを、きちんと分かっているからだ。
絵画というフィクション、絵具がチューブから出ただけの物体、というのに。
私は鎌倉で見たこの4人の春を忘れないようにしたい。