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美術散歩

ドイツ年にちなんで

TEXT 菅原義之

 

 去年から今年にかけてドイツ年ということもあって、ドイツ関係の美術展が多く開催された。見落としもあったが、多くを見ることができた。主なものは、「ジグマー・ポルケ展」(上野の森美術館)、「ゲオルク・バゼリッツ展」(栃木県立美術館)、「ドイツ写真の現在展」(国立東京近代美術館)、「シュテファン・バルケンホール展」(東京オペラシティアートギャラリー)、「ゲルハルト・リヒター」展(川村記念美術館)、「東京−ベルリン/ベルリン−東京展」(森美術館)などである。
 内容のよかったものが多く、ドイツらしい特徴も見られ面白かった。ここでは私の特に興味ある3人の画家(美術家)リヒター、バゼリッツ、ポルケについて振り返ってみたい。

 3人に共通しているのは、旧東ドイツ出身で1961年ベルリンの壁のできる前に旧西ドイツに移住した人たちだった。この壁のできる前は比較的移動は容易だったようだ。
 リヒター(1932年〜)は、1959年に西ドイツのカッセルで行われた第2回ドクメンタ(現代美術展)で、ポロックとフォンタナの作品を見て感銘を覚えたとのこと。これに影響され、1961年(29歳)西ドイツに移住。壁のできる直前だったそうである。
 バゼリッツ(1938年〜)は、1957年、学生時代に、やはりポロックらアメリカの抽象表現主義の展示を見て衝撃を受け20歳のときに西ドイツに移住した。
 ポルケ(1941年〜)にいたっては、物心ついたころはすでに戦後だった。その後ソビエト共産党の支配体制下で12歳まで暮らした後、1953年に西側に移住している。
 3人とも西ドイツに移住して大きな成功を勝ち得た画家である。

 戦争の影響により、戦後、美術の中心は、パリからニューヨークに移った。戦後まもなくアメリカでは、ジャクソン・ポロックを初め抽象表現主義の画家たちが登場した。リヒター、バゼリッツともに前述の通りこれらの作品が移住の引き金になった。
 その後1960年代に入るとアメリカでは、ウォーホル、リキテンシュタインに代表されるポップ・アートが抽象表現主義に変わって登場。リヒター、ポルケは、さらにポップ・アートの影響を受け、“資本主義リアリズム”を標榜してポップ・アートのドイツ版ともいうべき運動をすすめた。
 これらの経緯がベースとなり、それぞれつぎのように具体化されていったといえよう。


「ゲルハルト・リヒター展」(川村記念美術館)/フライヤー
   まず、リヒターの作品である。リヒターは、写真を基にした「フォト・ペインティング」、色見本を並べたような「カラー・チャート」、グレイ一色ともいえる「グレイ・ペインティング」、「アブストラクト・ペインティング(抽象絵画)」、ガラスの作品などを制作、そのタイプは多岐にわたっている。しかも異種のタイプを同時並行的に制作している。ここにリヒターの特徴があるといえるのではないか。今回はそのほとんどを見ることができた。
 白黒の写真を基にした具象作品《ルディー叔父さん》(フォト・ペインティング)の前に立った。すでに雑誌「美術手帖」でこの作品を見ていた。実物は予想より大きかった。リヒター特有の“ぼやけた”作品である。もっとよく見ようとして近づいた。近づけば近づくほどわからなくなり、抽象作品のように写った。グレイ・ペインティングのようにさえ思えた。
 抽象絵画はどうか。何かがその中に隠されている感じである。緞帳(ドンチョウ)が降りているようだ。その向こうに何があるのか、無性に気になる。近づいても、離れてもそれは見えない、そこにいけない。ナンだろうとしばし立ち止まった。
 リヒターの作品は、具象、抽象の別に違いはないように思えた。“ぼやけた”“不確定な”内容、つかもうとしてもつかめない内容、これこそわれわれを魅了するものではないか。
 パンフレット(フライヤー)の中に「『見るという行為』の意味について私たちに問いかけます」とあるがまさにその通りだろう。

 

「ゲオルグ・バゼリッツ展」(栃木県立美術館)/フライヤー
   バゼリッツはどうか。バゼリッツといえば“なぜ倒立像(逆さまの像)なのか”であろう。これには配布された資料が参考になった。(B4版19ページもの、内容は極めて良好)
 資料によると、ルネッサンス以来用いられてきた遠近法に基づく絵画の制作方法を見直し、倒立像を提示することによって絵画の持つ再現的機能とは別の次元で絵画を制作しようとする。つまり絵画の主題から距離をとることを提示しているのであろう。
 倒立像を表面的見れば、やや洗練さに欠けるように思うが、「再現的機能とは別の次元」という意味で、倒立像は実質的には一種の抽象的絵画とか、「絵画の主題から距離をとる」新しい世界の絵画と見るべきだろう。この点で、倒立像に着想を得たという見方は極めて興味あるものだった。
 かつて、カンディンスキーが夕方外出から帰って自分のアトリエに入ったとたんに、見たこともない素晴らしい絵画に直面した。何かと思ってよく見ると自分の絵画だった。しかし、天地が正常にかけられていなかったため、初め何が描いてあるかその“モノ”が分からず、素晴らしい絵画だと思ったとのこと。この体験から描いてある“モノ”が自分の絵をだめにしていると分かり抽象絵画に入ったそうである。
 バゼリッツもカンディンスキーも内容は異なれ、制作過程で“琴線に触れる発見”があり、新しい独創的な世界に到達したのだろう。
 バゼリッツ展はすべて版画作品だったが、作品数が多く、1965年から90年代の初めにまで及び、広い範囲の作品展だった。また、1960年代後半から1970年代前半にかけて倒立像への移行過程も見られるなど興味をそそる美術展だった。

 

「ジグマー・ポルケ展」(上野の森美術館)/フライヤー
 ポルケを見てみよう。作品には、アメリカのポップ・アートの影響が感じられる網点もの、プリント布地をキャンバス代わりにして描いた絵画、抽象に近い絵画群などがあり、その内容に童話、歴史、神話などを取り込む、錬金術を制作に取り入れる(?)など総じて変化に富むものだった。
 錬金術を取り込んだ作品は、特殊な画材を使用、化学反応の結果、画材の変容により、光のあたり方や見る角度によって微妙な色彩の違いが見られるそうである。残念ながら作品を見たときには、そのような知識なく何となく見てしまった。今となっては“後の祭”である。恥ずかしいことだが、それらの作品をぜひ再度見たいと思っている。
 展示作品数は必ずしも多くなかったが、1971年の名作《不思議の国のアリス》から2005年に至るまでいろいろなタイプの作品を見ることができた。
 プリント布地をキャンバス代わりに使用した絵画では、布地のプリント柄とその上に描いた内容とが、たがいに作用し会って素晴らしい世界を表しているなど組み合わせ作品の魅力を実感できた。《不思議の国のアリス》(1971)、《結合》(1983)、《園丁》(1992)などがその好例であろう。また、初めて見た《魔方陣》は正方形のキャンバスに数字が一見ランダムに配列され、数の順に線が引かれるなど面白い作品だったが、それだけで終わり錬金術を駆使した部分を見逃していたとは。

 この3人は、絵画の停滞していた1960年代後半から70年代にかけて、それぞれ独創的絵画を追求し続け、世界屈指の画家(美術家)となった人たちだということができるだろう。さらに歴史問題を作品の主題とするキーファー(1945〜)を加えればドイツ絵画(現代美術)の世界は、素晴らしい厚みを示しているといえるのではないか。あの荒削り木彫のバルケンホール(1957〜)、説得力あるタイポロジー(類型学)の写真家ベッヒャー夫妻(1931/1934〜)ほかを含めれば、まさにその通りだろう。
 ドイツ現代美術の総本山ともいえる“社会彫刻”提唱者ボイス(1921〜1986)の笑みが見えるようである。次世代美術家の活躍も目が離せない。

 
著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、中大法卒、生命保険会社勤務、退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室作品ガイド)を行う。

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。

 


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