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米松の大径木
TEXT & ILLUSTRATION 岡村裕次
「抽象化の方向」
美術で行われて来た抽象化が建築でも行われています

建築というのものはどうしたってそこに存在し、移動不可能なきわめて実体的な「もの」である事から逃げる事は出来ません。それゆえ建築は左右対称の建造物を造る事で安定的な平和を象徴したり(国会議事堂とか)、お城のように基檀を作って権威の象徴として作られてきました。また、動かないため建っている場所独自の特徴を如何に取り込んで表現するのか?というのは建築表現においての主題となりうるものでした。
しかし前回取り上げたファサード建築は単なるロゴや商品写真が大きく貼付けられた看板建築でもなく、場所性を表現するものでもありませんでした。ファサードに用いるイメージは極力抽象化されて表現されており、見る角度や天候によって見え方が変わるような工夫がされています。つまり建築がもつイメージがわかりやすく一義的にならないようにしているのです。価値観が多様化し、流行がめまぐるしく変化する社会において建築が限定的意味付けしかできないのであれば長生きできるはずが無いという訳なのです。

そこでいろいろな読み取りができるように抽象化した表現は長く存在する建築にとって重要なポイントであることは間違いありません。では建築家はその抽象化を具体的にどのように試みて実現しているのかを考察してみたいと思います。

まずはプリッカー賞を受賞したSANAA(妹島和世+西沢立衛)の「金沢21世紀美術館」を見てみましょう。
妹島建築は基本的に内部壁・天井などを白に塗りつぶし素材感を無くしています。装飾を排除し、異素材がぶつかる部分の納まりをなるべく複雑にならないようにシンプルにし、ノイズとならないよう細心の注意を払っています。もちろん照明や空調の吹出口もノイズなので配置は注意深く決められています。色や素材がもつのイメージは漂白され、空間の構成やプロポーションを重視しているのでしょう。外壁においてはガラスが多用され、周辺環境をガラスに映し込む事で建築の輪郭が曖昧になるように意図しています。季節や時刻によって景色が変わればそれを映す建築も刻々と変化するわけです。ここでは建築が持っている権威的・固定的なイメージの定着が回避されています。更にガラスが曲面であれば映り込む景色が複雑になり、より抽象化出来ると考えたのか最近の建築では曲率を変えながら抽象度を模索しているように感じます。最後にもう一つ重要な点があります。床と地面の距離です。一般的な建物は地面より床の高さが50センチほど高くなっており、内と外の視点高さが変わるのでよりその差異が強調されてしまいます。また、外観上では基礎の輪郭がぐるっと回っている事で地面に建築が固定されている印象を受けます。それが妹島建築では内と外の高さ差が極力縮められ、内部にいても地面が繋がって外部にいるような印象を受けるのです。つまり内と外との差異を極力曖昧にしたいのでしょう。更には基礎の立ち上がりがないかのように見せる工夫を行い、「ぽんっ」と地面の上に建物が置かれているような印象を与えます。まるで土地に固定されておらず移動可能であるかのような佇まいが演出されているのです。

次に前回のファサード建築で取り上げました青木淳の「青森県立美術館」を見てみますと、同じ白い壁でも妹島建築全く違っています。壁はレンガ(赤色)でできており、白く塗りつぶされています。遠くから見ると単なる白い壁で妹島建築と同じなのですが近くで見るとレンガの素材感を強く感じます。つまり見る位置によって与える印象が変化するように意図されているのです。そのレンガも通常のように下から積まれているのではなく、上から吊られている事やわざわざ赤色レンガを白く塗る事などから表現としてレンガである事にこだわっている様子がうかがえます。まるで古いレンガ建築を再利用し、白く塗りつぶしたかのような手つきを新築でわざわざ表現しているようなのです。内部でも同様の手つきを感じる事が出来ます。例えば露出している柱の一部だけに彫刻が施されており、それが白く塗られていました。これもどういった意図で装飾されているのかは不明なのですが、何かを深読みさせるように挑発がされているのか、それとも特に意味はないのかいろいろと考えられる仕掛けがあちこちに沢山あるという不思議なものでした。

共通する点もあります。正面性(建築の権威性)の否定が両方ともされているのです。正面入口が特に設定されておらず、どこからでも入って来れるような工夫がプランニングで行われています。そしてかっこいい外観写真ポイントが特に設定されておらず、どの外壁面も等価に扱っている事が「金沢21世紀美術館」の正円形の平面図からも理解できます。

しかし、こうして二人の作品を比べると抽象化の方向が微妙に違うことのほうが気になります。妹島建築ではピュアで透明、まるで交換可能な佇まいを見せる方向性が抽象化のようです。一方青木建築では意味を一元化させないで重複化させて行くことで、一義的に解釈されることを回避し、それが結果的に抽象化に繋がる事を目指しているように感じました。

ご存知のように表現を極力抽象化してから作品にする手法は美術分野で「ミニマリズム」等で長い間模索され続けていますよね。きっと建築家もその手法は大いに参考にしている事でしょう。例えば美術作家であるカール・アンドレは作品で「床面に置いた金属プレートを展示される空間によって配置を変化させる」という物があります。この手法は作品に場所性さえも取り入れられるような工夫がされており建築家にとっても何らかのヒントを与えてくれる事柄なのかも知れません。

このように抽象化する事でより建築は多様に解釈されていくはずです。何か強いメッセージ(アッパーカット)を声高に発するのではなく、どんな価値観を持った人々にも受け入れられるようにして中に入ってもらい、その建築空間を経験する中で小さなメッセージ(ボディブロー)を確実に伝えようとしているのです。

建築界を引っ張っている二人の建築家(ユニット)による抽象化の手法は微妙に違いますが、同じ方向を見ながら新しい建築の表現を生み出そうとしていることが理解できるのではないかと思います。そういった視点でもう一度身近な現代建築を見直してみると面白いかもしれませんよ。


著者のプロフィールや、近況など。

岡村裕次(おかむらゆうじ)

1973年三重県生まれ
建築家(建築設計事務所TKO-M.architectsを主宰)
ウエブサイト  TKO-M.architects
建築がもつ不自由さが気に入っていながら美術の自由さに憧れるそんな矛盾した建築家です。

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