3.不穏な時代 1929−1939
シュルレアリスムといえばダリを連想する。ダリの登場である。ダリはやや若かったこともあり29年にシュルレアリストに加わった。ダリの作品《不可視のライオン、馬、眠る女》(1930)が展示されていた。見えないことが特徴かもしれない。頭のないように見えるライオン、こちらを向いているように見える馬、眠る女もいるのか、その他遠くの2人は極度に小さく、やや大きな骨格が見える人物もいる。遠くの風景の異常なほどの綿密さなど全てデペイズマン表現かもしれない。偏執狂的絵画そのものか。不思議な絵画だがなぜか食い入るように見た。また、《部分的幻想:ピアノに出現したレーニンの六つの幻影》(1931)も面白かった。ピアノの鍵盤上にレーニンの顔が6つ出現、楽譜には蟻が群がっている。これも同様デペイズマンと考えることができるだろう。あとマグリットの《赤いモデル》(1935)、アルベルト・ジャコメッティ《喉を切られた女》(1932/40)、ピカソ《横たわる女》(1932)も興味をそそられた。ピカソも一時シュルレアリストと見られた時期があったようである。(図録によると25年以降の10年ほどの時期は「シュルレアリスムの時代」と呼ばれているとのこと)。
4.亡命中のシュルレアリスム 1939−1946
よく図書で見るマグリットの《凌辱》(1945)。これは女性の胴体部分に髪の毛を乗せ顔を表現している作品である。発想のユニークさ、面白さに「驚き」を感じざるを得ない。いかにもマグリットらしい。また、イヴ・タンギー《岩の窓のある宮殿》(1942)は、一見何が描いてあるか表現しにくい作品である。画面の下の部分に何やらを細かく一面に描いている。デペイズマン表現だろう。細かい詮索より全体が非常に魅力的。色彩と切れのいい表現がもたらしたものだろう。
あとアンドレ・マッソン《錯綜》(1941)は、前出オートマティスムの方法で描いたマッソンの作品が想起される。絵画で色彩とうねるように描かれた太い線描がやはりオートマティスムを想起させる。小作品ながら魅力的である。ジャクソン・ポロックの《月の女が円を切る》(1943)があった。これは、月の女が包丁を持って人物に切りかかっているような絵画である。動きとか激しさが感じられる。ポロックの初の個展で出されたものだそうである。シュルレアリスムの絵画であろう。ポロックといえばドリッピングが連想されるが、この作品はその前のもの、面白かった。
5.最後のきらめき 1946−1966
ポール・デルボーの絵画《アクロポリス》(1966)。夜の幻想的風景の中に大勢の女性と裸婦の登場である。よく描く汽車、駅舎はなかったが、静寂な環境の中に動きのない多くの女性の登場、デルボーの特徴がよく出ていた。キリコの絵画を彷彿とさせるようでもあった。デルボーがシュルレアリスムの世界に接したのはかなり遅く30年代半ば頃からだった。シュルレアリスムの絵画に開眼したきっかけはキリコの作品に感銘を受けたからだったそうである。その他マグリットの彫刻《ダヴィッドのレカミエ夫人》(1967)。マグリットの彫刻作品は珍しかったが、ダヴィッドの絵画《レカミエ夫人》を彫刻作品として、しかもベッドの上にヌード姿でいるレカミエ夫人そのものを、折れ曲がった棺に変えて表現している。棺の下からはベッドの布が一部垂れ下がっている。「驚き」である。デペイズマン表現であろう。いかにもマグリットらしい作品だった。
第2次大戦後、世界の美術の中心はパリからニューヨークに移った。そしてアメリカで抽象表現主義が誕生した。第二次世界大戦中にヨーロッパから移住してきた多くの芸術家たちの影響を受けながら誕生したものであろう。抽象表現主義というとポロックが思い出される。ポロックのシュルレアリスム時代の作品も見ることができた。その後ポロックはドリッピングによるアクションペインティングを始めるが、これはシュルレアリスムの影響を受けつつ「オートマディスム」による無意識の世界に心を委ねてひたすらドリッピングしたのかもしれない。同じ抽象絵画でもカンデンスキーやモンドリアンなどの自然界をベースに見えるものを極限まで還元して制作した作品と異なり、自然界を考えることなくひたすら無意識の中での精神の集中だったのであろう。これまでの考え方を超え新しい世界の創出であろう。
閑話休題。最近の作品を見ると「発想が素晴らしい」、「面白い」、「ずれの表現」、「遊び心」など感ずるものが多い。シュルレアリスムの作品にも同様に感ずるものが多く見られた。例えば、マグリットの《ダヴィットのレカミエ夫人》。これなど一種のアプロプリエーション作品といっていいかもしれない。ほかに《甘美な死骸》、これも偶然性創出のための遊びとして発想が面白い。ダリの《不可視のライオン、馬、眠る女》の遠景の異常なまでの綿密な描写、背後にいる人物の異常なまでの小さい描写はなぜか「ずれの表現」を感じた。まだまだあるが、これらは現代にもそのまま通じるのではないかとすら思える。こう考えるとシュルレアリスムは何らかの形で現代にまで影響しているといってもいいのかもしれない。あるいは近代と現代とをつなぐ重要なジョイント役を果たしているのかもしれない。
多くの作品を見ることにより自分ながらシュルレアリスムについてある程度整理できたように思えた。このような意味で収穫があり素晴らしい展覧会だった。