このところ埼玉県立近代美術館の
「日本の70年代 1968−1982」展で横尾忠則の作品を見たり、SCAI THE BATHHOUSEで
「横尾忠則 −葬館 豊島へ−」を見たり、神戸で
「横尾忠則現代美術館」の開館が間近かだったり、加えて横尾忠則の自画像が、草間彌生や杉本博司とともにウフィツィ美術館のコレクションに加わったり(
「ウフィツィ美術館自画像コレクション」展)、目立たないが、なぜか横尾忠則に纏わる事柄が多いように思う。こんなことから横尾忠則について気になり始めた。残念ながらこれまであまり見てなかったので、全貌を把握しきれないが、知れば知るほど書きたくさせるアーティストだ。発想が驚くほど広範囲にわたり作品が面白いからである。そんなことで気の付くままに書くことにした。
1.デザインの世界へ
横尾忠則は1936年兵庫県生まれ、3歳のときに養子に行った先が父の兄のところ、染物業を営んでいた。子供のときから絵が上手で高校時代は学生コンクールによく入賞したそうである。高校卒業後デザインの世界に入る。1960年には上京して日本デザインセンターに就職。当時のデザイン界は人間性よりも機能を重んじたモダニズム全盛の時代だったそうで、若い横尾はその流れにならおうとするが、モダニズムの摂取に違和感を持っていた。当時横尾に最も刺激を与えたのはポップアートだった。アンディ・ウォーホルのマリリン・モンローやコカコーラの作品、リキテンシュタインの網点の漫画など大衆文化を取り込んだ考えに驚愕、衝撃を感じこの流れに触発されていった。
オリンピックの64年と65年あたりを境にして、デザイン分野ではモダンデザインへの根本的な問い直しが始まってくる。横尾が独自のスタイルを強く打ち出してくるのは、まさにそういうタイミングだった。60年代後半には横尾のデザインが一世を風靡する。横尾は、「モダニズム先行型のデザインから大転換するんだけど、不思議なことにポップアートが僕の中の前近代性、プレモダンを誘発することになった」、と。反モダニズムの立場をとりながら前近代性、主として歴史上知られた作品、物語などを取り入れていく。この中で数々の傑作が生まれる。
1965年の《バラ色ダンス》は、フォンテーヌブロー派の有名な作品
《ガブリエル・デストレ姉妹》、一人の女性が相手の乳首をつまんでいる作品を引用したポスターである。デストレ姉妹の活用、北斎の波形、新幹線などが登場する。同年の《ペルソナ》は、横尾自身の首つりのポスターである。ここには横尾の1歳半頃の写真も載っている。横尾独特の「生」と「死」を同一画面に表現する典型のようだ。その後の作品も埼玉の美術館で見た。全貌して、前近代性の取り込み、シュルレアリスムのデペイズマン(異和を生じさせる=意外性)の活用、色彩の素晴らしさなど発見があった。