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TEXT 福田末度加/u-nit

随筆ユニットu-nitが出会った[unit]と[〜ist]。

*unit/[名]1個, 1人, (独立した)集団, 一団、(全体を構成する)構成単位、(特定の機能をもつ)設備, 器具, 装置;設備一式
*〜ist/[接尾] …する人

アーティスト 久保田弘成


2010年1月、幸運な流れで作品としての久保田弘成に出会う前に、「久保田弘成」と対話をする機会を得た。
独力で竹林の竹を一掃し建設した「久保田組スタジオ」。「日常/場違い」展でのパフォーマンス。アーティストトーク。ブログ。いきつけのカフェ。
様々な場所での久保田弘成は、いつでも「久保田弘成」だ。


 
久保田組スタジオ」を訪れて

美術大学を放り出されて「作家」を目指す若手の多くは、ある瞬間に憤ります。
造ることと生活が乖離するからです。
造ることは、彼らにご飯を与えてくれません。
彼らは手段を知らないのです。どうしたら生きることと造ることを両立させる事が出来るのか。

いつまでも学生でいたい。それが、「作家」達の本音でしょう。造る時間と場所と仲間を与えられて、守られているからです。
卒業後、仲間同士で大学付近にアトリエを構え、仲間同士で批評しあい、そして仕事に戻ってゆく。
いつまでも大学と繋がっていたいという切ない思いがそうさせ、それも満足ならばひとつの形でしょう。
しかし、美術大学OBによるアーティストランスペースにおいて、維持に困難をきたし、あるいは学生同士の溜まり場となり、あるいは維持に比重をおくために、立ち上げ当初のコンセプトを見失ってしまう…そういう場所は少なくありません。

作家、久保田弘成の運営する久保田組スタジオのありかたが、上記のようなスタンスだったら、私は彼について書こうと思ったでしょうか。

久保田氏の作品に魅せられるより以前に、私は彼に魅せられました。
それは、彼が「造ることと生きること」そしてなにより「伝えること」に対して、どれだけ切実な問題かを認識しているかが、彼の活動や発言から感じられたからにほかなりません。

「もっと表にでるべきだ。伝える努力をすべきだ」と彼は言います。

久保田氏は美術大学を出てからしばらくは配管工の仕事をしていたと言います。
彼の発言と佇まい、そして作品のひとつひとつが、現実を見据え、説得力のあるものになっているのは、彼の経験に根ざしたものだからなのでしょう。
作品を造りたいという憤りはあったそうですが、まず彼のように巨大な作品を造るには、場所も費用もかかる。
「久保田組スタジオ」も、最初は自分の造る場所が欲しくて、自ら地盤を造るところから造りあげたそうです。

彼が助成金を受け、海外でレジデンスを行ってゆくのは、卒業後しばらくしてから。
自分があまり使わなくなって、久保田氏のスタジオは久保田組スタジオとして、アトリエを求める作家に貸すようになったといいます。

さらに彼は数々の渡航経験から、日本と海外のアーティストに対する国の佇まいの違いを認識し、久保田組スタジオも制作場所を求める若手のアーティストのための場所になれば良いとも言います。
例えばフィンランドですと、アーティストの為の滞在場所、スタジオが充実しているそうです。アーティストはたとえ作品を制作しなくなっても、そこに居続ける事が出来るのだそうです。

「極東ドローイング展」

作品を売るという事に対しても、久保田氏は切実です。
お金も、作る場所も無かった20代の経験によるものなのでしょう。
だから彼はドローイングを売る事に対して、ためらいはありません。
「純粋」を求める作家からは、つまはじきにされそうな事も、彼は堂々と言ってのけます。
「ドローイングを買え(買ってください)」(久保田弘成ブログより)
資金源は大事だ。と彼は言います。パワーの源が大事だ と。

彼の源は一体どこにあるのか。

「日常場違い展」でのパフォーマンス

「漢」と書いて「おとこ」。久保田氏に最初にお会いしたときの印象でした。
そして、神奈川県県民ホールで行われた「日常場違い展」で行われた車回しのパフォーマンスは、まさに久保田氏の印象そのものが実直に体現されていました。

酒とタバコと演歌にのせて、彼はバイクを運転する仕草をみせます。
そのクドいまでの「渋い日本の「漢(おとこ)」が繰り出す諸行のパワーの至る所が、串刺しにされた車が無様にぐるぐるとまわる  だけ の無常。
しかしそこに虚しさは漂いません。
「おれの知った事ではない」と言わんばかりに、車は千切れてどこかへ飛んでいってしまうのではないかと心配になるくらいに、容赦なく回転させられます。
どこか「乱暴」な振る舞いは こわい とも感してしまいます。それは、男性の「力」に対するある種の暴力の可能性でもあるからかもしれません。
しかし、それを吹き飛ばすしつこい「漢(おとこ)」臭さは、絶妙なユーモアを漂わせるのです。

酒とタバコと演歌の三点セットで行われるこのパフォーマンスは、修了制作として発表されて以来、彼がレジデンスを行ってきた各国で車種を変えて行われてきたものです。
このパフォーマンスは、日本と海外ではお客さんのリアクションが全然違うと久保田氏はいいます。
日本だとこのパフォーマンスは「まつり」で、車は神様だってわかって貰えるけど、例えばドイツでは『何で車まわすんだ』とか『あれは乗れないのか』とよく聞かれるそうです。アートの中の記号のツールとして見ていて、アミニズムを理解できない。ですがアイルランドだと、自然崇拝が盛んなので通じるのだそうです。

「まつる」行為はモノの中に魂を見出し、崇め祈る行為です。そして「祭」は荒ぶる魂のエネルギーの発散であり、一年日常を幸福に生きるために必要不可欠な儀式です。
展覧会やギャラリーが、「アーティストやその周辺のコミュニティのためだけのおまつり」になる事態は避けねばなりませんが、
芸術行為そのものは、何より日常に絶えうる為に必要なある種の「祭」の要因があることは間違いありません。



彼の作品の根幹にある「祭と祈り」の要素。それは同じく「日常/場違い展」に出品されていた、一目で長野の「御柱祭」を想起させる<性神式>にも見出すことができます。
久保田氏は長野県の出身です。御柱もそうですが、彼の地元の博物館では、男根の造形を隅っこに追いやっているそうです。なんで堂々と展示しないんだ。ご先祖を否定するなという気持ちがあって、彼はドローイングやレジデンスに行った先で制作する木彫で男根を造っているそうです。
さらに彼は、「育った地元には廃車が沢山捨てられていて、廃車が風景の一部みたいになっていた。今の作品のモチーフは育って染み付いたものが自然にでているのだと思う」といいます。
また、彼は男性性は全く意識していなく、自然にそうなってしまうのだそうです。
作品やパフォーマンスに漂う「日本男子」のイメージ。しかし彼は海外ウケを狙って「日本男子」を演出しているのでは決してないでしょう。
作品であれほどのユーモアを体現しながらも、数々の渡航を経た彼自身は、たいへん真面目で知的な人という印象を受けました。
だからこそ、彼の源であり表現されるのは「日本文化」ではなく「自分文化」の自然なあらわれなのでしょう。

「日常/場違い」展全体を通して言える事ですが、「真面目で深刻な」作品よりも、「真面目に不真面目をまじめにやる」作品が主を占めてきているように思えます。
こと、久保田弘成、泉太郎、木村太陽の作品をみていると、観客に苦笑いさせながらも、許してしまえる可愛らしさを表層しています。
「難解」と考えられがちな「現代美術」や批評、暗い世相に対して、彼らがどれだけ切実に絶望したのかと思わされてしまします。だからこその「ストイックなゆるさ」によって、きちんと観客とコミットしようとしているのかもしれない。それはなによりも、自分が作り続けてゆくために、そのモチベーションを支えてくれるのは他でもない観客「愛好者(ファン)」であると理解しているからかもしれません。

造るための祈りと、伝えるための源

芸術に魅せられて造らざるを得ない人間、芸術でしか他者とコミットできない人間は確実に存在しています。
元来造る喜びであるはずの表現行為。ですが多くの芸術家は、制作の場がない、発表の場がない、評価されない、売れない、ことにより、いずれその衝動を抑制し、あるいは絶望してゆきます。

造りたい、造り続けたい、それをみてほしい という欲求は、ある種エゴイスティックな衝動です。
それをなにより自身の為に創造行為を継続させてゆくならば、他者と共益しなければなりません。

して、創造によって共益することを誰よりも望んでいるのは、「造り続けたい」人たちなはずです。
その為に「アーティストの自立。アーティストの社会性」が昨今叫ばれています。

なにより、制作のモチベーション、創造行為を支えてくれるのは、批評家でも美術大学でも教授でもなく、愛好者(ファン)なはずです。

「みんな自分が造ることしか考えていない」
久保田氏のこの言葉はなによりも印象的でした。
誰かに認めて欲しい。必要として欲しい。それはアーティストでなくてもあらゆる人が持つ素直な欲求です。
しかし、発見される事を待っているだけでは、種も蒔いていないのに芽が出てくるのを待っているようなものです。

この苦しみはバルトの一行を思い出させます。
「楽しみながら書くということは私に・・・作者である私に・・・読者の快楽を保障してくれるだろうか。
全然しない。このような読者は私が探さなければならない。<ハント>しなければならない」
 「どこにいるのかもしらずに 」(テクストの快楽 ロラン・バルト)

「何故アーティストは貧乏なのか」という本もありました。
日本の美術のあり方に、憤りを感じている「造りたい人」は決して少なくありません。

愛好者になって欲しい。作品をみてほしい。買ってほしい。
その為には、アーティスト自身が誰かのファンであるべきですし、作品を見、買うべきです。
 そして、自らの居場所は自らで獲得していかなくてはなりませんし、自らの居場所を要求するならば、他者に対して同じように振舞うべきです。
伝わる言葉を選ぶべきですし、優しさを求めるならば優しさを与えるべきです。

 

 

 

久保田氏は「久保田組スタジオ」以外でも、NPO法人『創造エンジン』でアートアドバイザーを勤めています。
NPO法人『創造エンジン』は2003年活動開始し、東大和市に拠点をおきながら、市民参加映画「人生ごっこ!?」の制作、
レジデンス形式の野外芸術祭「Art Plant」等、創造と地域のつながりによって、アーティストの活動と街づくりを支援している団体です。

久保田氏の様々な佇まいは、自らのエネルギーをいろいろな形で他者に与えているかのようです。
造形、パフォーマンス、『創造エンジン』との関わり、「久保田組スタジオ」。久保田氏のやり方で、久保田氏にしかできない他者との関わりを様々な行為で体現化し、それが何より久保田弘成個人という彼の源、「オリジナル」なのでしょう。

久保田氏は今度、北九州で漁船を 回すそうです。
演歌とタバコと酒と共に。
久保田弘成と、彼の作品の圧倒的な「エネルギー」と、それに内在する「美術芸術は現状を変革するパワーを持っているはずだ」という、祈りと共に。

著者プロフィールや、近況など。

u-nit
メンバーを固定せず、アイデア、プロジェクトを編成を変えながらオーガナイズしてゆくUntituled(無題の)アートユニット。peererには随筆ユニットとして寄稿。
http://untituled.web.fc2.com/

福田末度加(ふくだまどか)
女子美術大学卒業。
http://48699684.web.fc2.com/

藤江寛司(ふじえひろし)
1983年北海道生まれ
国分寺在住




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