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美術散歩


現代につながるか、
「シュルレアリスム展」

TEXT 菅原義之


ポンピドーセンタ―外観(C)読売新聞社


 
 今国立新美術館で「シュルレアリスム展−パリ、ポンピドーセンター所蔵品による−」が開催されている。内容は5つに分かれシュルレアリスムの前史としてのダダの動きから始まり、最後は1966年にまで至っている。ダダイズムから数えると20世紀のほぼ半分を占めたムーブメントだったということができるだろう。それだけに後世への影響も大きかったようだ。
 ダダの運動は第1次世界大戦の最中にスイスのチューリヒで起こり、ほぼ同時にニューヨークでも起こった。戦火を逃れてきた人たちの戦争に対する抗議であろう。文明の発達が戦争を引き起こす結果となった。戦争に対する抗議は文化面にまで及び過去の芸術を破壊して新たなものを想像すべきとの発想につながった。反芸術的な考え方である。ニューヨークではアメリカに渡ったビカピアやデュシャンが中心だったようだ。
シュルレアリスムにはダダのメンバーが多く、これらの人たちは詩人であるアンドレ・ブルトンに同調していったようである。1924年にブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表し、これによりシュルレアリスムはまとまった運動の形をとるようになった。ダダが破壊を旨とし無政府主義であったのに対してシュルレアリスムは理論に基づいた運動だった。
 作品の内容を見てみよう。


撮影者不詳「マルセル・デュシャン」[写真]


 
1、ダダからシュルレアリスムへ 1919−1924
 ダダ、シュルレアリスムというと必ず出てくるのがデ・キリコの作品である。今回も3点が見られた。《ギョーム・アポリネールの予兆的肖像》(1914)。これは美術関係の本によく載っている作品だ。詩人アポリネールはデ・キリコの作品を最初に評価した一人で「シュルレアリスム」という語の生みの親だったそうである。《ある午後のメランコリー》(1913)は、茶色の煙突と白い塔との間を白い煙を出して走る蒸気機関車、黄色い地面とその一部に黒い影、手前の傾斜した台の上に大きな食用アザミだそうだが2つ描かれている。全体から受ける印象は、不穏な様子だろうか、時代の不安を表現しているのだろうか、いかにもキリコらしい作品である。キリコといえば形而上学的絵画とよく言われる。ここで「形而上学的」というのは「・・・特別な哲学体系を意味するものではなく、・・・人間の直感が捉えたものという意味」(近代絵画史−下−、高階秀爾著、中央公論社刊)だそうである。一見現実的な絵画に見えるが何か不思議な雰囲気をたたえている。キリコがここに登場するのはダダからシュルレアリスムへの時代背景を心理的に暗示していたのかもしれない。
 後はデュシャンの《瓶かけ》(1914/1964再制作)があった。《自転車の車輪》(1913)とともにレディーメイドのスタートはこのあたりからであろう。今回の展示にはなかったが、レディーメイドといえばダダイストデュシャンの問題作《泉》(1917)が連想される。過去を破壊するという意味でこんな分かりやすい作品ってあるだろうかと思う。そして現在でも話題になるとは。凄い。


マン・レイ撮影 「アンドレ・ブルトン」 [写真]

 
 

アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』パリ、サジテール刊[書籍]

 
2.ある宣言からもう一つの宣言へ 1924−1929
 アンドレ・ブルトンによる「シュルレアリスム宣言」によって、これまでは考えられなかった「夢」とか「無意識」の世界にまで人間の想像力の範囲が広がったといえるだろう。その後発表される「シュルレアリスムと絵画」の中でブルトンは、「驚きはつねに美しい、驚くべきものはすべて美しい、驚くべきもの以外に美はない」(前掲書、近代絵画史−下−)とシュルレアリスムにおける美学の根本原理を述べている。この「驚き」の世界を創り出す方法が「オートマティスム(自動記述)」、「偶然性の利用」、「デペイズマン(違和を生じさせること)」などであった。
 マン・レイの写真作品《ミシンと雨傘》(1920年頃)2点が展示されていた。台の上にあるミシンとこうもり傘を撮った写真である。「デペイズマン」の例として有名な言葉がある。「解剖台の上でミシンとこうもり傘が偶然出会ったような美しさだ」と言うもの。2点はこの言葉を想定した作品であろう。解剖台の上でミシンとこうもり傘とが出会うとは普通では考えられないこと(デペイズマン=違和を生じさせている)で、これ自身「驚き」であり「驚き」こそ「美」だという。
 作品《甘美な死骸》3点の展示である。《甘美な死骸》って何だろう。これは3人あるいは4人で行うシュルレアリストの遊戯の一つで、一枚の紙を人数分に折りそれぞれが自分のところに他の人の描いたのを見ないで絵または文章を描き(書き)、最後にそれを開いて全体を見る方法。「偶然性創出のため」の一種の遊びだ。この方法による文章の例として知られているものに「甘美な―死骸は―新しい―ワインを―飲むだろう」がある。始めてこのような遊びをした結果上記の文章ができたのでこの種の遊びを名付けて《甘美な死骸》としたそうである。ブルトン、タンギーなど4名で鉛筆、色鉛筆で紙に描いたデッサン《甘美な死骸》(1927年3月7日)が展示されていた。4名が分担した痕跡である紙の折り目もはっきり分かる。何とも言いようのない内容、面白い実験的作品が展示されていた。
 また、アンドレ・マッソンの≪オートマディスムによるデッサン≫(1925−26)。これは紙に墨を使ってオートマティスム(自動記述)による無意識の世界を描いたもの。オートマティスムは、心に思い浮かぶ物事を素早く描き(書き)意志の働かない状態を創り出す方法である。時間との闘いなので一瞬のひらめきが画面に現れる。マッソンの作品には多くの人物めいたもの、顔、手、足のようなもの、全体に見るとよく分からない、不思議なデッサンが出現していた。これこそ無意識の世界だろう。
 ここではシュルレアリスムの「驚き」の世界を創り出すいくつかの方法をもとにした作品が展示されていた。他にもマッソンの《採光窓》(1924)、マグリットの《秘密の分身》、エルンストの《視覚の内部》など印象に残った作品がいくつもあった。面白いコーナーだった。


3.不穏な時代 1929−1939
 シュルレアリスムといえばダリを連想する。ダリの登場である。ダリはやや若かったこともあり29年にシュルレアリストに加わった。ダリの作品《不可視のライオン、馬、眠る女》(1930)が展示されていた。見えないことが特徴かもしれない。頭のないように見えるライオン、こちらを向いているように見える馬、眠る女もいるのか、その他遠くの2人は極度に小さく、やや大きな骨格が見える人物もいる。遠くの風景の異常なほどの綿密さなど全てデペイズマン表現かもしれない。偏執狂的絵画そのものか。不思議な絵画だがなぜか食い入るように見た。また、《部分的幻想:ピアノに出現したレーニンの六つの幻影》(1931)も面白かった。ピアノの鍵盤上にレーニンの顔が6つ出現、楽譜には蟻が群がっている。これも同様デペイズマンと考えることができるだろう。あとマグリットの《赤いモデル》(1935)、アルベルト・ジャコメッティ《喉を切られた女》(1932/40)、ピカソ《横たわる女》(1932)も興味をそそられた。ピカソも一時シュルレアリストと見られた時期があったようである。(図録によると25年以降の10年ほどの時期は「シュルレアリスムの時代」と呼ばれているとのこと)。

4.亡命中のシュルレアリスム 1939−1946
 よく図書で見るマグリットの《凌辱》(1945)。これは女性の胴体部分に髪の毛を乗せ顔を表現している作品である。発想のユニークさ、面白さに「驚き」を感じざるを得ない。いかにもマグリットらしい。また、イヴ・タンギー《岩の窓のある宮殿》(1942)は、一見何が描いてあるか表現しにくい作品である。画面の下の部分に何やらを細かく一面に描いている。デペイズマン表現だろう。細かい詮索より全体が非常に魅力的。色彩と切れのいい表現がもたらしたものだろう。
 あとアンドレ・マッソン《錯綜》(1941)は、前出オートマティスムの方法で描いたマッソンの作品が想起される。絵画で色彩とうねるように描かれた太い線描がやはりオートマティスムを想起させる。小作品ながら魅力的である。ジャクソン・ポロックの《月の女が円を切る》(1943)があった。これは、月の女が包丁を持って人物に切りかかっているような絵画である。動きとか激しさが感じられる。ポロックの初の個展で出されたものだそうである。シュルレアリスムの絵画であろう。ポロックといえばドリッピングが連想されるが、この作品はその前のもの、面白かった。

5.最後のきらめき 1946−1966
 ポール・デルボーの絵画《アクロポリス》(1966)。夜の幻想的風景の中に大勢の女性と裸婦の登場である。よく描く汽車、駅舎はなかったが、静寂な環境の中に動きのない多くの女性の登場、デルボーの特徴がよく出ていた。キリコの絵画を彷彿とさせるようでもあった。デルボーがシュルレアリスムの世界に接したのはかなり遅く30年代半ば頃からだった。シュルレアリスムの絵画に開眼したきっかけはキリコの作品に感銘を受けたからだったそうである。その他マグリットの彫刻《ダヴィッドのレカミエ夫人》(1967)。マグリットの彫刻作品は珍しかったが、ダヴィッドの絵画《レカミエ夫人》を彫刻作品として、しかもベッドの上にヌード姿でいるレカミエ夫人そのものを、折れ曲がった棺に変えて表現している。棺の下からはベッドの布が一部垂れ下がっている。「驚き」である。デペイズマン表現であろう。いかにもマグリットらしい作品だった。

 第2次大戦後、世界の美術の中心はパリからニューヨークに移った。そしてアメリカで抽象表現主義が誕生した。第二次世界大戦中にヨーロッパから移住してきた多くの芸術家たちの影響を受けながら誕生したものであろう。抽象表現主義というとポロックが思い出される。ポロックのシュルレアリスム時代の作品も見ることができた。その後ポロックはドリッピングによるアクションペインティングを始めるが、これはシュルレアリスムの影響を受けつつ「オートマディスム」による無意識の世界に心を委ねてひたすらドリッピングしたのかもしれない。同じ抽象絵画でもカンデンスキーやモンドリアンなどの自然界をベースに見えるものを極限まで還元して制作した作品と異なり、自然界を考えることなくひたすら無意識の中での精神の集中だったのであろう。これまでの考え方を超え新しい世界の創出であろう。
 閑話休題。最近の作品を見ると「発想が素晴らしい」、「面白い」、「ずれの表現」、「遊び心」など感ずるものが多い。シュルレアリスムの作品にも同様に感ずるものが多く見られた。例えば、マグリットの《ダヴィットのレカミエ夫人》。これなど一種のアプロプリエーション作品といっていいかもしれない。ほかに《甘美な死骸》、これも偶然性創出のための遊びとして発想が面白い。ダリの《不可視のライオン、馬、眠る女》の遠景の異常なまでの綿密な描写、背後にいる人物の異常なまでの小さい描写はなぜか「ずれの表現」を感じた。まだまだあるが、これらは現代にもそのまま通じるのではないかとすら思える。こう考えるとシュルレアリスムは何らかの形で現代にまで影響しているといってもいいのかもしれない。あるいは近代と現代とをつなぐ重要なジョイント役を果たしているのかもしれない。
 多くの作品を見ることにより自分ながらシュルレアリスムについてある程度整理できたように思えた。このような意味で収穫があり素晴らしい展覧会だった。

 
著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、生命保険会社退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室MOMASコレクション作品ガイド)を行う。

ウエブサイト アートの落書き帳

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。


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