視覚と聴覚、身体感覚で捉える風景の本質
TEXT 田中由紀子
|
|
会場風景
|
街の喧騒の中にいても、遠くに山が見えると落ち着くのはなぜだろう。空との境界を成すぼんやりとした稜線が目に入ると、優しく見守られているような気がするのは、私だけではあるまい。
若手作家、伊藤正人が展示空間に出現させたのは、そんなうっすらと青い山々。壁4面にぐるりと描かれ、山の麓には、家やビルのシルエットが白く浮き上がっている。ギャラリーの中央に立つと、街中で山を望んでいるような穏やかな気分になった。
壁に近寄り間近で眺めると、作品の印象は一変した。壁に現れた山は、ロイヤルブルーのインクで書かれた縦組みの文章から成っていたのだ。一行一行を書き始める位置と書き終わる位置を少しずつずらしていくことによって、緩やかな稜線と街並みのシルエットがつくり出されていた。「目の前にある青は万年筆のインクだった。最も遠くにある青は名も知らぬ山だった」という書き出しは、あらかじめ考えられていたものだが、それに続く部分はすべて即興で綴られたものだという。また、冒頭は過去形であるものの、それに続く部分は現在形で書かれていた。伊藤によれば、意識的に現在形を使って、その瞬間の彼の思いを一人称で書き連ねていったのだという。そのせいか、しばらく読んでいるうちに、彼の言葉が私の思いとシンクロし、自分自身が心の内を吐露しながら山道を歩いているような錯覚に陥る瞬間があった。
このことには、「読む」という行為が大きく関わっていると思われる。それは私たちが文章を読む場合、視覚で捉えた文字を頭の中で音声化することで、聴覚でも捉えているからだ。つまり、視覚と聴覚で同時に知覚することにより、一人称で綴られた文章は、読み手自身の考えのように認識されることがあるのではないだろうか。また、「読む」ときの目の動きとも無関係ではない。というのは、壁の文章を読み進める行為は、目で文章を上から下へたどる動きを繰り返すことになるからだ。この動きが、起伏のある山に分け入っていくかのような身体感覚を生み出したのではなかろうか。
作品に囲まれたときに感じられる安心感と、間近で見た場合のドライブ感。伊藤が描き出す山は、そのどちらをも見る者に体験させる。文章により立ち上げられた山は、見る者の視覚ばかりでなく、聴覚と身体感覚にも働きかけることにより、その風景の本質を伝えていた。
このページの写真は全て、撮影/山田 亘