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美術散歩

(続)藤田嗣治とその生き様

TEXT 菅原義之








近藤史人著『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(講談社)



田中穣著『評伝藤田嗣治』芸術新聞社


《横たわる裸婦と猫》1931年 油彩 キャンバス
※このイラストはイメージです。

 埼玉県立近代美術館には「横たわる裸婦と猫」と題した藤田嗣治(1886〜1968)の作品がある。1931年作で藤田らしいところがよく出ていていい作品だ。ガイドをやっていて藤田は人気のある画家だと分かる。質問を受けることがある。「藤田のキャンバスはどのように作られたんですか」、「なぜ藤田は裸婦と猫を描くんですか」の2点が多い。

   藤田のキャンバスについて、近藤史人著『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(講談社)にこんな記述があったのでその要旨を記載しよう。
 1913年パリにわたった藤田は、その後自分はどのような絵画を描くべきかを徹底して考え、ついに日本の浮世絵に到達した。・・・・・藤田は自らの技法を隠し続けた。最近の作品修復の折、はじめて彼のキャンバスが分かった。一般のキャンバスは、まず布の上に膠を塗る。膠の上には一種類の顔料を塗るだけであり、二つの層からできている。ところが藤田のキャンバスは三つの層からできていたそうである。布の上にまず膠を塗り、その上に硫酸バリュウム、さらにその上に鉛白と炭酸カルシウムを混ぜたものを塗った。鉛白はもっともポピュラーな白の顔料で、鮮やかに白い色を出すことから、下地の顔料としてよく使われているものだそうである。一方、炭酸カルシウムは鉛白と同じ白の顔料だが、オイルで溶かすと黄色身を帯びてくる。藤田は、この炭酸カルシウムと鉛白を一対三の割合で混ぜ合せていたのである。と。

 
  また、藤田はなぜ猫を描くか、それには田中穣著『評伝藤田嗣治』芸術新聞社が参考になる。
 「1922年(大正11年)にかけて、スペインの大画家ゴヤの名作《裸体のマヤ》ばりに、両手を頭のうしろに組んだ裸婦があやしく大胆に寝椅子やベッドに横たわる図を、ヌードモデルのキキを使ってあれこれと描き、画面上のその爪先近くに背を丸めた猫を坐らせたりして、これが受けた。そして、このころから《女と猫のフジタ》の名が、パリ画壇に定着する。」  
 これが一つの契機となって猫を描くようになったのではないか。藤田のことだから“これは使える”と思ったのかもしれない。念のため藤田の“裸婦と猫”の作品を50点ほど調べてみた。1921年に裸婦と猫を描いているが、私が調べた範囲では、裸婦と猫とは圧倒的に1922年以降だ。この推測は当たっているかもしれない。また夜遅くパリの石畳を歩いての帰り道でのこと、足に猫が絡みつき不憫に思って連れて帰ってからとも言われている。同時代ではないか。
  1929年藤田は日本からアメリカ経由でパリに帰った。ニューヨーク港で、新聞記者に取り巻かれ質問を受けた。その一つに「なぜあなたは女と猫を描くんですか」だった。すると藤田は、とっさに「女はまったく猫とおなじだからだ。可愛がればおとなしくしているが、そうでなければ引っ掻いたりする。御覧なさい、女にヒゲとシッポを附ければ、そのまま猫になるじゃないですか」。新聞記者はどっと笑ったそうである。藤田はその後これを得意げに人に話したそうである。

1921年藤田はついに成功するが、この時サロン・ドートンヌに出品したのは《自画像》《裸婦》《私の部屋、目覚まし時計のある静物》の3点だった。そのうち《私の部屋、目覚まし時計のある静物》は生涯を通して最も愛した作品の一つだったそうである。戦時中の日本でもずっと持ち歩いた。一度だけ手放そうとしたのは、戦後の混乱の中で日本を離れる直前、おそらく二度と戻らない祖国に残す遺品のつもりで、帝室美術館に寄贈を申し入れた。しかしそれは、美術館から拒否されたことで果たせずに終わる。結局この絵は1951年にフランス国立近代美術館に寄贈されることになった。(「ユリイカ5月号p164」)
 何で断ったのか。アメリカではなく、日本美術会がフジタを戦争責任ありと決議したことについて遠慮したのか。作品の内容ではなかった。おろかなことである。当時の帝室美術館のレベルが疑われる。
 仕事はできる人のところに集まる、とよく言われる。美術作品も分かる人のところに集まる、これはその典型であろう。

 こんなこともあった。1922年(大正11年)日本では第4回帝展が開催された。この時にパリにいた藤田は、パリ画壇でも認められた絶頂期、帝展に作品《我が画室》を出品した。その時帝展審査員は一般公募と同様な扱いをしようとした。これを聞いて藤田の父藤田嗣章が絵画の本場のパリでサロン・ドートンヌの審査員の息子の絵を日本で審査するとは何事だと言って強い態度に出た。その結果やっと無鑑査出品となった。「評伝藤田嗣治」の著者田中譲氏の言では、その理由は「作品のよさが分からなかったのか。それともすぐれた内容には目をつぶり、渡仏前の藤田を三度も落選させていた文展のメンツを重んずる醜態を見せたのか。・・・」とのことである。
残念ながらいずれも黎明期日本のおろかな話である。

 1920年代のパリには、それ以前と違って日本人画家は常時100人から150人に膨れ上がっていたそうである。人が多くなると自然とグループができる。当時は主に2つのグループがあったそうだ。ひとつは藤田嗣治を中心としたグループ、もう一つは福島グループである。
藤田グループは主流派であり、放縦無頼グループだった。そこには柳亮がいた、また福島グループは学究的な集まりであり、藤田グループとは対照的だった。その中心にいたのは福島繁太郎だった。メンバーには熊岡美彦や宮田重雄などがいた。
 1929年藤田は3番目の妻ユキを連れて17年ぶりに日本に帰った。パリでの成功を父に伝えるべく意気揚々として日本に向っていた。凱旋帰国である。しかし実際にはそうならなかった。藤田が日本に到着する直前熊岡美彦が藤田のパリでの放縦生活振りを暴露するような悪い情報を大々的に流していた。
 なぜそんなことをしたのか。熊岡がパリにいたとき日本美術展があった。そこに藤田は大きな作品を二点出した。そのためほかの人の展示スペースが狭くなったと言うことに反抗したのが具体化した理由だったようだ。
 また、戦後のことである。美術界では戦争責任論争が起きた。まず宮田重雄が戦争中は軍部の手先になって絵を描いていた藤田などが、戦後になると真っ先にアメリカ軍のために美術展開催に手を貸したと指弾した。宮田の勘違いもあったが、結局藤田に戦争責任ありと日本美術会で決め付け、内田巌が藤田に伝え、藤田は日本にいられなくなりフランスへ。
 熊岡と言い、宮田と言いパリ時代の他派閥のしこりが嫉妬心となって具体化した好例であろう。ありうる話である。それをなぜ周りが黙認したかである。藤田はあまりにも変わり身が早い、要領がいいなど藤田側にも欠点があったろう。これは好き嫌いの話でこんなことはどこの社会にもある。これと美術作品との内容を混同したことに問題があるのである。評価など難しいことではなかったはずで、当時の美術界のレベルを問いたいものである。
 いやな話が続いた。最後はいい話。

 戦後、関西に「具体美術協会」(1954設立)という革新的美術団体ができた。生みの親は抽象画家の吉原治良(1905〜1972)である。彼は国際的にも通じていた。戦後日本美術の幕開けを担った重要人物といっていいであろう。
1929年藤田が、ユキを連れて凱旋帰国しようとしたことは前出の通りである。17年ぶりである。この時藤田は神戸港から上陸したが、藤田とユキを迎え大阪を案内したのが当時若かった吉原である。
 その後藤田はマドレーヌと一緒に1933年再度来日。この時も藤田はマドレーヌとともに関西で吉原と接している。藤田は自分の体験からであろう。そのつど「人のやらないことをやれ」と吉原に叩き込んだ。吉原はやがて成功し、関西に具体美術協会を設立、そこに集まった若い人たちに藤田の指導と同様「人のやらないことをやれ」と徹底的に教えた。その結果多くの革新的な美術家が生まれることになるのである。いまや知る人ぞ知るで、嶋本昭三、白髪一雄、村上三郎、吉原通雄、吉田稔郎、元永定正、田中敦子、金山明、山崎つる子など具体美術協会のメンバーがそれである。戦後の日本美術史の中で燦然と輝く人たちである。
これらの人たちから直接、間接に影響を受け育っていった若いアーティストも多いのではないか。藤田の精神が現在でも受け継がれているといえるかも知れない。

(注)
東京国立近代美術館で「藤田嗣治展」(会期3・28〜5・21)をやったあとにすぐ「吉原治良展」(会期6・13〜7・30)である。本文最後の内容から推して、なかなか味わいのある感じがする。

参考図書
前回記載分を除いて
「ユリイカ 5月号 特集 藤田嗣治」 青土社
「現代美術逸脱史」千葉成夫著 晶文社
「日本の近代美術入門」1800-1990 井関正昭著 明星大学出版部



 
著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、中大法卒、生命保険会社勤務、退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室作品ガイド)を行う。

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。

 


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