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美術散歩

“「絵画」とは何か”を考える展

TEXT 菅原義之


「森」としての絵画”展フライヤー/岡崎市美術博物館










「森」としての絵画”展図録/岡崎市美術博物館

 岡崎市美術博物館にて開催された“「森」としての絵画―「絵」の中で考える”展を見た。また、同時開催の対談“岡崎乾二郎X中ザワヒデキ”にも参加した。遠かったけど行ってよかった。作品や対談を通して“「絵画」とは何か”を考えさせられた。いろいろな面から見ていきたい。

1.絵画の“ありよう”を問う
 展示室に入るとすぐのコーナーに岡崎乾二郎(1955〜)の作品が10点ほど展示されていた。画面にアクリル絵具で描いた作品である。筆跡とペインティングナイフ跡、絵具の盛り上がりも際立つ。画面がかなり塗りこまれている作品が多い。一見抽象表現主義絵画のようだ。多色使用、まちまちの方向に流れる筆跡がリズミカルで心地よい。作品によっては筆が踊っているようさえ見える。また、対作品、よく見ると一部左右同内容筆跡が見られ、アレッと思う。しかも色違い。左右の画面に視線が行き来する。典型的な抽象絵画、しばし立ち止まってひたすら見た。タイトルはほとんど読まずに。
 天野一夫の評論だと「モダニズムがやりのこしたままに流産してゆくことに対して、それを単に放置することなく、批判的に今日的に奪い取って独自の表現契機を設定して意識的に持続させ」ているとのこと。こういわれると作品とが繋がる。確かに抽象表現主義的絵画の雰囲気をどこかに残しているように思える。そうであっても筆触、余白、対作品、タイトルなどから彼自身の独自路線をひたすら追求している様子がわかった。

 額田宣彦(1963〜)は「絵画は作家の自己満足で存在し、鑑賞者を考えない内部だけのものとしてきました。しかしながら、絵画が本来持っている開放感、自由をもう一度社会に解き放ち、それをどのようにアプローチしていくかが課題であり、作品を通してより高度なコミュニケーションをとりたい」と。見る側が余計な先入観を持たずに自由な気持ちで、開放感ある状態で見ることができる絵画を描きたいとの意味だろう。つまり余計なものをそぎ落とし見る側に負担をかけない、率直に見られる絵画制作を心がけたいということでもあろう。展示作品を見る限りミニマルが連想されるが、考え方は“作家本位主義でない”新しい視点だ。ポストモダン時代の一面かもしれない。この視点から絵画のありようを追求している。作品も良かった。
 この点岡崎とは全く異なるだろう。年代の違いなのか、両者の絵画は今後も見ていきたい。

2、ドローイング作品
 図録には「ドローイングは、それまでのペインティング(絵画)への従属的な役割を離れ、それに匹敵するもうひとつの重要な表現方法として流通するようになったのです」と。そして「ペインティングの場合、先にあったイメージは、絵具を塗り重ねることによって絶えず描き変えられ、消し去られた運命にあります。しかしドローイングにおいては、先に引かれた線は、後に続く線によって打ち消されることがなく、・・・」と記載。
 法貴信也(1966〜)の作品はこの意味でドローイングだ。単色で彩色をほどこしたり、線に濃淡や太さをもたらしたりして、独特の雰囲気ある絵画を制作している。独立した絵画としての位置づけを確実にしようとしている。ペインティングとは一味違う表現に珍しさと新しさとを感じた。まだまだヴァリエーションの可能性は高いように思う。
 ドローイングとしては、後述の中ザワヒデキの「脳波ドローイング」に通じる考え方だろう。しかし中ザワはモダニズム絵画として考えるべきとしているのに対し、法貴は意識していないだろうが、問われればそうは考えないだろう。両者の着地点は一致するが、モダン、ポストモダンの見方では“対立”が生じるかも知れない。これから先が興味あるところだ。

3、抽象とも具象ともいえない絵画
 ここでは杉戸洋(1970〜)の作品が印象に残った。たとえば、作品“green mountain”。3つのレリーフ状のものがキャンバス上に置かれている。下からレンガ色の丸形、その上に白っぽい四角状、その上に緑の三角の山状のものが画面中央に縦にくっついて置かれている。まるで頭でっかちな変形三重塔のようだ。 “あっ!”地球の断面かも。赤い部分はマグマ、白いのは地球各層、緑の三角は地表面を山で表現。地球の断面を面白い形で作品にしたように思えた。面白かった。
 作品“over the cloud”(当展チラシ掲載作品)。遠くから見ると青い抽象絵画だ。近づいて見るといろいろなものが見える。陸地が見える。木が生えている。初め船かと思った。よく見ると飛行機だ。いろいろなタイプの飛行機がやたらに飛んでいる。きっと現実の地上表現かもしれない。かなりの皮肉を込めているのかも。
 彼の作品は、一見抽象絵画だが、よく見ると現実の世界。面白い発想だ。見過ごしやすいが身近で親しみを感じた。どこか遠くの世界から地球を観察しているかのようだった。

4、具象絵画
 松井みどりによると「97年のニューヨークの近代美術館のグループ展(プロジェクト#60)・・・が大反響を呼び、具象絵画のブームにつながった」と。奈良美智(1959〜)をその中の主流の一人としている。時代の波をつかんだのかもしれない。
 独特の子供の顔を描いた作品。同じような顔つきだが心の状態がわかるようである。じっと見ると何かを訴えかけているようでもある。魅力的なかわいい子供を思い出す。利かなそうで、はにかんでいる。ねだっているのか、訴えようとしているのか。とにかくかわいい。見れば見るほどその表情が感じられた。

5、コンセプチュアルな作品
 中ザワヒデキ(1963〜)は、2005〜2006年にかけて、シアン、マゼンダ、イエローを等量用いた《灰色絵画》を制作したが、今回の《脳内混色絵画》(C1M2Y1)はその系統だろう。このタイプ6点、脳で描いた絵画《脳波ドローイング》6点が展示されていた。
 《脳内混色絵画》は3色がそれぞれの位置を確保しながら交じり合うきれいな絵画である。6点それぞれが微妙に異なる。《灰色絵画》とか《脳内混色絵画》とかの名称からは明るい印象を受けないが、心が躍るような明るい絵画である。また、《脳波ドローイング》は、脳波が可視状となって何本も横に長く線状で記録されている。途中から緩やかな山形が出現するものもある。山とか波が連想される。面白い絵画だ。着想もいい。
 彼の歴史観によると「ポストモダニズムは二元論からの逃走を意図したが、デジタル環境の出現は、モダニズム的な二元論への回帰を我々に要請する」と。色彩と形態の二元論だ。ここから「色彩絵画=ペインティング」、「形態絵画=ドローイング」が導き出されるとしている。したがって《灰色絵画》、《脳内混色絵画》は当然ながら、《脳波ドローイング》も本格絵画だという。珍しいことにコンセプチュアルだが親しみやすかった。

6、絵画の概念を変える
 手塚愛子(1976〜)の《縦糸を引き抜く 新しい量として》、《弛緩する織物》はともに織物を作品にしている。縦糸を引き抜く、織物を解くなどして独特の解体型作品を提示している。大型作品で、両者とも制作(解体)には大変な時間を要したと推測される。
 彼女は「刺繍は私にとって絵画的であっても、一般的には絵画ではない。けれど、そのことはわりとどうでもいい。絵を描いている時にはその構造では成し得ないことを考え、絵から外れたものを作っている時には絵のことを考えている。その相関関係、往還運動のなかで、双方を股にかけた作品が作られる。刺繍性をもつ絵画、絵画性をもつ刺繍」と。自信あふれるこの言葉は頼もしい限りだ。彼女にとっては絵画も刺繍も一体なんだろう。織物も同様だろう。着想がフレッシュで面白いし、作品も見事だった。

まとめとして
 この美術展への出品作家は50年代から70年代生まれの人たちだった。それだけにやや年代的な違いも感じないではなかった。20世紀末から21世紀にかけて、我々一般人にとって絵画はわからなくなったと言っても言い過ぎではないだろう。その中でこのような考えさせられる美術展は参考になった。
 この絵画展を見て、主義、主張が明白だった50年代から70年代にかけての考え方に、多くの作家は内容はともあれ何がしかの影響を受けているように思う。そして主義、主張の明確でないこの時代に、各自が思考を重ね、ひたすら作品制作している姿が、上記1〜6のごとく具体的に読み取れ心強く思った。最近の傾向も類型的に見ることができた。
 最後に身近に感じた作家を5人挙げて終わりにしたい。展示順に額田、杉戸、奈良、中ザワ、手塚だが、ほかの作家もあまり変わらず印象に残っている。今後もこぞって活躍を期したいものである。


 
著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、生命保険会社勤務、退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室作品ガイド)を行う。

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。

 


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