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米松の大径木
TEXT & ILLUSTRATION 岡村裕次
東北地方太平洋沖地震
今回の地震で考えた事

今回は例外的に建築物紹介ではなく、地震について今頭の中で思っている事を書いておきたいと思います。歴史的な惨事を建築家としてどうとらえていくのかを考えるきっかけにする為に絵も写真もなく主旨が違うのですが、お許し願えればと思います。

僕は東京に住んでいるので、3月11日はそれなりに大きな揺れを感じました。その後の混乱はすごいものでした。携帯電話は不通、鉄道などは全て止まってしまい、道路は大渋滞でほとんど進まず、歩道には帰宅に向かう人々であふれ、コンビニからは食材がすべて消えるという状態で、産まれて初めて見る情景が繰り広げられていました。
マクドナルドやスターバックス、居酒屋などの飲食チェーン店から家電量販店まで全て店を閉めており、地震後の新宿駅も異様な雰囲気でした。

生きる為のインフラ(水、ガス、電気)は全く問題なく使える状態で、建物の倒壊もほとんど見られなかったのですが、都市の機能はかなりストップしていた印象を受けました。都心部では家に帰れない人であふれ、泊まる場所は満室です。ご飯を食べようにも店を閉めてしまった飲食店が多く、開いているコンビニやファーストフードは長蛇の列でした。そうなると歩いて家に帰るしかなくなり、まずは安い自転車が飛ぶように売れたようです。それも品切れとなり、歩くしかないので8時間とかかけて歩いて帰宅したが大勢いるようです。歩道が帰宅する人たちでものすごい密度となっており、一部の人は車道にはみ出して歩いていました。ハイヒール、タイトスカートの女性とかもいて、こりゃ大変だという感じがしてたら、事故を目撃しました。どうやら車道を歩いていた人と大渋滞をすり抜けて来たバイクと接触事故を起こしたようです。大きな事故ではなかったようでしたが携帯で消防車を呼ぼうにも繋がらない状態でした。
もし繋がったとしても大渋滞で消防車が到着できないといった状況も予想され、震災による直接的な死者がいなくとも、死者が出てしまうのではないかと感じました。

つまり都市機能は失われており、救急車すら呼ぶ事が出来ないのです。物理的な被害が出ていない東京にもかかわらず、こういった状態である事に都心部の脆弱さを感じる事が出来ました。家庭内で保存食品や懐中電灯の備蓄、企業はそこで社員が寝泊まりできる環境と備品を用意しておいたり、携帯以外で情報収集が出来る工夫など今回の事を教訓に出来る事は沢山あります。例えば歩いて帰る事を考えれば、ロッカーに運動靴を入れておいても良いのかもしれません。また、地震にはパニックを起こさない為に情報収集が重要です。携帯が使えない環境ですと携帯ラジオが一番かもしれません。電池消耗の激しい携帯が途中で切れて悔しい思いをした人は、常に充電器を持ち歩く事をしてもよいのではないでしょうか。明日は我が身です。災害時に対し、自分たちが冷静に何をすべきなのかをこの機会に改めて考えてみる必用があると思います。

今回の地震において東京の建築物被害はどうだったのでしょうか。私も建築家ですから、道すがら建物などを見ながら工事現場から事務所に戻ったのですが倒壊しているような建物はなく、ガラスの割れや瓦が落ちる程度でした。震度5強でこれだけの被害だったことを考えると建築基準法の耐震基準は安全だとその日は感じました。あの阪神淡路大震災では様々な建物が倒壊し、高速道路までが倒壊していたあの風景は忘れられませんから、随分と建物の耐震性が上がったのだなぁーと感じました。(しかし(しかし今回の地震の特徴は海溝型地震のため周期が長かったのが地震による木造住宅の直接的な被害が少なかった原因かも知れません。周期の違いが被害に大きな影響をあたえるのかについてははこちらを見て下さい。)同時に巨大な津波に対して建築や土木は本当に力になれないのだという無力感も感じました。自然災害にハードで対抗することはできないのだと。

現在の建築基準法で定められている建物の耐震基準は下記のように定められています。
「数百年に一度発生をする地震(東京では震度6強から震度7程度)の地震力に対して倒壊、崩壊せず、数十年に一度の発生する地震(東京では震度5強程度)の地震力に対して損傷しない程度」倒壊、崩壊というのは建物がぺちゃんとつぶれ、人命をすぐさま奪ってしまうような現象を指します。よって、建物として容易に直せる事を意味しているのではありません。今回のような規模の地震が起こればガラスが割れたり、外壁にひびが入るかもしれませんが、人命に奪う倒壊はないように構造の基準を設けているのです。
地震の表記にマグニチュードとか震度とかがありますが、一概に「震度7ならこの建物は倒壊して、震度6強なら大丈夫」といったようなわかりやすい表記は出来ません。地震には縦揺れなのか、横揺れなのか、周期はどれぐらいなのかと個性があり、建物にも耐震性に対して個性があります。
こっち方向の揺れには強いけど、こっち方向は比較的弱いということがあるので、自分の家の弱点を設計した建築家に聞いて知っておく事は良い事だと思います。

地震が恐いと言ってすごく耐震性が高い家に住みたいと言う人がこれから増えて来るかもしれませんが、過剰は良くないと思います。四季のある日本の風土を感じる為に開口部は重要ですから、いつ来るかわからない地震の為に毎日を過ごす家が壁ばかりの家になってしまっては意味がありません。日本に住んでいる限り、地震とは上手につきあっていかねばならないのです。それは日本の歴史が物語っているのですが、幾度も過去に地震、津波、地震による火災で私たちの祖先は復興をしてきました。奈良の大仏が入る東大寺は二度ほど焼けているのだが、それでも奈良時代から建っているような感覚で僕たちはあのお寺を見る事が出来ます。湿気が多い土地での木の文化で、地震大国である日本はオリジナルを保存する事が出来にくい環境です。だからといって自然災害に対抗しない訳ではありませんが、ハードだけでの対抗は無力である事を今回思い知らされました。やはり、どこに逃げるのかとか津波の情報をいち早く伝えるとか、そういったソフトを充実させていく必用があると思いました。

さて、実際の被災地ではこれから復興に向けての歩みがゆっくりとはじまります。最低でも10年、長ければ20、30年とかかるかもしれません。被災された場所はコミュニティーがしっかりと根付いた小さな集落が多いと思いますので、仮設住宅のあり方も神戸の都心部とは違わないといけないと思います。様々な地域からの応募を受け付け、抽選で仮設住宅に入る人を決めるのではなく、地域の共同体を壊さないように配慮するべきでしょう。家族を失いひとりぼっちになった人を救えるのは、同じ共同体の人しかいないのではないでしょうか?採光条件が変わるかもしれませんが通路に向かい合わせで仮設住宅を配置したりして、コミュニティーを切らない方法を考えるべきでしょう。また住宅だけをひたすら並べるのではなく。20戸に一つぐらいは簡単なご飯でも食べたりお茶が飲めるスペースや皆で使える大きな調理場を作ってほしいものです。阪神淡路大震災で孤独死が沢山ありましたが、その教訓を生かすように僕たち建築家は政府に意見を言う必用があると感じています。

また、東京で消費する電力を東北で作り、巨大な送電線でロスを発生させながら東京に送ると言う行為を辞めるべきでしょう。もう少し小さな社会にしないといけないというのは今回で思い知らされました。地震大国である日本が原子力発電に依存しているのはそもそもの間違いだと言う意見が以前よりもありましたが、それが現実となった感じがしています。これをきっかけに脱原発を日本が宣言し、他の発電方法や自然エネルギーの活用を日本の総力を挙げて取り組むというのは、今後の技術大国日本ブランドの向上に素敵な事ではないかと思うのです。例えばある自治体は自らの区域に自然エネルギーを利用したエネルギー発生装置を設置し、そのエネルギーだけでまかなうと宣言してはどうでしょうか。隣の自治体よりも暗い町並みになり、使いすぎると警報が街に鳴り、皆が節電し始めるとなるわけです。そこで生産された商品はクリーンエネルギーだけで作られた商品として付加価値が付くかもしれませんし、意識の高い人はこの街に住みたい、この自治体に税金を払いたいと思うかもしれません。

被災地では現在の避難施設からやがて仮設住宅に移り住み、その後からが本当に復興に向け気持ちを奮い立たせねばなりません。津波で破壊された数々の地域住民はもしかしたらあの津波がトラウマとなり違う地域に行ってしまう人ばかりかも知れません。長い間住んでいる高齢者だけが今まで住んでいた元の地域に戻り、若者は戻ってこないとなるとその街は衰退していくだけとなり悲惨です。当然ですが観光客や引越して来る人もいなくなると集落は死んでしまいます。その不安を取り除いてあげるような津波に対する方策を考える事が、国に求められている事だと思います。
堤防の無力さが証明されたので、あと5メートル高くするといったようなハードでの対抗だけではないのでしょう。津波が来たら情報をいち早く伝え、どこに逃げれば安全かを周知させておくソフトを国が整備することは重要でしょう。安心して住む為に用意するハードとして、強固で高い構造体をつくることも国家の仕事かもしれません。「皆が昔住んでいた場所に安心して戻る気持ちになるためにはどうしたらいいのか?」というアイディアはこれから皆で出しあっていく必用があります。
仮に地域住民が戻って来たとしても、スピード重視の画一的な安い住宅がとりあえずという理論でコミュニティーを無視して建ち並ぶのだけはこれも阪神淡路を教訓として割けたいものです。長い将来を見据えて、きちんと議論して決めていくべき事だと思います。

いま心を痛めている日本国民の皆さんは沢山いる事でしょう。今出来る事を考えている人も沢山いる事でしょう。しかし、復興には時間がかかりますので、その気持ちを10年間持ち続け、今行動するよりもゆっくりと長く行動してあげる事が大切な気がしています。一年後に被災地に旅行に行き、お金を落としてくる事でも良いと思いますし、毎年少しでも募金したり、物資を送る事でも良いともいます。仮設住宅は3年とか5年とかあると思います。駅前で歌を歌っている人は毎年その仮設住宅に歌いにいってあげて下さい。陶芸が得意な人は自分で作った陶器を渡しに被災地を何度も訪れてあげて下さい。僕は仮設住宅のあり方や、復興時の町づくりに対して関わっていければと思います。

そして、いつか自分が被災するかもしれません。そのときに備えて毎日を生きる必用があることを実感しました。正確な情報を早く得る方法を確保しないといけません。
情報によってどういった行動をするべきか判断ができる事と思います。また、地震が起こってから買いだめをするのではなく、水や食料は日々備蓄をしておくことが重要だと皆が痛感した事でしょう。都会でも隣の人と挨拶をしたりして、つながりを持つ事も必用だと感じました。仮に被災した場合において「誰がいなくなった」とか、「あの人は腰が不自由だからはやくこちらに移動しなくては」とか、「あの人はこんな特技を持っている」といったような情報が救助に役に立つ事でしょう。

もう少ししたら東京もいつもと変わらない慌ただしい生活があっという間に復活してくる事でしょう。しかし今、感じているこの気持ちをずっと忘れないでいる事が何よりも重要だと思います。





著者のプロフィールや、近況など。


岡村裕次(おかむらゆうじ)

1973年三重県生まれ
建築家(建築設計事務所TKO-M.architectsを主宰)
ウエブサイト  TKO-M.architects
建築がもつ不自由さが気に入っていながら美術の自由さに憧れるそんな矛盾した建築家です。

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