草間彌生 4会場送迎用の車


塩田千春《不在との対話》
courtesy of the artist
撮影:福永一夫


トム・フリードマン《Untitled》2004
Courtesy of Tomio Koyama Gallery |
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「あいちトリエンナーレ」の特徴は、世界的に有名な日本のアーティスト草間彌生と外国のアーティスト蔡國強とがメインで組み立てられているように思えた。草間彌生の作品は市内4会場の送迎用車のデザインほか、「愛知芸術文化センター」内に3か所、「愛知芸術文化センター」に隣接する「オアシス21」に1か所など広い範囲で見られた。蔡國強は火薬を使った大作2点がメイン会場である「愛知芸術文化センター」内の大きな部屋に展示されていた。
「名古屋市美術館」の開館は9時30分。ここから見始めた。注意を引いたのは
塩田千春(1972〜)。巨大な白いドレスとドレスに絡むように走る無数の赤い液体の入った透明な管(くだ)。しかも赤い液体が循環している。全身を走る血管のようだ。血管のむき出しは直接的過ぎ、やや不気味だが、巨大な白いドレスとドレスすべてに絡むように走る血管から迫力、活力が感じられた。
面白かったのは
トム・フリードマン(1965〜)と
島袋道浩(1969〜)。トムの作品は、ごくありふれた日常目にするもの、たとえば消しゴムのかす、排せつ物、発泡スチロールなどを使って思いも寄らない作品を制作する。水玉模様だけで人物像を描いたり、綿で制作した雲が浮いていたりユーモアを喚起するものだった。島袋はスライド作品が面白かった。知多半島の先端にある篠島での観察からある場面を写真に切り取る。一見何の変哲もない島の様子だが、よく見ると幾何学的に物の置かれた様子だったり、変わった色彩表現を捉えたり、面白い造形を撮ったりするなど1点1点が凄く面白い。発想の良さに感心した。
奇麗で見事だった2点。1点は
ジェラティン(4人のアーティスト集団)である。係員による実験が行われていた。広い室内の天井3か所から床に光が当たり、床にはグリッター(光沢ある微細な紙片状のもの)が撒かれている。天井からの白色光照明によりなぜかこれが虹色に輝く。実験ではこれをかき集め、容器に入れ一気に部屋に撒く。グリッターが部屋の中に飛び散り、床が虹色に輝く。タイミングよくこれが見られた。遊び心のある作品だろう。
黄世傑(ホアン・スー・チエ)(1975〜)は、日常品を素材にしているようだが日常品からは想像できない電気仕掛けによる色彩豊かな作品を制作する。暗い室内の床上あるいは空間に赤、青、緑の数々の動きのある立体物が置かれたり浮遊したりしている。柔軟な照明器具のようでもある。個々に変形を重ねながら光り輝く光景に引き込まれる。
黄世傑(ホアン・スー・チエ )《HYC-2010》2010
courtesy of the artist 撮影:福永一夫 |
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草間彌生 ≪真夜中に咲く花≫

ハンス・オプ・デ・ビーク《Staging Silence》2009
Courtesy of Galleria Continua, San Gimignano - Beijing - Le Moulin

張●(ジャン・ホァン)《ヒーロー No. 2》2009
撮影:福永一夫

三沢厚彦 《Animal 2007-03》直立する大熊

フィロズ・マハムド《Sucker' wfp21》 2009 - 2010
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「あいち芸術文化センター」ではファサードに草間の水玉模様をデザインした車が展示されていた。トリエンナーレの象徴的存在かもしれない。見た瞬間会場へと心は逸った。
10階からだった。最初に目に飛び込んできたのは、
草間彌生(1929〜)の素晴らしい花の彫刻≪真夜中に咲く花≫2点である。越後妻有トリエンナーレの戸外にある大きな作品を思い出す。その他この会場内には
蔡國強(ツァイ・グオチャン)(1957〜)の素晴らしい大作が。火薬で制作した巨大な絵画、≪美人魚≫、≪晝夜≫である。いずれも女性像が素晴らしい。大きさ、姿などよくも火薬でここまでと思わせるほどだ。制作プロセスを写した映像を見ると大きな女性像の型紙を使ったり、切り抜いた女性像に火薬を巻いたり、最後に点火するなどかなり緻密に制作されている様子が分かった。
その他にも面白い作品があった。映像では
ハンス・オプ・デ・ビーク(1969〜)。ミニチュアを使って次々にいろいろな場面を表現する。椅子やテーブルを一つひとつ使って仕上げたかと思うと立木の並ぶ野原を制作するなど一場面ができるとすぐほかの場面に切り替わり観客を飽きさせない。アーティストの腕が見えるなど制作過程も映りミニチュアだと分かる。アーティストの過去の記憶をミニチュア作品に置き換えたのか。面白い。多くの人たちの目を捉えていた。
ヤコブ・キルケゴール(1975〜)の映像作品。これはオマーンの砂漠で撮影したものだそうだ。吹きさらしの砂漠で絶えず変化する砂の造形の素晴らしさを撮影している。その美しさと変化の凄さに引き込まれ、なぜか見てしまった。目立たないが音の効果も素晴らしい。
曾建華(ツァン・キンワ)(1976〜)の作品は、暗い床に白字?の英語の短いテキストが映像として流れる。床の一部から流れ始め、次第にあちこちから出現し、最後には床一面に流れる。増える途上、中にいる観客にもテキストが流れ身体を走り回る。なぜかこれが人に絡みつくようで奇麗だ。内容は現代社会の問題をえぐり出しているように思えた。
ティム・エッチェルス(1962〜)
&ヴラトゥカ・ホルヴァ(1974〜)という男女2人によるパフォーマンスが行われていた。四角いテーブルを中心に両者が対面するように座って双方見つめ合っている。一人が片手をテーブルに置くと相手も同様に手を置く。手のひらを裏返す。相手もそうする。戻して次は両手を置く。相手もそうする。両手を裏返す。このような動作を繰り返しながら次第に動作が速まる。素早い動作は見事そのもの。最後にはまるでリズミカルな音楽を奏でているようだ。単純な動作に思えるが素晴らしい。アイディアのなせる業。意気投合し見事なパフォ−マンスだった。
立体作品で目立ったのは、
張●(ジャン・ホァン)(1965〜)の≪Hero No.2≫。白と黒?の牛皮で作った人物の巨大なぬいぐるみ作品か。足を投げ出している。大きさ、色彩、皮のつぎはぎなど全体の形相から不気味な感じ。このアーティストは以前中国で全身蜂蜜を塗り公衆便所で蝿のたかる中、微動だにしないパフォーマンスを展開した。限界への挑戦による体制への抵抗だったのか。今回の作品もやや洗練されているように思うが、巨大さという限界表現を通して無尽蔵な消費社会への抵抗表現かもしれない。
三沢厚彦(1961〜)+
豊嶋秀樹(1971〜)。三沢は木彫、豊嶋は会場の空間構成。三島の実物大の動物彫刻は大小20点、どれもユーモラスで魅力的、迷路を歩くと突然かわいらしい動物に巡り合う。20点は思いもかけないところに展示されていた。迷路のような豊嶋の空間構成も面白い。両者のコラボが素晴らしかった。
フィロズ・マハムド(1974〜)は、バングラディッシュ生まれ。小型戦闘機を制作しその表面を穀物で覆い尽くしているそうである。穀物はバングラディッシュの象徴的生産物のようだ。戦闘機の星が涙を流している。戦争に対する批判であろう。全貌写真を撮りやすいように階段を設けているのは親切だった。アーティストのアイディアか。
宮永愛子(1974〜)は、ナフタリンを使った作品で知られるが、今回は天井から垂れさがる無数の糸に塩の結晶を付着させた作品である。糸はいくつかのグループ別に天井のあちこちから垂れさがる。薄暗い室内でかすかな光が塩の結晶にあたり輝くさまは素晴らしい光景だ。床には一艘の舟が置かれその中にはナフタリン製の靴が何足も。一部崩れ周りのガラスにナフタリンの結晶が付着している。時間の経過が伝わる。舟は塩を運んだ痕跡か。
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渡辺英司+トーマス・A・クラーク&ローリー・クラーク
《蝶瞰図(蝶の名前/名前の蝶)コラボレーションワーク》2010

淺井裕介 ≪室内の森/土の話≫
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「長者町会場」といっても展示場が分散していた。廻ったのは12箇所。ほとんど見たのではないか。最初は企画コンペ(応募作品の中から選抜)の
タムラサトル(1972〜)の作品≪伏見のための接点≫である。手前にある金属製の龍?の置物の前を通電している金属棒が左右に行き来する。行き来する中で龍に接触するとスパークし後ろにある数多くの電球が点灯する仕掛けである。金属棒に視点が集中し左右の行き来と電球の点灯に今か今かと引き込まれる。仕掛けが気になる。面白い。
渡辺英司(1961〜)は、いろいろな蝶を図鑑から切り抜き、室内の天井から白壁まで一面に蝶を立体的に一つづつ取り付ける。蝶の種類によって色彩が異なり白壁に映え見事。実物かと見まがうほどだ。まるで博物館の展示場のよう。同時に蝶を切り抜いた図鑑が何冊も展示されていた。完成までにかかった時間たるやさぞ大変だっただろう、と。
淺井裕介(1981〜)は、何種類かの土や粘土、マスキングテープを使って室内壁面から天井や床まで一面に絵画を描く。タイトルは≪室内の森/土の話≫。一見抽象絵画のような作品である。よく見ると人物、動物、森の中、木々などのイメージを思いっきり描き込んでいるかのよう。全体の色彩は土色か。色彩、構図、室内を取り込んだ表現方法など魅力的な作品だった。一瞬洞窟内で壁画を見ているよう思えた。
「納屋橋会場」。
小金沢健人(1974〜)は、ガラスに絵具を載せその上で筆を走らせ軌跡を映像にしている。広く暗い室内に設置された画面4面がそれぞれ別々な軌跡を示していた。音と筆の軌跡のコラボである。映像にはストーリー性はない。日常の中にあるものを使って「謎めいたもの」や「美しいと思われるもの」を表現しているようだ。そういえば軌跡の瞬間、瞬間が不思議な造形で見事な抽象絵画のように思える。次はどうなるかとなぜか期待させる。なんとなく見てしまった。
池田亮司 ≪spectra[nagoya]≫(下から真上を見たところ)
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「名古屋城」では、幸いにも前出
池田亮司(1966〜)のインスタレーション≪spectra[nagoya]≫が行われていた。名古屋城二の丸広場に設置された64基のサーチライトから強烈な白色光が天空に向かって伸び、同時に周りに設置された10台のスピーカーから何やら音を発している。その奥にはライトアップされた名古屋城の天守閣も見える。素晴らしい光景である。トリエンナーレ期間中2日間しか行われない。ラッキーだった。宣伝が行き届いていたんだろう。大勢の人々が絶えず城内二ノ丸広場に参集していた。大きなイベント会場のようでもあった。
会場が4か所に分かれ、それぞれが近いので見学しやすかった。名古屋城までもそう遠くはなかった。街中には時々トリエンナーレの案内人が立っていて聞くことができた。地図を見ながら歩いている人、街中を走る草間デザインの車やベロタクシーなどトリエンナーレ開催が明らかに読み取れた。道を聞いた人の話では「そういえば、今何かやっているなー」とか、名古屋城の夜の会場風景など名古屋は今静かにトリエンナーレで沸いているような気がした。
芸術監督である建畠氏によると「このトリエンナーレが市民の祝祭であることを目ざしているのも、誰もがそうしたアートの多様性の発見を、街と一体となった会場の中で、喜びを持って分かち合うことを願っているからなのです」と。市内が静かに湧いている様子から芸術監督の意図する考えが成功しているように思えた。
参加アーティストでは草間彌生と蔡國強を除くとほとんどが60年代以降生まれのアーティストだった。作品の傾向として勝手にいくつか挙げてみると、
@「日常生活に関係の深い素材を用いて制作する作品、遊び心、ユーモアを交えた作品」などが多く見られた。トム・フリードマン、島袋道浩、ジェラティン、三沢厚彦+豊嶋秀樹などか
。A「アートと他の分野とにまたがる領域横断型の作品」について、例えば、三沢厚彦+豊嶋秀樹、ヤコブ・キルケゴール、小金沢健人など。後者2人は音楽とか音との競合作品であろう。効果的だった。
B「社会への言及型の作品」では、曾建華、張●、フィロズ・マハムドなどが該当するのではないか。塩田千春、島袋道浩、曾建華、張●、宮永愛子、小金沢健人などは、
C「コンセプチュアルな作品」に思えた。ハンス・オプ・デ・ビークやヤコブ・キルケゴールは、
D「映像でもあまり時間がかからず分かりやすい作品」を制作し映像の良さを巧みに使っていたようだ。
これらが今回の印象だが、あるいは最近の傾向といえるかもしれない。いずれも発想の良さに感心、面白く見ることができた。早くも次期を期したいものである。
※張●(ジャン・ホァン )●=さんずいに亘