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「野村仁」の世界を展望する
TEXT 菅原義之
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国立新美術館にて開催された「 野村仁 変化する相−時・場・身体」展を見た。野村といえばダンボールとドライアイス作品が思い出されるが、今回の展示を見て想像を超える広い範囲に及んでいるのに驚き、大きな変貌ぶりに感動することしばしだった。あまりにもヴァリエーションが多いのですべてをとらえることはできないが、ここではその中で印象に残った作品を見ていきたい。
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野村仁 《Tardiology》1968-1969年
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「物質の相」
入るとすぐ大きな段ボール箱が4段、部屋いっぱいに積み重ねられていた。高さ8メートルの天井ほぼすれすれである。1969年に制作した作品≪Tardiology≫
の再制作である。当時野村は「物」が時間の経過とともに形を変えていく様子を写真に撮り、「重力」や「時間」を目に見える形で表現した。積み重ねたダンボール箱が時間の経過とともに崩れていく様子を撮った当時の写真も展示されていた。1969年といえばまさに「もの派」が登場した頃である。「もの派」は「物」を作品の素材として使うのではなく主役として登場させ、「物」のありようを問うた。野村はもの派とは別の視点から「物」を見たのであろう。この時期もの派と別の視点とは凄い。ドライアイス作品≪Dryice:1969≫も同時期のものであり、時間の経過とともに昇華し形の変わっていく様子が写真で表現されていた。これらは野村の初期の作品であろう。
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「地上の相」
「物」から野村の思考は自分自身のいる「地上」へと進んだ。映像作品≪カメラを手に持ち腕を回す:人物、風景≫(1972)はその一例である。フィルム・カメラを片手に腕を付け根からまわし、カメラの捉える光景を作品にした。可能な限り「地上」を全貌した。カメラの写した映像は思いもよらない周りの風景である。逆さまになったかと思うと別の風景が映るなど瞬時に代わる光景だった。身体と周りの環境(地上)との関係をこんな方法で記録した。カメラがとらえた「地上」の姿は野村の意図を超えたものだったかもしれない。
また、野村は水中に浮遊する微粒子が引き起こす不規則な運動「 ブラウン運動」に注目し、視線の動きも同様と考え「見えるものすべてを写す」運動を実行する。これが膨大な資料となり作品に反映された。この考え方は野村にとって重要なポイントになるようである。
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「天上の相」
「地上」から野村の思考は一見あてどころない「天空」へと発展した。「ブラウン運動」の一つの成果であろう。
太陽や月は時間の経過とともに移動する。野村は太陽や月の動きを追跡してそこに一定の素晴らしい秩序のあることを見出した。月の規則的な動きをとらえ音楽的表現を試みたのである。フィルムに5本の線を写しこんで月を撮影しその動きを音符にした。作品≪'moon'
score≫(1975-79)がそれである。音楽が会場に流れていた。落ち着いた心地よい音楽だった。
また、北緯35度における1年間の太陽の軌跡を可視化した作品が≪北緯35度の太陽≫(1982-87)である。同じ場所から魚眼レンズ付きカメラのシャッターを開放して毎日の動きを撮り1年間続けたものである。すべての写真を光の動線に沿って並べてみると日にちの経過とともに無限大記号∞のようになったのである。夏と冬は円形を描き、春と秋は動きが交差する。全貌すると見事な作品となっていた。 |
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≪アナレンマ≫シリーズもあった。定期的に同じ場所から一定時間に太陽の位置を1年間写真に撮り続け、その動きを作品にしたものである。太陽の軌跡は見事な8の字(レムニスケート=連珠形)を描いていた。≪午前のアナレンマユ90≫、≪正午のアナレンマユ90≫、≪午後のアナレンマユ90≫(1990)の展示。正午の作品は垂直に8の字を描き素晴らしい作品に変身していた。
これらは野村が「物」からスタートし「地上」、「天空」へと思考を発展させた結果得られたものであり、自然の秩序、法則を見出し、かくも見事にとらえた発想は驚くほかなかった。 |
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上)野村仁 《北緯35度の太陽》 1982-1987年 京都市美術館蔵
下)野村仁 《正午のアナレンマ ’90》 1990年 和歌山県立近代美術館蔵
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「宇宙の相」
「天上」から見た月や太陽の動きをとらえた野村は「宇宙」にまで思考を発展させていく。宇宙の生成、形態はどのようなものかを野村は観察によって作品に反映させた。
COWARAは、Cosmic Waves & Radiation(電磁波と放射)の略。作品≪COWARA≫(1987-92)は、宇宙から放射される電磁波を捉えその波長を音に変換してスピーカーで聞く装置である。室内にスピーカーがいくつも置かれていた。
また、宇宙の生成と形態を可視化できるようガラスで制作していた。作品≪真空からの発生≫(1989)は野村の考える宇宙の姿だろう。興味あるところだ。中央部の窪みはブラックホールかもしれない。でも宇宙ってこんな格好だろうか?ガラスで表現したのは面白かった。 |
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そのほか隕石も登場していた。地球上の生命の起源に隕石がかかわっていたそうである。隕石の衝突によって有機分子が生成され、そこで生物のDNAが形成されたとか。隕石とDNA模型の展示など科学的分野にまで足跡が伸びていた。
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上)野村仁 《真空からの発生》 1989年 京都国立近代美術館蔵
下)野村仁 《Cosmo-Arbor ’06》 1999-2006年
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「太古の相」
「宇宙」は我々が考える時間の観念では到底とらえられない。光年の世界である。例えば1億5000万年前(ジュラ紀)に発した光が今この地球に届いているのだ。その当時の地球上の生物は今では化石の世界だ。作品≪1000万年の接ぎ木氈(2000-2007)が展示されていた。大木の化石を現在の大木を輪切りにした上に接ぎ木したものである。大木を台座にしてその上に化石の大木を埋め込むように載せただけである。なぜか素晴らしい作品となっていた。色、形、肌合いがぴったり似合っていたからだろう。
また、作品≪ジュラ紀の巨木:豊中≫(1998-2000)は、巨木の化石の展示と背後の壁面に地図が貼ってあった。豊中で発見されたものだろう。もしこの大木が現在まで生育していたらどうなっているか。凄い推測である。年輪は1ミリ程。豊中を中心として半径200キロメートルの大木となっているそうであり、地図上に円形を描き示されていた。近畿地方がすっぽり入ってしまう。もしそうだったら大阪も京都もなかっただろう。日本の歴史も変わっていただろう。とてつもない発想で面白い。こんな考えが際限なく見られた。
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上)野村仁 《サンストラクチャー
’99》 1998-1999年
下)植物を育む言語又は‘反照している’を見る
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「未来の相」
思考は「過去」から一転し「未来」にも広がっていった。未来を思考しいろいろな提案をしているようである。1つはソーラーカーの制作とアメリカ大陸の横断である。国内でのソーラーカー制作経験を基に、ソーラーカー≪サンストラクチャー’
99≫(1998-99)を制作。アメリカ大陸横断のプロジェクトを立ち上げ、1カ月かけてアメリカ西海岸から東海岸まで走行した。そのソーラーカー≪サンストラクチャー’
99≫が展示されていた。
また、物質に光が当たるとその物質の性質に応じた特定の波長のみが反射され色として認識される。ある物質を分光器にかけ分光スペクトルを見ると物質により色の配列が異なり組成が可視化できるそうである。ここから生まれたのがバーコードを少し荒くしたような色彩豊かな作品≪Chromatist
Painting≫であり、何点も展示されていた。
植物が緑なのは緑を吸収せずに反射するからであろう。植物にいろいろな色の光を照射し、どんな色に植物が反応するかの実験コーナーがあった。いろいろの植物がガラスケースの中に置かれ、何種類ものきれいな色の光が色別に植物に当てられていた。この実験からいろいろ分かるかもしれない。このような植物とのコミュニケーションは面白い結果がえられそうである。
以上ごく簡単に野村の歩んだ足跡をたどってみた。考えの及ばない広い世界が登場し目まぐるしく変わる様子を見ることができた。野村の思考の広く多岐にわたっているのを見て驚かざるを得なかった。留まるところを知らない情熱のなせるわざだろう。今後も楽しみである。また、この広範囲に及ぶ難しい内容を分かりやすく示そうとする展示もよかった。見ごたえある美術展だった。
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著者プロフィールや、近況など。
菅原義之
1934年生、生命保険会社勤務、退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室作品ガイド)を行う。
ウエブサイト ART.WALKING
・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。
・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。 |

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