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美術散歩

どう見る「マイクロポップ」展

TEXT 菅原義之


「マイクロポップの時代:夏への扉」フライヤー/水戸芸術館









「マイクロポップの時代:夏への扉」図録表紙

 「マイクロポップの時代:夏への扉」展は、美術評論家松井みどりが、現代という時代を的確に観察、分析した上で時代の傾向を読み取り、それを「マイクロポップ」という考え方でくくり、60年代後半から70年代生まれのアーティストにその傾向が見られるとし、例示的に15名のアーティストを選択している美術展だった。
 この「マイクロポップ」展について、いろいろな評価があるようである。よかった、そうでもなかった、よくなかったなどである。何の美術展でも同様でよい評価ばかりではないだろう。私はこれまでになかった素晴らしい美術展だったと思っている。(詳細は拙稿「マイクロポップの時代:夏への扉」展に記載)

 松井は 次のように言う。「日本の現代美術は1990年代、新たな独創と展開の時代を迎えた。欧米の現代美術の基準をそのまま輸入するのではなく、ポストモダン時代の日本の現実に反応する中で、新しい表現や方法が生まれたのである」と。そしてこの時代を時代順に第一世代(杉本博司、宮島達男、森村泰昌)、第二世代(村上隆、小沢剛、奈良美智、曽根裕ら)、第三世代に分け、第三世代のアーティスト(60年代後半から70年代生まれ)に1つの傾向が見られ、これを「マイクロポップ」と呼び、次の2点を強調する。
 一つは、この世代は「イデオロギー的議論や個人的な象徴世界の構築に関心を示さない」とし、もう一つは「マイクロポップの立ち位置とは、ポストモダン文化の最終段階において、精神的生存の道を見いだそうとする個人の努力を現している。それは、60年代に始まり、現在その非人間化の極限に達しているかに見える『進歩』の過程への抵抗なのだ」と言う。
 20世紀後半の美術は、モダニズムの還元化が極度に進み行き詰まりをみせ、作品は極めてわかりにくくなった。「重く」なりすぎたと言っていいかもしれない。この行き詰まりの克服がポストモダン文化を生むことになるが、このポストモダン文化の中で第一世代から順次、シミュレーショニズム、アプロプリエーション、ネオジオ、ネオ・ポップ、具象絵画などを経て第三世代において「マイクロポップ」に至ると考えることができるだろう。ここにきて「重すぎる作品」から一見「より軽い作品」へ、「わかりにくすぎる作品」から「より親しみやすい、面白い作品」へと変わったと見ることもできるだろう。これらの作品こそ若いアーティストが自分の道を見出そうとひたすら思考してきた努力の結晶ではないか。

 「マイクロポップ」は、一見異質なものを境界を越えて結びつける「脱領域化」をキーワードにしている。「こうかと思うと、こうも見える」、「こうであると言い切れない」、「様々な領域ライン上を行き来する」、「ずれの絶妙な感覚表現」などを言うんだろう。例えば、日常生活の変容、未成年の表現、両性具有、ずれの面白さ、おぞましさ・・・などの中に「脱領域化」を見ることができるだろう。そこには驚くほどの発想のよさ、素晴らしさを感ずることができる。 
 このように「マイクロポップ」の考え方は、一地点に立って「静的」に見るものではなく、歴史の流れの延長線上で生み出されたものという「動的」視点に立って見ないと理解しにくいかもしれない。
 一般に美術作品は歴史の流れに乗って見るとわかりやすいと思っている。特に20世紀後半以降の作品はそのように思える。「マイクロポップ」はまさに60年代以降の歴史の流れから幾多の変遷を経て出現したと言えるだろう。

 この美術展を見て「作品が軽い」、「ものたりない」、「誰でも気がつく」、「こんなものが作品?」、「テレビ番組で見るようだ」などの批判もあるだろう。この指摘こそ「マイクロポップ」を的確に言い当てているように思う。なぜならそれがコンセプトだからである。
 「マイクロポップ宣言」を見てみよう。そこには「マイクロポップ」作品の当然通過すべきチェックポイントが記載されている。アトランダムに部分抽出すると、例えば、「主要なイデオロギーに頼らず」、「マイナー(周縁的)な」、「小さな事実をもとに」、「小さな創造」、「日常の出来事」、「子どものような想像力」、「とるにたらない出来事」、「視点の小さなずらし」、「ささやかな行為」などであり、そこに見えるのはこれまでのメインストリームとは全く別のマイナーな視点であり、多様化時代のストリームである。モダニズム還元化の極地からできるだけ離別しようとしている意思が読み取れるかのようでもある。モダニズム感覚を少しでも携えて見るとすれば、「マイクロポップ」には違和感を持たざるを得ないだろう。
 また、これ以外にも同世代で優秀なアーティストが何人もいるとの反論があるかもしれない。「マイクロポップ」は一つの考え方であり、これが全てだと言っているのではない。第一、第二世代あるいはそれ以前の影響を強く受けているアーティストもいるだろうし、アーティスト自身が第四世代かもしれない。独自のコンセプトで制作に励んでいるアーティストも多いだろう。「マイクロポップ」とは別な理論が打ち出されるかもしれない。美術の世界にはいくらでもステージがあり、困難は伴うが誰でも可能性を広げることができるのではないか。

 「マイクロポップ」は、ポストモダン文化最終段階の動向であると松井は言う。そうであればモダニズムの最終段階では前述のように、還元化が極端に進み、わかりにくく重くなった。その克服として誕生したポストモダン、その最終段階では逆に軽くなったという。ここに大きなウエイブが生じていると見ることができ、これこそ景気循環ではないが、美術の流れの循環だろう。まさに世界のステージ上の問題でもあろう。しかもグローバル化時代である。「マイクロポップ」は日本だけに留まる話ではなく、世界の共通問題ではないか。私には詳細不明だが、当然海外アーティストの具体例もあるだろう。そうであれば明治以来欧米の後塵を拝し続けてきた日本が、世界を視野に現代美術論を打ち出したのは、これまでなかったことではないか。と思うのである。


 
著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、生命保険会社勤務、退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室作品ガイド)を行う。

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。

 


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