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美術散歩


「イ・ブル展」で輝く作品群を見る

TEXT 菅原義之

 
 森美術館で「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」(2.4〜5.27)が開催されている。イ・ブルは妻有トリエンナーレ2000や東京都現代美術館の「トランスフォーメーション」展で作品を見てきたが、あくまでも一部だった。今回はイ・ブルの個展であり、これまでの活躍の多くを見ることができた。イ・ブルは1964年生まれ。当時の韓国は軍事政権下で長い間の激しい抗争の末87年に初めて民主化が実現。同時に男性支配の社会から脱して女性の地位が認められたとのこと。イ・ブルはこの民主化実現とほとんど時を同じくして作品を発表しはじめたそうである。作品の根底に流れているものは「これまでの体制を超克しようとする意志」と「イ・ブルの希求する願い」が込められているように思えた。まさにイ・ブルの20年にわたる活躍の軌跡を物語っていた。
《切望》1989 年 屋外パフォーマンス、長興(チャンフン)、韓国

 
 展示会場に入って始めに目に入ったのは、天井から吊るされたいくつかのソフト・スカルプチャーとそれを着用したイ・ブル自身の出演する記録画像だった。ソフト・スカルプチャーたるや人の手足が何本も付いた不思議な作品である。率直に言って不気味、なぜこんなものをと思うが、長期間にわたる軍事体制化下、イ・ブルにとっては不条理の極みをいやというほど見せつけられてきたのであろう。不気味なソフトスカルプチャーをまとう姿はこれまでの体制をのろい、自身の身体をかけて乗り越えようとする願いが込められているようだ。その後身体から独立した彫刻《モンスター》や鮮魚が徐々に腐敗していく映像《壮麗な輝き》など旧体制の崩壊と新体制の躍進を皮肉を交えて表現しているように思える。


 
 この頃から「サイボーグ」シリーズと「アナグラム」シリーズが発表される。両者は大きな室内に天井から何点も吊り下げられていた。サイボーグは、生命体に本来の器官の代わりとなる機器を移植した結合体、アナグラムは、単語または文中の文字をいくつか入れ替えることによって全く別の意味にする遊びである。身体的表現を使ってきたイ・ブルの精神が身体から抜け出てサイボーグになったり、アナグラムのように新たな物体に移行したということだろう。サイボーグは、頭部や手足のない不完全な形だがなぜか人体の一部のようでもある。アナグラムは、関節がさまざまつなぎあわされ、人間を超越した未来の生命体のようにも見える。これ等は人間の象徴的な姿、あるいは究極の姿を表現しているのかもしれない。バイオテクノロジーの発達はクローンとか遺伝子組み換えをもたらし人間の身体のあり方を人間が制御しようとする時代になっている。イ・ブルは身体あるいは人間そのものを追究しサイボーグとかアナグラムに至ったのかもしれない。

《サイボーグ W1》 1998 年
シリコン、ポリウレタン、塗料用顔料
185 x 56 x 58 cm
所蔵:アートソンジェ・センター、ソウル

 2005年以降イ・ブルの作品は「私の大きな物語」シリーズとしてこれまでのシリーズから都市や建築を思わせるより大きな作品へと変わっていく。理想の社会の追求であろう。ブルーノ・タウトの「アルプス建築」やウラジミール・タトリンの「第三インターナショナル記念塔」など20世紀初頭のユートピア思想を参照した作品の提示である。また、朝鮮半島の霊山で白頭山の頂上近くにあるカルデラ湖をモチーフにした作品も展示。これ等の作品は時代や地域を超えた普遍的価値としての理想社会、幻想風景を提示しているようだ。これらがイ・ブルの希求した世界ではないか。
「ユートピアと幻想風景の一部」
《秘密を共有するもの》(部分)2011年 ステンレススチール、アクリル、ウレタンフォーム、PVCパネル、PVCシート、PET、ビーズ


 
 当初の身体的な作品からタウトやタトリンの理想社会、白頭山の幻想風景を追求した作品などへの変遷を経て、再びイ・ブルは、自分自身を見直すのであろう。「私からあなたへ、私たちだけに」と題した最後のコーナーには新作《秘密を共有するもの》が展示されていた。イ・ブルが今回の個展で振り返ろうとする約20年の仕事やその間の葛藤を共有してきた愛犬をモチーフとして表現している作品である。台座の上の犬が一面ガラス張りの外を向き、その口からは嘔吐物が床一面に広がっている光景である。素材が全てステンレス、アクリル、塩ビパネルなどでできているので光を反射して不気味というより見事に映る。イ・ブルの足跡を端的に物語っているようだった。

 イ・ブルの作品は韓国に関する予備知識なく見ると分かりずらいかもしれない。すぐお隣韓国の民主化実現に至る道のりは日本では到底想像ができないほど厳しいものだったようだ。イ・ブルの作品発表と民主化実現とはほとんど同時だったそうで、その前後を知るイ・ブルにとっては当時の状況を見据え理想社会を希求する願いは想像に絶するものがあったのではないか。このような背景を斟酌しながら見ると作品一つひとつが輝いているように思えた。新作《秘密を共有するもの》は愛犬が都内を全貌する風景とイ・ブルの20年間とがなぜか重なって見えた。見ごたえのある作品群だった。
 
著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、生命保険会社退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室MOMASコレクション作品ガイド)を行う。

ウエブサイト アートの落書き帳

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。


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